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 増穂は、週末には必ず碧水屋に来るようになった。その内、おかみさんたちも心得て、人手が足りている時は増穂の来るのに合わせて小和を休みにするようになった。増穂は、そのまま碧水屋で小和とお茶をすることもあったし、小和を誘って、町の商店を巡ったりもした。


 増穂は尾羽の名物を知りたがった。碧水屋のお茶は勿論のこと、葉茶屋や料亭、養殖魚の釣り堀や尾羽山の景勝地にも行きたがった。彼女の誘いは少し強引なところも確かにあったが、決してこちらを無視するようなものではなく、小和の事情や、気持ちもきちんと汲んでくれた。お店が忙しいときは無理に話しかけては来なかったし、会話をするときも、一方的に話すのでなく、こちらの様子を窺いながら間を取っていることに、しばらくすると気がついた。小和が口下手で、増穂の話をただ聞いていたいときに、色んな話題をくるくると話し続けてくれた。思えば、最初に碧水屋に来たときも、慣れない小和があまり気を遣わなくていいように、それでいてちゃんと付いていける速さで、丁寧に喋ってくれていたのだった。


 尾羽の山道からは一番遠い、町の入り口にある喫茶店で、珈琲コーヒーとカスタプリンを注文した増穂は、いつもの穏やかな微笑みで言った。


「学校のみんなは、あんまり町に出たがらないのよ。校則が厳しいから。校外での振る舞いは、こうでありなさい、ああでありなさい、てね。やんなっちゃう。華族用の全寮制だから、大体のことは寮で事足りるようになっているし、お菓子も本も、実家に頼めば流行のが寮に届くから、みんな、億劫おっくうがって山を下りる気にならないのよね」


「生徒のみなさんは、長いお休みで帰省されるときに、少し立ち寄る方がいるくらいですね」

 小和が答えると、増穂はでしょ、と頷いた。


 増穂は、今日は白襟のついた二藍ふたあいのワンピースを着ていた。白花しろはな色のコートと、同色の手袋を脇におき、長い黒髪は螺鈿細工らでんざいくの髪留めでまとめている。胸には柊の花をかたどった象牙ぞうげのブローチをしていた。


 女給のはるさんが持ってきてくれた珈琲に口をつけ、美味しい、と増穂は一息つく。


「尾羽の町は、お茶も珈琲も、うちで扱ってるものに全く見劣りしないわね。私はここのものの方が好きなくらい。こんなに美味しいのに、みんな、もったいないこと」

「お水が良いんです。尾羽山から町に流れる清水を使っていますから」

「なるほどね。私が実家で淹れても、こうはならないのよ」

「ご実家でも淹れて下さってるんですね」


 小和は微笑む。増穂は、洗練された外見とは別に、言動は全く飾らなかった。できないことをできないと言い、できる人のことを素直に讃えた。


「増穂さんは、どうして町に来ようと思いなさったの?」

 そう訊いたのは、カスタプリンを持ってきたはるさんだった。


 はるさんは、この喫茶店のおかみさんでもある。元々は葉茶屋だったのを、三年前、はるさんの旦那さんが跡を継いだとき、喫茶店に改装した。町では一番早くに洋風建築に建て替えて、町の外から珈琲を買い付け、これが大当たりした。


 ――うちの旦那は、茶葉を見る目がなくってね。それならお前の料理の腕を活かしたい、て言ってくれて、お義父とうさんも、それでいい、て。お義父さんが選んだ茶葉も、店には置いてるから、いつでも買いに来てね。

 開店祝いでおかみさんと来た時に、そう言ってはるさんは微笑んだ。のりのきいた白いエプロン姿が、夏の日差しに美しかったのを覚えている。


「この前の夏の帰省の時に、尾羽のお茶を両親に買って帰ったんです。その時に、お店でお茶を一杯頂いて、それがとても美味しくて。笹岡先生のお話もずっと面白く聞いていたんですけれど、町にひとりで下りるのは誰も良い顔をしないものだから。それで、笹岡先生にお願いしたんです」

 あの日は、そもそも小和さんに会いたくて社会科資料室に行ったのよ、と、増穂は小和に向けて言った。


 小和は赤くなる頬を隠すように視線を下げ、プリンの端をさじでそっとすくう。

 ここは、おかみさんの幼馴染みのお店だった。とはいえ、ここで食事をすることは、小和にとってはかなりの贅沢で、指で数えるほどしか来たことがない。


 つるりとした舌触り。卵を丁寧に溶いた、きめ細やかな味がする。それを一口飲み込んでから、小和は、増穂の言葉を思い出し、少し首を傾げた。


「良い顔をしない……?」

「言ったでしょう、校則が厳しいのよ。校外であれをするな、これをするな、模範的優等生であれ、て。ましてや普通の華族の令嬢は、帝都ですらお供もつけずには出歩かないものだしね」

「でも、増穂さんは……」

「私は、校内でも優等生だから」


 最初こそ笹岡と二人できた増穂だったが、二度目からはもうひとりで碧水屋に来ていた。そのことを小和が口にのぼらせると、増穂はふふ、と悪戯っぽく笑ってみせる。


「自分のことは、自分でしたいのよ」

 言って、増穂は自分のプリンをぱくりと飲み込む。


 増穂は、帝都でも有数の、大財閥の令嬢だそうだ。旧士族の華族でもあり、本来、帝都から離れた山奥の、全寮制の学校に来るような人物ではないのだが、増穂は景観を気に入ったことを理由に、周囲の反対をじ伏せて入学したらしい。成績優秀、品行方正、教師たちからの信頼も厚い。それで、笹岡の口添えを後押しに、こうしてひとりで町に下りるのが許されたそうだ。


「私はね」

 と増穂は銀の匙をひらめかせる。金色の縁取りがされた珈琲カップ、華やかな草木柄の天鵞絨ビロードのソファ。ダークブラウンの床の木目に、格子の入った窓ガラスから、ステンドグラスを通したきらびやかな陽射しが降っている。


「起業したいのよ」


「きぎょう?」

 意味がすぐにとれなかった。増穂が微笑む。

「会社を立ち上げたいの。お父様のじゃなくて、私の」


「まあ!」

 感嘆の声を上げたのは、小和ではなくて、はるさんだった。

「凄い!」

 目を見開いて、はるさんは口許に手を当てている。それがどれほど凄いことなのか、小和には想像もつかなかったが、何か、途方もないことであるのは、小和にも分かった。


「……難しいことなんですね?」

 分からないながらに小和が問うと、増穂も笑って頷く。


「ええ。でも、決してできないことでも、してはいけないことでも、ないわ」

 そうして、はにかむ姿はやはり、新雪に咲く蝋梅ろうばいの花を、小和に思い起こさせた。







 御堂は、日に一度、必ず碧水屋に顔を出した。大抵は午前中で、店の一階の一番端に座って、一杯のお茶を頼んで帰る。特に誰かと世間話をするようなこともなく、ただ、小和の様子を確認して、お茶とお菓子を平らげると帰っていった。


 それでも、小和がりくや笹岡のところへお遣いに行くときには、おかみさんから話が行くのか、必ずついてきた。町の人には、りくに頼まれているから、とだけ伝えているらしい。増穂が小和を誘いに来るのは午後であるし、笹岡のところへ行くときは、学校の正門までついてきて、後は何処どこかへ去るのが常だったので、御堂が二人と顔を合わすことがないのに、小和は正直ほっとしていた。


 御堂が校内に入ることは決してなかったが、しかし、小和が校舎を出る頃には、必ず正門前で待ってくれていた。その間、りくのところへ行っているのか、もとより山のお方なのだから、自分の住処すみかへと帰っているのかも知れなかったが、お遣いのたび、小和が資料室の本を読んでいくことを、御堂は承知してくれていた。それが申し訳なくて、小和はこれまでよりもいくらか早めに切り上げるようにしている。


 本当のところ、御堂が二人をどう思っているのか、小和には分からない。小和が倒れたあの日は、確かに怒っていた。余所よそ者に話してはならぬ、と、笹岡を警戒しているようでもあった。けれどあれは、小和に怒っていたのであって、笹岡にではなかったのかもしれない。余所からの者を毛嫌いしているように見えるが、りくのところへ行くと、栢とは軽口を叩きながらも楽しそうに話しているし、碧水屋の姉さんとも、お茶を頼む際に一言二言、笑って言葉を交わすこともあった。


 小和の用がないときは、御堂は町の南側、茶畑を見て回っているらしい。町の古老達とはどうやらすっかり将棋仲間なようで、夜遅くまで酒宴に呼ばれていることもあるようだったが、町の人の話によれば、御堂は全く酔わないらしかった。どれだけ飲んで、夜深くになっても、白い顔のまま一人で宿に帰るという。小和も、一日一回、午前中には必ず碧水屋に顔を出す御堂が、二日酔いになっている姿は見たことがない。


 りくと栢の綿入れは、小和が碧水屋に戻ってから、御堂とともに生地を買いにいった。碧水屋には女物の生地しかない。町の古着屋で、温かそうな藍のかすりと、葡萄茶えびちゃしまを買い、りくから預かっていた前の綿入れから、綿を移して其々それぞれ仕立てた。栢の分の綿は、使わなくなった子供用の綿入れを近所からもらった。栢は、去年は怪我であまり動けず、結局、尾羽の雪解けまでほとんどを布団の中で過ごしていたので、綿入れを用意し損ねたのだ。


 御堂の綿入れは必要だろうか、と、小和は綿入れを届けがてら、りくに聞いた。御堂が町に来る時の荷物には、なかったはずだった。このときも、御堂は小和の供をして、りくの小屋まで来ていたが、滝の方を見てくると言って、席を外していた。


「大丈夫でしょう。必要であればご自分で買いますよ。お金を稼ぐのは上手いんですよ、御堂さん」


 言われて、小和ははたと目を瞬く。

 言われてみれば、御堂は碧水屋のお茶代をいつも払っていた。宿代にしたって、その出所があるはずだった。


「俺も、街じゃそれなりに稼いでたぜ。異形のもんでも、やりようは色々あるんだよ」

 ま、必要ないからやんないんだけどさ、半分は暇潰しだよ。そう言いながら、栢は後ろ足で立って、前足に綿入れを通して満足そうに鼻息を吐いた。


 山の木々はすっかり色褪せて、枯葉を山肌に積もらせていた。碧水屋の店先に飾られた菊の花弁には毎朝のように霜が降り、夜遅くに本を読んでいると、吐く息が白く煙った。くっきりとした月明かりが煌々こうこうと南の夜空に射し、朝、尾羽山を見遣れば、端の方に白く儚げに引っかかっているのが見えた。


 碧水屋では火鉢を用意し、この時期から、普段の茶菓子とは別に、自家製のお汁粉を出すようになる。


「……美味しい!」

「本当ですか? よかった、今年は砂糖の分量を変えてみたんです」


 碧水屋に小和を誘いに来た増穂に、小和は、お汁粉の試食を頼んだ。はるさんから教わった作り方を参考に、おかみさんや姉さんたちとも相談をして、これまでとは違う配分にしたのだ。今までより少しすっきりした風味のものになっているが、お椀一杯の量を供すなら、このくらいが良いだろうと、みんなで話して決めた。


 増穂はお汁粉の椀を置いて、白い茶碗に注がれた玉露を口に含む。


「あ、小和の淹れたお茶ね」

「あら、分かる?」


 近くの席で給仕をしていた奈緒が、目を瞬かせた。

 確かにお茶を淹れたのは小和だったが、お汁粉の準備をするために、お茶を供するのは奈緒に任せたので、小和も驚いた。


「時々ですけれど。小和の淹れたお茶は、香気が強いというか、深いというか」

「そう、そうなのよね。やり方は私たちとそう変わらないはずなんだけど。時々、はっとするほど深い香りがするのよ……そうでなくても、小和の淹れるお茶は美味しいから、秋の茶会でこの手を披露できなかったのは、本当に残念だわ」


 奈緒がまつげを軽く伏せるのに、小和はそんな、と首を振る。

 香りが強すぎるのは、かえって良くないときがあると、小和は思っていた。お茶の種類にもよるけれど、強い香りは、同時に青臭さも強調してしまいかねなかった。不思議なことに味の方にはあまり影響がなく、町の人たちは美味しいと言ってくれるが、小和には、自分の茶の香りが時折強くなる理由が分からなくて困っている。おかみさんや奈緒たちに、教えてもらった通りに淹れているはずなのに。


「それは勿体ないわね。こんなに美味しいのに」

「増穂さんは買い被りすぎです。姉さんは身内贔屓みうちびいきでこう言ってくれますけど、日によって出来が違うなんて、未熟の証です」


 奈緒は、姉さんたちの中で一番、お茶を淹れるのが上手かった。お客さんの状態や好みを把握して、その時に合った、気配りの行き届いたお茶を出す。おかみさんの淹れるお茶は、どんなときであっても、誰よりも美しく、綺麗な味のするお茶だった。


「厳しいのね。それほど大事にしていることなんだから、誉められた時くらい、自信を持ちなさいな」

 増穂の物言いに、小和は眉を下げる。


 増穂に誘われて、町のあちこちを回ったり、増穂の学校の話や、実家の話を聞くのは、存外楽しいことだった。増穂は小和が大切にしている尾羽の町を、同じように大切にし、楽しんでくれていた。そして、増穂は自分の話を、楽しいことも不愉快なことも、面白おかしく話してくれた。それらは、小和にとって新鮮で、それでいて時々、胸を締め付けた。


 笹岡先生の授業はね、と、いつだったか、社会科資料室に手伝いに行ったときに、増穂が話してくれたことがある。学校へのお遣いに行くときには、休憩時間に、増穂が顔を見せるようになっていた。


 他の先生方は、概論的な……通りいっぺんの教科書通りの授業をなさるんだけど、笹岡先生のは、違うのよね。勿論、教科書の内容は追ってくださるんだけど、よく横道と言うか、ご専門が郷土史だから、これまでに行ったことのある町でのお話とかを、たくさんなさるの。ある時なんか、学校でトランプゲームが流行ってね、寮の部屋にはみんな自分の好きな柄のトランプを其々持っているんだけど、そのトランプを、学校に持ってきてしまった子がいたの。笹岡先生が授業中にそれを見つけて、怒られるかとみんな首をすくめていたんだけど、先生、トランプの背に描かれた宿場町の絵を見て、そのままその町の歴史を語り出したのよ。それがすごく面白くて。いいなと思ったのよね。私も、色んな所に行って、その土地の魅力をこんな風に語ってみたい。広めてみたい。そういう会社を作りたいの。そうしたら、お父様、卒倒しちゃったけど。夏休み中は母と二人でほとんど看病だったわ。どっちが大人なんだかと思うくらい情けない顔をするのよ、お父様。本当の本当の本当に本気か、て、耳ダコよ。


 色んな話を聞くうちに、それは、増穂が努力して笑い話にしているのだと分かった。語り口には表れないような、苦い思いをしたことが沢山あるのだろう。けれど増穂は、反発するのではなく、笑って受け止めて、そしてそれでもなお、諦めていないのだった。起業の難しさは、小和にはいまだにいまいち分かっていないが、その努力が、小和にはとても凄いことに思えた。小和に笑って話すまでに、増穂の中で、どれほどの気持ちが押し込められているのだろう。小和は、増穂が好きだった。


 増穂に誉められるのは、年上の姉さんたちやおかみさんに誉められるのとは、少し違うむず痒さを感じる。町に小和と同じ年の子はいないので、それでかもしれなかったし、それだけではない気もした。


 だからこそ。増穂の言う自信に、自分が本当に見合っているのか。それを考える。


「贔屓じゃなく、小和のお茶は美味しいわよ。私、私の勘に間違いはなかったって、思ってるんだから」

「勘?」

 小和が顔を上げて増穂を見る。増穂は、ふふ、と楽しそうに笑った。


「最初に会ったとき――社会科資料室で会ったときにね。一瞬だったけど、お山とおなじ気配がすると思ったのよ。一年の半分以上をお山の寮にいる私たちより、ずっと。だから、尾羽に一番近しい人なんだろうと思ったの。それで、どうしてもお友だちになりたかったのよ。やっぱりね、小和の淹れるお茶が美味しいのは、だからだわ」


 増穂は傍らに立つ小和の手を両手で握って、目を細める。その胸元に引き寄せて、微笑んだ。


「この指先から、みどりの香りがするんだもの」



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