02 最初の変転
その日、和緒はひとりでぷらぷらと夜道を歩いていた。
手には、コンビニのビニール袋をさげている。日が暮れてから家を出て、夜食を買った帰り道であるのだ。
時節は、春――高校に入学してから初めて迎える日曜日である。
この日、遠藤めぐるは月に一度のお楽しみであるネットカフェに出向くのだと宣言していた。その帰りの時刻にあわせて、和緒も買い物を済ませたわけであった。
今のところ、高校ではつつがなく過ごせている。
まあ、いまだ数日しか登校していないので、確たることは言えないのであるが――それでも和緒は、中学時代よりも過ごしやすい空気を感じていた。
(やっぱり学校の成績ってのは、人間の質とそれなり以上に結びついてるのかな)
端的に言って、高校のクラスメートたちは中学校のクラスメートたちよりも、はるかに落ち着きがあるように感じられた。崩れた身なりをした人間もいないし、あまり大声で騒ぐこともないし――和緒のもとに寄ってくる人間も、どこかお上品に感じられてならなかったのだった。
(まあやっぱり、偏差値70の学校に入学できるような人間は、真面目なやつが多いんだろうな)
とはいえ、それはあくまで比率の問題であるのだろう。どれだけ成績が優秀であろうとも、性格の歪んだ人間はいくらでも存在するはずだ。その生きた証拠が、和緒であった。
(ま、あいつも内面はクソ真面目だから、お上品な人間のほうが相性はいいだろうさ。これからの三年間で新たな交流を構築できるかどうか、じっくり見守らせていただこう)
と、最後にはどうしても遠藤めぐるのことを考えてしまう。
残念ながら、高校では別々のクラスになってしまったのだ。また、清貧の生活に身を置く彼女は駅までの道のりを自転車で通っていたため、登下校をともにできるのも駅から学校までの間のみであった。
まあ、和緒はそれでかまわないと考えている。どっちみち、校内で遠藤めぐるとべたべたする気はなかったし、昼休みや登下校も週の半分だけともにするという方針であるのだ。和緒はあくまでひとりの友人として、彼女の去就を見守るつもりであった。
(だからこれも、見守りライフの一環さ)
和緒はわざわざ大回りして、遠藤めぐるの自宅とネットカフェを繋ぐ道を歩いているのである。これで彼女に巡りあえるかどうかは、いつも通りの神頼みであった。
そうして和緒が、人通りのない街路を右に折れると――果たして、遠藤めぐるの姿があった。
が、背中に大きな荷物を背負って、自転車を押しながら歩いている。その想定外の姿に、和緒はぎょっとすることになった。
(なんだ、ありゃ? ギターケースか何かに見えるけど……)
和緒は小走りで街路を踏み越えて、遠藤めぐるに呼びかけた。
「おかえり。そんな大荷物で、どうしたの?」
遠藤めぐるは和緒以上にぎょっとした様子で、こちらに向きなおってきた。
「か、かずちゃん? こんなところで、何やってんの?」
「夜食の買い出し。この時間ならちょうどあんたと出くわすかなと思って、回り道をしてみたんだよ」
頭を巡らせる余裕のなかった和緒は、皮肉や冗談を織り交ぜることなく馬鹿正直に答えるしかなかった。
やはり遠藤めぐるが背負っているのは、ギターケースであるようだ。黒いナイロン素材で、いくぶんくたびれているように感じられる。遠藤めぐる自身も本日は自前の服であったため、家出をしたギター少女のような風情であった。
ともあれ、遠藤めぐるは疲れ果てているようであるし、和緒との思わぬ遭遇に取り乱していたため、ともに彼女の自宅に向かうことにした。
そうして離れのこたつに腰を落ち着けてから、じっくり話をうかがってみると――何から何まで意想外である。彼女はネットカフェで見知らぬバンドのライブ映像を目にして、落雷に直撃されたような衝撃に見舞われたあげく、このエレキギターを衝動買いしてしまったという話であったのだった。
(ギター……ギターねぇ……ずいぶんとまあ、予想外の方向に暴走したもんだ)
しかし、清貧をつらぬく彼女がこのようなものを購入するというのは、よほどの思いであったのだろう。彼女がどれだけ無欲かつ受け身な存在であるかは、和緒がもっとも理解しているつもりであった。
「で? その素敵なギターとやらは、いくらだったの?」
「そ、そんなに高くなかったよ。このギターは、中古らしいしね」
「そりゃあそうでしょ。食費を切り詰めるようなあんたのやることだからね」
和緒の何気ない返答に、遠藤めぐるは「うー」と頭を抱え込んでしまった。
「ごめん。嘘。すごく高かった」
「あん? なんでそんな嘘をつくのさ」
「かずちゃんに、呆れられると思ったから……でも、嘘をついた罪悪感で押しつぶされそう」
そんな言葉を聞かされては、和緒の心臓が脅かされるばかりである。
和緒は溜息をつくことで心を整えつつ、遠藤めぐるの頭を小突いた。
「あんたがどれだけ無駄遣いしたって、あたしが怒る筋合いじゃないよ。それじゃあ、めいっぱい呆れさせてもらおうか。あんたは弾けもしない中古ギターに、いくら出したの?」
遠藤めぐるは極限まで小さくなりながら、「……はちまんえん」という言葉を振り絞った。
今度こそ、和緒はフリーズしてしまう。彼女は食費を切り詰めてまで貯金をしていたが、その額は三年間で十万円ていどであるという話であったのだ。
(マジかよ……いくら何でも、無謀じゃない?)
和緒がまじまじと見つめると、遠藤めぐるはますます小さくなってしまう。
和緒に叱られたりはしないかと、怯えているかのような態度である。彼女がそんな姿を見せるのも、常にはないことであった。
(……なんだよ。人の説教なんて、いっつも聞き流してるくせにさ)
和緒は平静を取りつくろいながら、彼女の心配を消すための言葉を選んだ。
「うん。呆れるよりも、驚いた。あんたほどの節約魔じゃなくっても、そいつはちょっとためらうような金額だね」
「うん……だからわたしも、わけがわかんなくって……本当に、正気を失ってたとしか思えないんだよね……」
「だったら、返品すれば? あたしが店員を適当に言いくるめて、大事な貯金を取り返してあげるよ」
和緒の返答に、遠藤めぐるは言葉を失ってしまう。都合が悪くなると押し黙ってしまうという、彼女の悪い癖であった。
「返品する気はないわけね。だったら、いいじゃん。思うぞんぶん、ギターヒーローでも目指しなさいな」
「わ、わたしなんかには無理だよぅ。でも……リペアショップの店員さんも、カウンターでギターを弾いててね。あんなにすらすら弾けるようになったら、きっと気持ちいいんだろうなぁ」
と、遠藤めぐるはうっとり目を細める。
これもまた、常にはない表情だ。和緒としては、ますます落ち着かない心地であった。
そうしてすったもんだしたあげく、ようやく遠藤めぐるはギターケースを開帳したわけであるが――そこから現れたのは、ギターではなくベースであった。彼女はギターとベースの見分けもつかないまま、八万円という大枚をはたいてしまったのだった。
(こいつ……ほんとに大丈夫なの?)
しかも彼女は、自分に衝撃を与えたバンドの名前すら確認していなかった。そんな状態で、ライブ映像で使用されていたのと同じ楽器を探し求めて、店員の言われるままに購入してしまったというのだ。和緒としては、いつの間にか姿を消していた子犬が泥だらけの姿で戻ってきたような心地であった。
だが――遠藤めぐるは、とても幸せそうな顔をしている。
いかにも中古品らしく年季の入ったベースを愛おしそうに抱きかかえて、ずっとやわらかい表情を見せているのだ。彼女がそんな姿を見せたことは、この二年間で数えるほどしか存在しなかった。
(……まあ、あんたが楽しいなら、それでいいけどさ)
そんな風に考えた和緒は、早々に離れを辞去することにした。
もうそちらの離れで和緒が為すべきことは残されていない。遠藤めぐるが自分の意思でよちよちと歩きだしたのならば、和緒は先回りをしてその道を整備しなければならないのだった。
とりあえず和緒が最初に着手したのは、遠藤めぐるに衝撃を与えたというバンドの正体についてであった。
しかしそちらは、不発に終わる。その正体を探るには、あまりに手がかりが少なかったのだ。
であれば次は、彼女が購入したエレキベースについてである。
どうもリッケンバッカーというのは高級ブランドであるらしく、たとえ中古でも八万円で購入できるようなものではないらしい。中古ショップのウェブサイトやネットオークションなどで確認してみたところ、いずれも相場は二十万円以上であった。ものによっては、中古でも三十万や四十万――中には、七十万や八十万という値がつくものも存在したのだ。
さらに、リッケンバッカーというのは人気の機種であるらしく、さまざまなコピー品が出回っているらしい。そちらはブランドによって値段もさまざまであったが、中には新品でも六万円ていどで購入できる機種も存在するようであった。
(……まさか、そういう安物の中古品をつかまされたんじゃないだろうね?)
そんな風に想像すると、和緒の腹の底に激情が渦を巻く。
しかしそれは、販売もとに押しかけて確認するしかないだろう。もしも和緒の悪い予想が当たっていたならば、何としてでも八万円を取り返し、適性な価格で新たなベースを購入できるように取り計らうしかなかった。
それは後日の課題として、次はベースの練習法についてである。
遠藤めぐるは中古ショップの店員から教則本を受け取っていたが、そちらもいかにも年代ものであったのだ。昨今は、インターネット上にもっと有効な練習法が開示されているのではないかと思われた。
しかしそちらも、なかなか難儀な案件である。和緒の想像以上に、インターネット上には情報があふれかえっていたのだ。その中から正しい情報をすくいとるというのは、決して安楽な話ではなかった。
(なんだよ、もう。せっかく地獄の受験勉強から解放されたところだってのにさ)
自宅の寝室にこもった和緒は、夜っぴてノートパソコンを駆使することになってしまった。
そうして、翌日――眠い目をこすりながら登校すると、駅を出たところで遠藤めぐるに遭遇する。そちらは和緒以上に、眠たそうな顔をしていた。
彼女は、寝落ちするまでベースの練習に励んでいたのだ。
しかも彼女は、両手の指先に絆創膏を巻きまくっていた。練習のしすぎで、血豆が破けてしまったとのことである。
ギターやベースの練習をしていると、初心者はすぐに水ぶくれができてしまうらしい。ベースの練習法を探る過程で、和緒もそんな情報を目にしていた。
しかし血豆というのは、水ぶくれの先にある症状であろう。それが破けて出血するというのは、尋常な話ではないはずであった。
だが――それでも遠藤めぐるは、幸せそうな表情をしていた。
血のにじんだ指先を恥ずかしそうに隠しながら、心から幸せそうに微笑んでいたのである。
(……そんな顔を他人に向ければ、友達なんていくらでもできるだろうにさ)
和緒はそのように考えたが、別の思いも胸中に蠢いていた。
ベースとは、ひとりで成立する楽器ではない。まあ昨今は、ベースのソロプレイで話題を呼ぶ動画の配信者というのも少なくないようであるが――通信の環境もない遠藤めぐるがそのようなものを目指すことはないだろう。であれば、いずれはバンドを組むという道が開けるはずであった。
(……案外、あたしのお守りタイムは、終わりが近いのかな)
遠藤めぐるが、これほどまでにベースに打ち込んでいるならば――そして、その情熱をバンド活動に傾けたならば――きっと、バンドのメンバーからは確かな信頼を得られることだろう。彼女がこれだけ魅力的な笑顔をさらせば、一定数の人々は必ず心をつかまれるはずであった。
そうすれば、和緒も喜ばしい限りである。
そして――物寂しい限りである。
それは、遠藤めぐるにとってたったひとりの友人である和緒が、ついにその他大勢のひとりに成り下がるという事実を示していたのだった。
(ま、あたしはそのために、あれこれ世話を焼いてきたわけだからね)
そうして和緒は相反する二つの思いを抱え込みながら、遠藤めぐるとともに通学路を踏み越えることになったのだった。
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