05 報復

 不毛な修学旅行は、無事に終了した。

 巨大なボストンバッグを抱えた和緒は、誰よりも早く校門を出る。そしてその足で、遠藤めぐるの暮らす離れを目指すことになった。


 そちらの離れには呼び鈴も存在しないため、和緒は手の甲で玄関のドアを叩く。無反応であったので、十秒ほど置いてからもういっぺん叩くと、カチリと錠前を開く音が響いた。


 ドアが細めに開かれて、遠藤めぐるの眠たげな目がおずおずとこちらをうかがってくる。その目が和緒の姿をとらえて、きょとんと見開かれた。


「あ、あれ……? 磯脇さん……? 修学旅行は、どうしたんですか……?」


「見ればわかるでしょ。飛行機が墜落することもなく、無事に帰還したんだよ」


 和緒が感情を押し殺した声で答えると、遠藤めぐるはぱちぱちと目を瞬かせた。


「それじゃあ、もう三日も経っちゃったんですね……すみません。ずっと寝ていたから、日にちの感覚が曖昧で……」


「ふむ。つまり、仮病ではなかったと?」


「は、はい……起きたら、頭がぼうっとしてて……寒気もひどかったから、熱が出ちゃったんだと思います……」


 そんな風に応じながら、遠藤めぐるはようやくドアを全開にした。

 遠藤めぐるはすりきれたスウェットの上に、古びたカーディガンを羽織っている。そして、いつもおさげに結っている髪が自然に垂らされており――もともと肉の薄い顔が、さらにやつれてしまっていた。


「……それじゃあこれは、お見舞いってことにしておくよ。さあさあ、病人はさっさと布団に戻りなさいな」


「ええ……? でも……まだちょっと、頭がぼうっとしちゃってるんで……」


「だから、見舞ってやろうって言うんだよ。ほらほら、バックオーライ」


 和緒はほとんど遠藤めぐるを押し戻すようにして、玄関口に上がり込んだ。

 遠藤めぐるはぐったりと肩を落としつつ、ガラス戸の向こうまで進んでいく。和緒がそれを追いかけると、部屋の奥に布団が敷かれており、こたつのテーブルには茶碗やスプーンやグラスなどが散乱していた。


(……本当に、仮病ではなかったみたいだな)


 であれば、和緒の内に渦巻く憤懣の思いも、黙って呑み込むしかない。

 和緒が深呼吸でもってその作業に取り組んでいると、遠藤めぐるは力なく布団の上にへたりこんだ。


「あの、今は麦茶も飲み干してしまって……何もお出しできないんですけど……」


「病人が見舞客に気を使ってどうするのさ。いいからあんたは、身を休めなよ」


 和緒は巨大なボストンバッグとともに、布団のかたわらに膝を折った。

 遠藤めぐるは普段以上にぼんやりとした面持ちで、毛布を腰まで引き上げる。そういうひとつひとつの所作も、実にけだるげであった。


「ずいぶんしんどそうだね。熱が出たって話だけど、風邪?」


「さあ……熱が出ただけなので、風邪かどうかは……」


「病院に行ってないの? 熱は、どれぐらいあったのさ?」


「さあ……体温計がないもので……」


 和緒は憤懣とは異なる感情をかきたてられて、身を乗り出すことになった。


「あのさ、こんなときぐらい、じいさまやばあさまを頼れないの? いくら不仲だって、病人を足蹴にするようなことはないでしょうよ」


「ああ……修学旅行を休むには、保護者の確認が必要だったので……一年以上ぶりに、祖父と話をすることになっちゃいました……」


 と、遠藤めぐるは力なく溜息をついた。

 和緒のほうこそ、溜息をつきたい心境である。


「いつも以上に、話が通じないね。三日も寝込んで体調が戻らないのは、まずいでしょ。まだ熱があるんなら、病院のお世話になるべきじゃない?」


「いえ……もう寒気もないので、熱は下がったと思います……ただ、ずっと寝ていたせいか、頭がぼうっとしちゃって……」


 和緒は眉をひそめながら、テーブルのほうに視線を移した。

 茶碗には、若干の水気と米粒が残されている。なんの調理もされていないような、真っ白の米粒であった。


「あんた、栄養が足りてないんじゃない? この三日間、何を食べて生きてたのさ?」


「はあ……最初は起きるのもつらかったので、麦茶や水だけ飲んでました……そのあとは……食材の買い置きもなかったので、ずっとおかゆです……」


「それじゃあ、治るもんも治らないでしょうよ」


 和緒はついに溜息をこぼして、ボストンバッグの中身をあさった。

 そこから取り出された細長い箱を、遠藤めぐるはぼんやりと見つめる。


「それ……なんですか? 可愛い包装ですね……」


「長崎といえば、カステラでしょ。こいつは縁起物の猫の焼き印がされた、その名も『にゃすてら』だとさ」


 遠藤めぐるが仮病でないことを想定して、和緒はそのようなものを購入していたのだった。


「あとで適当なもんを買ってくるから、とりあえずこいつでしのいでおきな。糖分だって、今のあんたにはいい栄養になるでしょ」


「そ、そんな……わたしなんかのために、もったいないです……これ、すごく可愛いし……」


「やかましいよ。病人は、体を治すことだけ考えな」


 和緒は問答無用で包装を剥がし、小分けにされたカステラの封を開いてから遠藤めぐるに手渡した。

 遠藤めぐるは眉を下げながらそれを受け取り、カステラに焼き印された猫のイラストに口もとをほころばせる。


「これ……ほんとに可愛いですね……食べちゃうのが、もったいないです……」


「食べなきゃ、腐り果てるだけでしょうよ。いいから、とっとと食べなさいっての」


「はい……いただきます……」


 遠藤めぐるは小さな口でカステラをついばみ、それから大きく目を見開いた。


「これ……すごく甘いです……」


「そりゃあカステラってのは、甘いもんでしょうよ」


「そうですね……でも、そういえば……甘いお菓子を食べたのは、こっちに引っ越してきてから初めてです……」


 そう言って、遠藤めぐるはまた微笑んだ。

 体調が万全でないためか、普段以上に無防備な笑顔だ。髪をほどいているためか、まるで別人のようにも見えてしまった。


(こいつ……本気で、始末に負えないなぁ)


 和緒は天井を振り仰ぎ、今度は頭上に嘆息をこぼした。

 すると、カステラをついばんでいた遠藤めぐるがまた眉を下げつつ語りかけてくる。


「あの……けっきょく修学旅行を休んでしまって、すみませんでした……磯脇さんは、せっかく班分けのことまで考えてくれたのに……」


「別に、熱を出したのはあんたのせいじゃないでしょうよ。それが本当に、仮病じゃなかったんならね」


「け、仮病ではありません……まあ、病院に行っていないので証拠はありませんけど……」


「だいたいあんたは、普段から栄養が足りてないんだよ。大事な場面でぶっ倒れたくなかったら、食生活を考えなおしな」


「はあ……」と、遠藤めぐるはうつむいてしまう。

 どうせまた明日からは、貧相な食生活を再開させるのだろう。しょせん和緒の言葉など心まで届いていないし、そもそも彼女は充実した食生活を送るだけの資金も持ち合わせていないのだった。


「……あんたさ、もっと重い病気にかかったらどうするの? その電話は、外にまで繋がってるわけ?」


「あ、はい……学校を休むときは、この電話を使ってますので……」


「ああそう。でも、病気でも家族を頼らないってのは危険でしょ。今日だって、あんたの返事がなかったらドアをぶち破ることになってたかもよ?」


「す、すみません……あの、入り口のところの石灯籠に、合い鍵を隠しているので……必要なときは、それを使ってください」


 和緒は、思わぬカウンターをくらった心地であった。


「……そんなもんの隠し場所を、あたしなんかにバラしちゃっていいもんなのかね」


「あ、はい……どうせ盗まれるものもありませんし……ドアを壊されるのは困るので……」


 そんな風に言ってから、遠藤めぐるはまたはにかむように微笑んだ。


「あの……今日はわざわざすみませんでした……なんだか……磯脇さんのおかげで、ずいぶん元気になれたように思います……」


「そんな顔色じゃ、説得力はゼロだけどね」


 内心の感情を押し殺しながら、和緒はそんな風に答えてみせた。

 遠藤めぐるが普段よりも頻繁に微笑をこぼすものだから、和緒も気持ちをかき乱されてしまうのである。そして、そのていどのことで動揺させられるという事実が、腹立たしくてならなかった。


(共依存は、まっぴらごめんだっての。さっさと白馬の王子様がやってきて、こいつを拉致ってくれないもんかな)


 和緒としては、そんな言葉で自分の気持ちをねじ伏せるしかなかった。

 そんな中、遠藤めぐるはずっと静かに微笑んだまま、大切そうにカステラを口に運んでいたのだった。


                ◇


 その翌日である。

 修学旅行の振り替えで休日であった和緒は、昼前から再び遠藤めぐるのもとを訪れることになった。


 ドアを開いた遠藤めぐるは、心からびっくりした様子で和緒を見返してくる。今日はきちんと髪を結っており、顔色もほんの少しだけよくなっていた。


「い、磯脇さん、今日はどうしたんですか? それに、その荷物は……」


「うん。不要品を、処分しようと思ってね」


 和緒は、巨大な段ボール箱を抱えていたのだ。


「とりあえず、中に入れてもらえる? そろそろ腕が限界なんだよね」


「は、はい……」と身を引く遠藤めぐるに続いて、和緒は再び玄関口に踏み込んだ。そのまま靴をぬぎ、四畳半の寝室にまで上がり込んでから段ボール箱を床におろす。


「おや、布団は片付けたんだね。もう寝るのには飽きたのかな?」


「は、はい。ずっと寝ていたから、背中が痛くなっちゃって……それであの、その荷物は……?」


「だから、不要品の処分だよ。一回じゃ、とうてい運びきれなかったけどね」


 和緒は座布団の上に座り込み、段ボール箱の蓋を開帳した。

 そこに収められていたのは、和緒がかつて着用していた衣類である。本日持参したのは、これからの季節に備えた冬物の一式であった。


「どう? あんたはちっこいから、まだまだ着られると思うんだよね」


「ええ? ど、どうしてわたしに、そんなものを?」


「だってあんた、私服はみんなてろてろじゃん。デザインだって、小学生みたいに子供っぽいしさ」


 そんな風に応じながら、和緒はスウェットのパーカーを引っ張り出した。


「まあ、何を隠そうこいつらだって、あたしが小学生の頃に着てたやつなんだけどね。でも、親の趣味で子供っぽくないデザインだから、まだまだいけるでしょ」


「で、でも……そんなものをいただくのは、あまりに申し訳ないですし……」


「あたしは十センチ以上もでかくなっちゃったから、こんなもんは無用の長物なんだよ。古着屋に持ち込んだって大した額にはならないだろうし、そもそも見知らぬ人間に自分の服を着られるなんて鳥肌もんだしさ。それならまだしも、見知った相手に着てもらいたいと思ったまでさ」


 そう言って、和緒は広げたパーカーを遠藤めぐるの上半身にあてがった。


「おー、似合う似合う。サイズも、ぴったり……いや、ちょっとオーバーサイズなぐらいか。あんたは小六のあたしよりちっこいってわけだ」


 遠藤めぐるは、心から困り果てたような顔になっている。

 和緒はそれが目的で、このような大荷物を自宅から運び込んできたのだった。


(あたしばっかり振り回されるのは、あまりに不公平ってもんだからね)


 遠藤めぐるにパーカーを押しつけた和緒は、さらにロングスカートとダッフルコートを引っ張り出した。


「いや、ダッフルはまだ早いか。それじゃあ、パーカーにこのアウターを合わせて……よしよし、色味もいい感じだね。体調が落ち着いたんなら、そいつに着替えて出かけようか」


「ええ? ど、どこに行くんですか?」


「快気祝いに、お昼をおごってあげるよ。あんたには、まだまだ栄養が必要だろうしね」


 遠藤めぐるはパーカーを抱え込んだまま、完全に泡を食ってしまっていた。

 その愛くるしい姿に、和緒は内心で(ざまあみろ)と舌を出す。


 しかし、修学旅行の期間中、ずっと不安と憤懣を背負わされていた恨みは、まだ晴れない。和緒は総身の力を振り絞って遠藤めぐるをもてなして、この上ない気まずさを与えてやろうという思惑である。


 そうして和緒にとっての修学旅行というものは、その翌日になってから本当の終息を迎えたわけであった。

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