200 生きる災厄④
一番……大切な物?
余りに横暴な要求に思わず眉を顰める。前回はこのような要求はされなかった。現れた長身の狐面は薄い笑みを浮かべている。
油揚げの幻影といい、どうやらこの宝物殿の幻影は進化しているらしい。
しがみついたクリュスの鼓動を感じる。しかし、僕は宝具のおかげで快適だった。
一番大切な物……そりゃもちろん、ルーク達の命である。だが、彼らはこの宝物殿にはいない。
僕の心を読んだのか、狐面は穏やかな声で言う。
「ああ、もちろん、今差し出せる物の中で、だ。ついでに自身の命は含まれない。これは――公平な取引だ」
前回の事を思い出す。前回はここが【迷い宿】だという事を知らなかった。当然、幻影の特性も知らなかった。
意図せず迷い込み、その余りに隔絶したマナ・マテリアルの気配に騒然とする僕たちの目の前に、狐面が現れた。
『我らが領域に立ち入った。人が立ち入るのは何年ぶりか――事情はどうあれ招かれざる客だ、迷い人。だが、今すぐにひれ伏し謝罪の意を示すのならば――許しを与えよう』
動けるのは僕だけだった。
マナ・マテリアルの吸収量や蓄積量、そして抜ける速度には個々の差がある。
その高さは強者の資質とも言えるが、同時にマナ・マテリアルから受ける影響も大きい事を示している。才能が空っぽの僕はこの超高濃度のマナ・マテリアルを受けてもちょっと気分が悪いだけで済んだ。例えるのならば、僕は――ザルなのだ。
当時は快適ではなかったが、僕はその幻影の言う通り、躊躇いなく華麗な土下座を決めてやった。許されたのである。
謝罪スキルの有用性の高さに気付いた一瞬だった。そして僕はその頃から頭を下げるのが少し楽しくなってしまったのである。(そして余りのみっともなさにルシアにパンチされた)
【迷い宿】との邂逅は僕に多大な影響を与えた。恐怖に耐性ができたのもこの宝物殿のせいだ。まぁ、今は快適だから耐性とか関係ないのだが。
抵抗はできない。勝ち目はない。何を奪うつもりだ?
目の前の幻影は自身の命は例外と言った。
ならば次に大切な者――もしや、皇帝か? 皇帝陛下の命を奪うつもりか?
今度は土下座では許してくれないのか? 今の僕の土下座スキルはあの時の比ではない。最早芸術の粋に達している。扉絵を飾れるレベルなのに――。
狐面が手を伸ばせば届く距離まで近づく。その腕がゆっくり上がる。
思わず一歩下がる。その指先が僕に触れようとしたその瞬間、狐面の動きがぴたりと止まった。
そのまま、まるで反射のように一歩下がる。
薄い唇が開く。そこから出てきた声は酷く動揺していた。
「…………????? あああ……あれ? もしかして、君…………危機感のないお兄さんじゃない?」
「……違うよ」
危機感くらいあるわ。まぁ今は快適なので快適なのだが、ピンチである事は自覚している。土下座で許してくれないかな……。
狐面が何故か慌てている。左右を確認し、穴の空いていない狐面を近づけ、僕の顔をまじまじと見るような仕草をする。クリュスがぎゅっと僕の背中を掴んでいる。
「いやいやいや、え? なんでいるの? ここは――空だよ? まだあれから……百年も経ってない」
「……うんうん、そうだね」
「どうやって来たの? こっちは高速で空を飛んでるんだッ! 意味が……意味がわからない」
そんなの僕が聞きたいわ。前回も思ったけど、多分僕が悪いんじゃなくて君たちが僕たちを轢いているのだ。馬車が通り道にある石ころを撥ね飛ばすように。
だが、文句など言えない。相手は超越者なのだ。僕は必要なら土下座するだけである。
どうやら相手は僕の事を覚えているようだ。謝ったら許してくれるかも知れない。手をぎゅっと握りしめる僕に、狐面は頭を抱え情けない震えた声をあげた。
「まったく、どうやって、潜り込んだんだよッ! 母が、『生きている間に二度と遭遇することはない』って言っただろッ! こっちは念には念を入れて、人が入らない空に場所を変えたって言うのに……」
…………え?
§
神は全能だ。それ故、自らの言葉に縛られる。シトリーの言葉である。
この宝物殿の神はマナ・マテリアルによる顕現によるものだが、もしかしたら神とはそのようなものなのかもしれない。そう言えば嘘か本当か、かつて帝都跡に存在していたレベル10宝物殿――【星神殿】を根城にしていた異星の神も自らの言葉により自らの力を制限した結果、アークの先祖に負けたという。
危機感のある狐面のお兄さんの先導で最奥に進む。廊下のそこかしこで沢山の狐面がじっとこちらを見つめていたが、案内があるせいか襲っては来なかった。
【迷い宿】は相変わらず、本当の旅館のような内装だった。木製の床に立派な木の柱。朱と白をメインとした内装はどこか東の都にあった神社を思わせる。もしかしたら向こうの出身なのかもしれない。
この宝物殿の幻影の中でもかなり上位にありそうな狐面のお兄さんがフレンドリーに言う。
「何度も言うけど、人間に興味津々なんだ。客なんて滅多に来ないからね。二度も来たのは危機感のないお兄さんだけだ。危機感さんのせいで妹は油揚げが大好きになってしまった。僕は謝罪を求めるのをやめた」
まるで連行するかのように後ろについた油揚げの子は無反応だった。だが、どうやら傷はもう治ってしまったようだ。
「僕たちは公平で公正だ。死を求めなければ死なない。不意打ちで攻撃もしない。危機感さんが殺した新米は――勝手がわかっていなかった。人間の言葉もよくわかっていなかっただろ?」
なんか僕も人間の言葉がわからなくなりそうだ。
というか、あれ、死んでたの? もしかして僕が幻影殺すの初めてじゃない?
ちょっと気が咎めるが……まぁ、自滅のようなものなので大目に見て欲しいところである。
案内された先にあったのは巨大な朱色の扉だった。どうやら宿の構成は……前回来た時と変わっているようだな。
黙ってついてきたクリュスが大きく嗚咽を漏らし、座り込む。今にも死にそうな顔色だ。
危機感のある狐面が呆れたように言った。
「これが、普通だ。危機感さん、頭どうなってんの?」
「僕だって……覚悟くらいしてるさ」
快適ではあるが、宝具は思考を抑制しているわけではない。いつでも土下座する心構えはできていた。
後、危機感さんと呼ぶのやめて欲しい。でも、立場が弱いからつっこめない。
「クリュスは外で待っていて。話をつけてくるから」
強力な幻影は極めて強いマナ・マテリアルから成っている。扉の前に来ただけで死にそうなのに、実際に対面したらクリュスがどうにかなってしまうかもしれない。
快適なのは僕だけだった。皆、『
クリュスが息も絶え絶えに僕を見上げる。今にも吐きそうなのか、目の端に涙が溜まっている。
「安心して、少し話してくるだけだ。なんとかなるさ」
最早ここまで来ると諦めの境地である。僕なんて息の一吹きで消えてしまうのだから、やれることをやるだけだ。
危機感がないとしたらそれは、彼らが奪ったのだ。なんかもうこの場でごろごろしたい。決めた。生きて帰れたら絶対ごろごろする。
狐面のお兄さんが扉を開ける。僕は一度深呼吸をすると、異形の神の元に向かって歩みを進めた。
§ § §
その瞬間、クリュスは自らの死を確信した。その扉から感じられるのは、確信せざるを得ない程に強力なマナ・マテリアルだった。
これまで攻略してきた宝物殿とは余りに違いすぎる。最初の幻影が現れた瞬間に絶望したのが嘘のようだ。
レベル8以上の宝物殿は魔境だと言う。
まさしく、敵は神だ。世界そのものだ。ルールそのものだ。
肉体が動く事を拒否していた。本能が生きることを諦めていた。油断すれば嘔吐してしまいそうで、一歩も動けない。
理解できた。クリュス・アルゲンという器がマナ・マテリアルで満ちてしまったのだ。
マナ・マテリアルの許容量は本人の成長によって向上する。これまで少しずつ確かな歩みで成長していったクリュスにとって、こんな状況は未経験だった。
時間が経てば成長し器も拡張されるはずだが、たとえ拡張されたとしてもこの場所ではすぐに満ちてしまうだろう。
だが、そんな中、ヨワニンゲンは顔色一つ変えていなかった。
ヨワニンゲンは弱い。ある程度慣れれば、身に秘めたマナ・マテリアルは看破できる。少なくとも、ヨワニンゲンの持つマナ・マテリアルはクリュス以下だったはずだった。
だが、実際にこうしてクリュスはうずくまり、ヨワニンゲンは平然と扉の向こうに進んでいる。
一体どれだけの器があればそれが可能なのか、クリュスには想像すらできない。
だが、きっとこれこそがレベル8――人外の域なのだ。
たとえレベル8でも、とても生きて帰れるとは思えなかった。この扉の奥に潜む怪物がどれほどの代物なのか、想像すらできなかった。
だが、何故かクリュスには不思議な確信があった。
ヨワニンゲンは――きっと帰ってくる。
うずくまり指一本動かす事にすら苦労するクリュスに、扉の前に残った長身の狐面が静かに笑い、言った。
「心配はいらない。危機感のないお兄さんはルールに憎たらしいくらいに従っている。普通の精霊人、君は、むしろ自分の事を心配するべきだ」
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