199 生きる災厄③

 クリュス・アルゲンのハンター歴で間違いなく一番のピンチだった。


 マナ・マテリアルの濃さだけで吐き気を催すような遥か格上の宝物殿。使い慣れた杖はなく(二本持つのは難しかったし、そもそもこんな事になるとは思っていなかった)、塗りつぶされたルールはまともに魔力を練ることすら許さない。まさしく絶体絶命だ。


 クリュスは魔導師だ。身体を動かすのは苦手ではないが、魔法なしでは戦えない。

 このままでは足手まといだ。もしも敵が現れたとしても、満足に護衛もできないだろう。そもそも周りを宝物殿に囲まれた時点で詰んでいるような気もするが――。


 皇帝の権威も宝物殿では通じない。ここに至って、頼りになるのはこの宝物殿の事を知っているらしいヨワニンゲンだけだった。


 だが、守られているばかりではいられない。精霊人としてのプライドがある。

 いや、守られるだけならばいいが、足を引っ張る事は我慢できない。


 震える手を握りしめる。どうしたらいいか、わからない。魔法なしでクリュスにできる事なんてない。武器だってない。考える事はできるが、それだって神算鬼謀には程遠い。


 そこで、クリュスは先程のテルムの動きを思い出した。


 攻撃魔法を発動できなかったテルムは即座に身体能力強化に切り替えた。


 慌てて魔法を使う。攻撃魔法ではなく、身体強化の魔法だ。魔力というエネルギーを力に変換する初歩的な魔法である。

 魔力が身体を巡り、身体の芯が熱くなる。震えが収まり、力が漲っていく。


 そうか。宝物殿のルールは体内までは適用されないのか。

 まともな魔導師は魔法が使えない宝物殿に潜ったりしないが、そういえばそんな話を聞いた事がある。

 マナ・マテリアルにより塗り替えられている宝物殿のルールは、同じくマナ・マテリアルで書き換えられるのだ。


 これなら――戦える。いつもとは違う魔力操作に身体に少し痛みが奔るが、アミュズナッツを食べた状態で魔力操作を行った時に比べればずっとマシだ。ここ最近行っていた訓練が実を結んでいる。

 精霊人の魔術に対する適性は極大だ。魔力量も人の比ではない。長くは持たないが、今のクリュスの身体能力は近接戦闘職に匹敵するはずだ。


 もちろん、この宝物殿の幻影に勝てる気はまるでしないが――。


 ヨワニンゲンはクリュスの抱いた当然の畏れを全く意に介する事なく、部屋の外――宝物殿に塗りつぶされ変化してしまった空間に足を踏み出していた。


 一人で行くのは自殺行為だ。先程は勝てたが、クリュスには幻影とヨワニンゲンの格の違いがはっきり見えていた。

 決してそれだけで勝負が決まるとは思わないが、マナ・マテリアルの強さが違いすぎる。竜と蟻だ。この非常事態を切り抜けるには協力したほうがいいはずだ。



「ッ!?」



 その後を追おうとしたその時、クリュスはそれに気づき目を見開いた。


 ヨワニンゲンの足元に金髪の狐面の幻影が現れていた。

 しかもその身から感じる力は先程現れた幻影よりも遥かに上だ。一見華奢に見える肉体にはこれまでクリュスが戦ってきた幻影がただの幻に見えるような膨大なマナ・マテリアルが秘められている。それは、先程の幻影が――死亡時に発散されるマナ・マテリアルの残滓でフランツを嘔吐させたあの幻影が、ボスでも幹部でもなく、ただの雑魚である事を示していた。


 『丸い世界ラウンド・ワールド』を杖代わりに、震える足を叱咤し、前に進む。止まれば二度と立てそうになかった。そんな無様な姿を見せるくらいなら前に進んだ方がいい。


 皇帝の護衛の事を考える余裕はなかった。ここに至れば、クリュスなどいてもいなくても同じだ。ならば、ヨワニンゲンについていって一緒に事態の解決を図ったほうがまだ勝ち目がある。


 幻影が言う。



「油揚げが欲しい。油揚げをくれないと攻撃する」



 冗談のような言葉だ。だが、手に持った宝具は、その言葉が先程とは異なり言葉通りの意味を持っている事を示している。


 油揚げ――何故油揚げなのかは知らないが、持っているわけがない。


 だが、クリュスは思う。ヨワニンゲンならば持っていてもおかしくはない。

 食料を積み込んだのはヨワニンゲンなのだ。この宝物殿を知り尽くしたヨワニンゲンならきっと――。



 ヨワニンゲンはしばらく黙って足元の幻影をみていたが、すぐに半端な笑みを浮かべた。



「ごめん、今回は持ってない」

 

「!? ふざけんな――」


 ですッ! そう叫びかけた時には既に終わっていた。


 一陣の風が吹いた。全身に衝撃と痛みが走り、呻き声をあげる。その時ようやく、クリュスは自分が壁に叩きつけられた事に気づいた。

 だが、身体が軋むが、魔法で強化していたのでダメージは大きくない。咳き込み、杖をつき必死に体勢を立て直す。


 クリュスが受けたのはただの『余波』に過ぎない。狐面の細腕は間違いなくヨワニンゲンに振り下ろされていた。

 魔法ではなかった。それは、ただ腕を振り下ろしただけだった。

 高濃度のマナ・マテリアルにより生み出された幻影は時に鍛え上げられたハンターを掠っただけでばらばらにするような怪物じみた能力を発揮する。


 顔をあげたクリュスの目に入ってきたのは――先程と何ら変わっていないヨワニンゲンと、倒れ伏す狐面の姿だった。



「!?」



 ありえない。クリュスが最後に見た光景は狐面の攻撃だった。それが効かないだけならばともかく、狐面の方が倒れ伏すなどありえない。

 面に覆われていない唇の隙間から一筋の血が流れる。白い緩やかな着物に朱が広がる。膨大なマナ・マテリアルから成り立っている身体が小さく痙攣する。伸ばした腕。その指先が力なく震えている。



「!? 何をやった、です!?」


「いや、僕は何もしてないけど……」



 ヨワニンゲンが戸惑ったように言う。その手には血の一滴もついていない。

 《千変万化》の手口は謎に包まれていると言われている。だが、目の前の光景はそういうレベルではない。


 目の前で起こったはずなのに、理解できない。


「か、隠すな、です」


「え??? いや、隠してなんてないけど……」


 ヨワニンゲンは本気だった。その表情に嘘は見えない。


 その瞬間、クリュス・アルゲンは理解した。

 ヨワニンゲンは隠しているのではない。隠していないのに、誰も理解できないのだ。優れた魔導師の技が新米の魔導師には全く理解できないように。


 どこまで本気なのかはわからない。が、強い。違いがわからないくらいに。


「ヨワニンゲン、とりあえず色々聞きたいことがあるが、一個だけ確認する、です! お前、この宝物殿のボスを倒せるのか、です?」


「…………いや、無理だよ」


 ヨワニンゲンがひざまずき、痙攣する狐面の幻影に触れている。そして、いつも通りヨワヨワしい表情で言った。




§ § §





 何がなんだかわからない。クリュスが色々言ってきたが、僕にもわからないのだから、答えようがなかった。


 幻影が勝手に倒れて血を吐いた。僕に起こった事を説明すると、そうなる。結界指も減っていない。


 この宝物殿の幻影は強く賢い。どのくらい強いかと言うと、前回遭遇した時には僕の幼馴染たちが手も足もでなかったくらい強い。

 僕では無防備な所に一撃を当てたとしてもかすり傷一つ付けられないだろう。存在の格が違うのだ。


 僕はとりあえず倒れ伏し痙攣している幻影の近くにしゃがみこんだ。


 どうやら完全に戦闘不能のようだ。まだ死んではいないが、指一本動かせないようである。


 狐の面が僅かに傾き、僕を見上げる。


 と、そこで僕は目の前の幻影に見覚えがあることに気づいた。


 この幻影――僕が前回やってきた時に、出会った奴だ。

 その時はもう少し身体が小さかったし、要求も『美味しい物をくれないと攻撃する』だったが、この髪の色と髪型、間違いない。


 その時、僕は偶然持っていた油揚げ(というか、いなり寿司弁当)を与えたのである。直前に滞在した町で買ったものだったのだが、どうやら……随分気に入ったようだな。

 二個、三個と求めてきたので予想はしていたが――ああ、なるほど。




「もしかして、約束を忘れてた?」



 そうだ。そうだった。あの時、僕は確かにこう言った。約束したのだ。


 おかわりをあげる代わりに、もう二度と僕やその仲間たちに攻撃しない、と。

 そして、この幻影はそれを呑んだ。【迷い宿】の幻影は『嘘をつかない』と、確かにそう言っていた。


 ぐったりと地面に投げ出された指先がぴくりと僕の言葉に応えるように動く。


「………………これが日頃の行いか」


 嘘をついてしまうと倒れるのか。難儀な幻影だ。


 しかし、恩は売っておくものである。

 とりあえず、死にはしないだろう。倒す術もないけど、むしろ殺してしまうと他の個体に恨まれるかもしれないから殺さない方がいい。


 神故の横暴と不遜。暴力的な等価交換。

 この宝物殿は鏡だ、と、かつてこの宝物殿で出会った幻影は言っていた。

 求める物は与えられ、しかし代償として求められる物を与えねばならない。


 故に、僕は生き延びる事ができた。


「仕方ない、僕の力を見せてやるか」


 僕だって成長はしている。今の僕の土下座スキルはあの時の比ではない。

 謝って許してもらうことにかけて僕の右に出るものはいない。


 快適に笑みを浮かべる僕に、クリュスが素っ頓狂な声をあげた。


「ヨ、ヨワニンゲンッ!!」


「え……?」



 我に返る。いつの間にか、僕たちは見渡す限り無数の狐面に囲まれていた。

 立ち上がる。廊下はもちろん、壁に、天井に張り付いた無数の狐面。その数――百やそこらではない。


 目の穴がなく目と目が合わないのが幸運だろうか。


 僕たちが出てきた扉は消えていた。逃げ場はない。

 真っ青になったクリュスがふらつき、まるで背中を預けると言わんばかりに、背に背を押し当ててくる。



 僕は小さくため息をつくと、快適の余り苦笑いを浮かべた。




 …………詰んだ。こんなに沢山いたのか……。






 幻影の波が割れる。割れたその先にいたのは、青い印の入った狐面を被った、長身の幻影だった。

 代表者なのだろう。他の幻影よりも格上のようだが、力を読み取る事にかけては皆が右に出る僕には差がわからない。


 狐面が足音を立てず、滑るように近寄ってくる。

 背中を預けたはずのクリュスが背中にしがみついている。淡々とした声がかけられる。流暢な言葉だった。


「ようこそ、僕たちの宿に、客は久しぶりだ。何、怖がる必要はない。皆、久しぶりの人間に興味津々なだけだよ。安全は保障する」




 そして、その口元が皮肉げな笑みを浮かべた。




「代わりに、君の一番大切な物を貰おう」

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