童話のifは異世界で ④

 ◇


「一時間ぶりですね。ご機嫌いかがですか?」

「……あ?」


 脳に風が吹き込むような感触が巡った。生ぬるい風で、脳を直接逆撫でされるような感触。


 気持ち悪い。

 そんな一言では、到底片付けられない。


 瞭雅はのたうち回った。鋭利な枝が腕に刺さろうが、限界まで握りしめた拳から血が流れようが、近くの樹木に頭を打ちつけようが。むしろそれが唯一の処方だった。一瞬だけ、気が紛れる。でもやっぱり一呼吸する間もなく効果が切れて、底なしの飢餓に喰われてしまう。食欲だけが絶対的強者だった。かき集めた痛みも、怒りも、やるせなさも、弱肉強食の場では餌でしかない。早く正気を失ってしまいたかった。さっきみたいに。衝動に身を任せるのは楽だった。なのに、

 なんで。

 なんでこんなにも静かなんだろう。


「ご機嫌、よろしくないようですね」

 赤ずきんの涼しい声が気に障る。


 ああそうだよ。よろしくねぇよ、クソが。我関せずって顔してやがるがテメェのせいだからな。少しでも信じた俺が馬鹿だったわ、この大法螺吹おおほらふきが。


 脳内を駆け巡る罵詈雑言ばりぞうごんは、声になる前にすべて喰われてしまった。

 代わりに瞭雅の喉を震わしたのは、縋るような叫び。


「なっ、んなんだよぉ……これぇっ!」


 自傷の末に額から液体が伝う。片目の視界を赤錆色に汚す。ヘモグロビンと脂肪酸が反応した臭気が不快感を助長する。口端から鉄分の味が入り込む。赤ずきんが瞭雅のそばでしゃがんだのが音でわかった。わかってしまう。


 どれだけ飢えに苛まれても、頭の機能はどこまでも正常だった。その事実こそがおかしいというのに。


 狂った正気。陳腐なオクシモロンだが、今の瞭雅を表すのにこれほどピッタリな言葉はなかった。


「どういうわけか、私たち人間がこちらの『世界』に訪れる際、何らかの特殊能力が宿るんですよ。その飢餓感は、あなたの能力の副作用ですね。あなたに宿ったのは、やはり『すべてを喰らうモノオムニ・グラトゥン』──文字通り、世界のすべてを喰らうことができるようになります。例外なく、ね」


 至って鮮明な脳は、赤ずきんの長ったらしい説明も問題なく咀嚼する。


「どう、すりゃ……いいんっだ‼︎」


 馬鹿だとはわかってる。一回騙されたくせに、まだ赤ずきんを信じようとしてるなんて。けれど縋らずにはいられなかった。たとえ相手が悪魔だとしても、この飢えから逃れられる可能性があるならば。


 それでも、

「食べればいいんですよ。この樹なんてどうですか?」

 瞭雅の切実な願いは届かなかった。


「なかなか立派ですし、多少はお腹に溜まると思いますよ」

「ふっ、ざけてんのかっ‼︎」


 相変わらず嘘っぽい笑顔を貼り付け、笑えないジョークで瞭雅を掻き乱して、そして、

「至って真面目ですよ」

 真摯な表情を取り繕って、誑かす。


「言ったでしょう、すべてを喰らうことができるって。あなたが喰らうのは、樹という物質ではなくて、樹という概念であり存在です。口を開けて樹に噛みつけと言っている訳ではありません。あなたはその飢えに任せて、ただ目の前の樹を喰らえばいい。ほら、お腹空いたのでしょう? 概念に美味しいも不味いもありませんよ。あなたは飢えを満たすだけです。気に入らないなら、この樹じゃなくても構いませんよ。食欲を満たせればなんでもいいんですからね。そうだ。あそこに留まってる鳥とかはどうでしょう。やっぱり、最初は食べ慣れてる生き物から行った方が抵抗がないかもしれません。どうですか? お気に召しませんか?」


 赤い星が覗いてくる。

 それは血よりも濃くて、鮮やかで。

 一瞬、呼吸も、瞬きも、飢えさえも忘れていた。


 赤い嘘が近づいてくる。

 瞭雅は逃れようとするが、一途な瞳がそれを許さない。嘘にまみれた視線に、微笑に、言葉に、瞭雅は呪いのように縫い付けられる。顔を背ければ済む話なのに、赤子のように素直に見つめ返す。


 それから赤ずきんは、

「ああ」

 瞭雅の犬歯に、

「それとも」

 指を、

「私を味見したい?」


 鉄分の味がした。


「ヘタレ」

「……うるせぇ」


 大きく変わったところは特にない。赤ずきんは五体満足で煽ってくるし、瞭雅がカニバリズムに目覚めたわけでもない。強いて言うならば、赤ずきんの背後が随分と見晴らしが良くなったことや、多少は空腹が治まったこと。あとは、


「とにかく、グッド・ボーイ。よく食べられました」


 自分がもう抜け出せないほどどっぷり浸かっているのに、瞭雅が気づいたことぐらいだろう。


「俺、どうなっちまってたんだ?」

「一時間ほど暴れ回った後、私があなたに特殊な首輪を嵌めて強制的に理性を引き戻しました」


 赤ずきんが二度自分の首元を突ついた。その手には真紅の鎖が握られている。赤ずきんと同じ動きをすると、サラッとした手触りを感じた。大半が革でできていて、所々は金属製。首の周りを囲うような形をしていて、小さな穴が規則的に空いている。オーソドックスな、イヌの首輪。


「鎖は消せるので、外さないでくださいよ。まあ、外せないと思いますが」

「わかってる」


 思い出すのは、陽気な口笛が奏でる暴走の音。あれが街中で流れていたと思うとゾッとする。フィクションだとしても、さすがに共喰いはゴメンだ。


 親指を犬歯に当ててみると、チクッとした鋭い痛みが走る。そのまま手首を曲げると、赤い斑点と目が合った。鋭い爪が当たらぬよう慎重に人差し指で拭ってやると、溝は汚れたままだが腹が姿を現す。傷は、もうなかった。


「……俺、どうなっちまったんだ?」

「先程話した能力に加え、五感を含めた身体能力や治癒能力も大幅に上がっているはずです。それと、」


 赤ずきんの手が伸びてくる。警戒して半開きの口をキュッと結んだが、目的は牙ではないようで、進路が横に逸れた。


 その先には、

「イヌ耳」

「は?」

「あと尻尾」


 右耳に手を伸ばす。期待していた肌触りはなく、予期していた毛触りはあった。弧を描いているはずの耳輪はピンっと尖り、代わりに内側にいたはずの凸凹たちは、みんなサラサラになってしまった。意志と乖離してピクピクと動くのが気色悪い。


 おっかなびっくりケツに視線を向ける。視界を占めたのは灰色の何か。

 尻尾だ。紛うことなき尻尾だ。ズボンと腰のわずかな隙間から、かなり窮屈そうにしている。なぜ今まで気づかなかったのか。それとも、気づかないほどに馴染んでいたのか。


「お似合いですね、オオカミくん」

「ははっ、」


 笑うしかなかった。なんだかどうしようもなく込み上げてきて、漏れ出た笑みを皮切りに、柄にもなくゲラゲラと大笑いしてしまう。上体を倒し、背中で大地と尻尾を感じながら、声を上げて転げ回る。そろそろ息が苦しくなったぐらいで、ふと我に帰ったようにピタッと動きを止め、

「あー、おかしい」

 そう呟いた。


 赤ずきんは黙ったまま瞭雅の横でしゃがんでいる。そして何か思い出したかのように、「ああ」と人差し指を宙に向け、

「あとは、髪と目の色ですかね」


 それを瞭雅の瞳の方向に折った。

「色?」

「髪は灰白色に、前髪だけ濃灰色」

 うまく想像がつかずに眉を顰めていると、赤ずきんが「ハイイロオオカミみたいな感じです」と付け足す。


「そして、狼の目ウルフ・アイズ。見事な琥珀色ですね。耳と尻尾はおそらく一時的なものですが、髪と目はそのままなんじゃないでしょうか」


 こっちは簡単に頭に思い浮かんだ。あくまで想像でしかないが、琥珀色の瞳って結構

「ちょっとカッコいいとか思いました?」

「思った。つーかちょっとじゃなくて、結構。実際イケてるだろ?」


 自信満々に笑ってやると、赤ずきんが不意を突かれたような顔をする。それを隠すように顔を自分の足にうずめ、

「……随分と従順になりましたね」

「せめて素直になったと言ってくれ」


 別にお前のからかいなんてまったく効いてませんよ、ってアピール。結局これだったようだ。


「それで、譚訂さん? これからどーすんですか?」

「本当に素直になりましたね。どういう心変わりですか?」

「どういう心変わりだろうな?」


 素直になったってのも、ちょっと違う。ただ吹っ切れたんだ。疑心も、不信も、とりあえず全部呑み込んだ。前に進むために。日本に帰るために。


 はぐらかす瞭雅に赤ずきんはジト目で睨んできたが、諦めたように息を漏らし、

「まずは拠点に向かいましょう。調査は明日から。この『世界』の今日は二月一日で、『春の邂逅』が日本の立春のことならば、タイムリミットはあと三日ほどです」

「だいぶヘビースケジュールだな」

「ええ。明日は午前中にスノウに会いに行きましょう。彼女が主人公とは限りませんが、キーパーソンではあるはずです。あと、だいぶ怪しいですし。この『世界』には魔術と呪術があるんですが、不死になれたりするほど何でもありではないはずなんですよ」


 原作での立ち位置が主人公だろうが何だろうが、ここでは関係ない。なんなら、白雪姫が黒幕の可能性だってあるのだろう。


「それで、いきなり会ってどうすんだ? まさか拷問でも?」


 赤ずきんならやりかねないと思った。容赦なく白雪姫を撃ったし、なんてったって相手は不死だし。


 けれど彼女は首を左右に振り、

「いえいえ、私がそんな物騒なことをするような女の子に見えますか?」


 うん、スッゲェ見える。なんてセリフはグッと飲み込み、代わりに吐き出した「じゃあどうすんだよ」という瞭雅の問いに、赤ずきんは口元に微笑を漂わし──否、戯笑で歪めた。言葉では否定したがもうわかる。これは何か、えげつないことでも企んでいる時の笑みだった。


「会って────殺しに行きましょうか」


 愉しげな眼差しを残しながら、赤ずきんは歩き始める。青っぽい草と土の匂い、風が木枯らしを運ぶ音、寒そうな木々の緑と、赤を纏ったその小さな背中。瞭雅は堪らずに、またひとつ笑い声を上げた。


 ほら、やっぱりな。あの評価は妥当だった。

 うちの譚訂はサイコウに狂ってやがる。

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