8

 あれはいつだったろう。

 俺が二十代前半、大学生の頃か。その頃のある晩、文字通り死にかけた事があった。

 その日に出された夕食の何かが当たってしまったのか、俺は食物アレルギーらしき症状を引き起こした。

 これまでアレルギー持ちの自覚なんてなかったので俺の身体に何が起きたのか分からずただ自室でのたうち回った。

(あっ俺このまま死ぬのかな)

 その瀬戸際に立ったら何を思ったか?

 まだ死にたくないだった。

 ここからどうすれば生き延びられる? どうすればこの症状は治る? それらのことでいっぱいだった。

 両親には告げることなく、数時間ほどでなんとかおさまり死なずには済んだものの自分があれほどまでに生きたい、まだ死にたくないと切望したのはあれが初めての事だった。

 自由に体を動かせる、健康体であるのがどれだけ素晴らしいのかも深く浸透した。

 以後、恒例のように憂鬱になってここからドロップアウトしたくなっても、あれだけ生きようとした俺の勇姿が走馬灯のように回り、なんとかそこから復帰できるようになった。

 人間は複雑な感情を持っても、死の危機に直面したらそのごちゃまぜの感情とは関係のないところでいきなりがやってきて生きろと鼓舞するのか?

 その、そいつさえ万策尽きて死ななければいけないとはどれほど熾烈な修羅なのか。

 どんな命でさえ、今野さんにとっては仇でも、生きたかった命を跡形もなく燃やしてしまったのは大きな反動があったようだ。

 俺も物悲しさがまとっている。

 今野さんがフラッと傾く。それを素早く受け止める。

「大丈夫ですか?」

「やっちゃったね。躊躇ちゅうちょする気なんて毛頭なかったけど、あとに残るのは……これも同じ事なのかな。私と同じくに眠っていてそこからせっかくめたのに……なのに、なんで殺し合うんだろうね?」

 なぜ殺し合うのか?

 それはもう人間も何千年前から、数え切れないほど問いかけてきたものだ。

「これで、これで私が醒めた意味、役目は終わりなんだよね。石田っちもいるしちょっと休みたいかな。あの木へ連れて行って。嫌な事があったら気兼ねなく休めるのが私の世界の良いところ……」

 そんなこと言わないでくれ。

 あの柏木のように首を垂らして諦観したように目を閉じている。

 せっかくお姫様抱っこをしているんだからもっと、ときめくことはできないのか……。

 脆い宝物ほうもつのようだったのでそっと収納した。

 余白が埋まり今野さんはその木と一体となる。

 美しい彫刻のようだ。まさに、死ぬほど美しい。

 彼女は上向きになって何を祈っているのだろう。

 俺は女々しく、その木を抱きしめて惨めにおいおい泣いた。

 このまま、このままそのモニュメントでも何でもなって、ここを終わらせてもいいのかもな。

 その前に——

 俺はあの荒野にお墓を造ることにした。俺が生まれた地球を築き上げてきた者の。

 死に場に赤く光る宝石のようなものが転がっていた。

 これはあいつの一部か……。

 こんな荒れ地で、取り急ぎのようなものでもどうやってお墓を造るのか、取り掛かろうとしてやっと気がついたがなんとなくイメージしたお墓を想像すると、それらしき物体が出現した。

 さすがここでは俺が神なだけある。

 それはエジプトの護符『アンク』を模倣した石碑だ。

 アンクとは『生命』『生きること』を意味する。

 またこのアンクが持つ力を信じる者は一度だけ生き返ることができる『命』の象徴だ。

 その真ん中にこの赤い宝石を嵌めることにする。

 そんな恵みなどに頼らなくとも一つの命が果てては空へいき、星になったとしてもまた生まくるのだろう。

 それが人間の時間概念で兆、京、垓……無量大数年後だったとしても。

 戻ってくるとをみた。

 無数の命がどんどん坂を昇っていく。

 この命達が怒り、柏木がその代表で致命傷を負わせた世界だ。そことはおさらばできるならそりゃあどんどん離反していくだろう。

 働かないと生きられない世界で、働く駒がかつてない早さで失われていくんだ。これはあっち側は社会機能が麻痺するな。

 膝を抱え俺は一人、この行列をただ俯瞰した。

 バランスを取ろうとあっち側に重みが増していく中で残った者はどう生きていく? この構造を発案した者としてその責任はどうなのかなど、とりとめのない事を暇つぶしに考察しているとその列はひと段落した。三十分くらいは途切れなかったのではないだろうか。

 で、これから俺はどうすればいいんだ? 帰るべき家はどこだ。

 元は今野さんと一つになるみたいな話だった。今からでも間に合うのか。

 その今野さんの所へまた寄ったと同時に一人の小人のようなシルエットが心細さそうに降りてきた。

「あっ、人がいた! こんにちは。初めまして」

 闇の中で心強い灯火を見つけたようにその男の子は俺に礼儀正しく声をかけてきた。

 青と紺のボーダー柄のポロシャツにタイトな短パンを履いている。顔のサイズがやや大きいと思うのは髪の毛が山のように盛り上がっているからか。すぐに散髪した方がいいな。

「君は……もしかしてあの上からやって来たの?」

「上? そうですね、はい。この坂の上から下ってきました」

「どうしてまた。というか、あっちはどういう世界なのかな?」

「あっちはどういう世界? うーん、ごめんなさい。わからないですね。僕、記憶がないんですよ。ただ目が覚めた時に四人の、いや五人だったかな? 皆さん眼鏡をかけた方々がいて、その人達に『おはよう。待たせて悪かったね。』って言われて、ここまで来たって感じですね。どういうことなのか説明してほしかったですけど、そのお兄さんお姉さんたちは消えてしまって……」

 眼鏡をかけた四、五人の男女……まさか。

 見切りをつけて去っていく者もいれば、こうしてたった一人でもこちらにやって来る者がいる。

 そうだ。こっちだってまだ廃墟になったわけじゃない。いや、それどころかこの子のようにやって来る受け皿として在るべきだ。

 そのために俺が造ったんじゃないか。

「あの、お兄さん。僕がその、生きるべき世界とは何処なのでしょうか? 宜しければそこまで一緒に付いて来てくれません?」

 この子は震えながらも生きようとしている。手を差し伸べなくてどうする。

「うん、いいよ。僕もちょうどまで行こうとしていたんだ。案内してあげる」

「えっ、本当ですか!」

 なんでこんなことを口にしてしまったんだ。

 でも、この子は一縷の光のようだ。

 廃れてゆく大地だからこそ咲く一輪の花がある。

 その花とはちょっとやそっとの事では折れたり、枯れたりはしない。残された者が崇拝したくなるように気高い花だ。

 手を繋ぐ。

 そっと後ろを向く。今野さんは……心なしか微笑んでいるような。

 もうちょっとだけ、もう少しだけ、生きてみようと思う。

 それを繰り返していくうちに、真に果てる運命の瞬間が来るのだろう。

 その時まで、抗う事が出来なくなるまで、生きてみようと思うとこの子の前でなら宣誓できそうだ。

 あれ、柏木がいない。そして、あの赤子も……。

「ねぇ、この世界ってどうなっているのですか? なんかすごい世界のような気がします」

 男の子が明るく話しかけてきた。顔を見る。

 こっちの世界もまだまだやれるのかもしれない。

 歩み始めると、その先の遠い地平線から飴色の太陽が出てきたように俺達二人は照らされる。

 二人は光へと……。

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