第三部「新世界」
1
昨日の雪と雷の影響で一部の地域で停電はあったらしいが、うちの地域では発生していなかった。勝手にリビングの電気が消えたのは玉川の思い違いということになる。
あの日のようにそれだけ憔悴していたのかと思うと、もう俺には関わらない方が身のためではないかといま一度言いたくなるが……もうそんな次元ではないのかもしれない。
何故だか昨夜は心穏やかに眠りにつくことができた。目覚めも快適である。
しかしリビングへ行くと隣の部屋ではまだ玉川の時は止まったままであった。
「おい。まさか朝までずっとそのままだったのか?」
「えっなに」
肩を叩くとウィスパー気味の声でそう言った。応答があった事には胸をなで下ろす。
「いくらなんでもずっと立っていることはないだろう。なんで横にならなかった。まさか……立ったまま眠っていたとか?」
「ずっと立っていたって……いま何時? まさか……」
「朝の七時だよ。約九時間はここで立っていたことになるが」
「うそでしょ。私、ほんの数分しか経っていないもんだと」
これはどういう事か。時間の感覚が狂っているってことは、例のあちら側へ玉川は身を置いていた?
気絶によりその間、記憶がないって線も有り得るが玉川は数分しか経っていないもんだと思っている。目覚めたらどれだけ時間が経過していたのかおおよその見当すらつかなくなった訳ではない。
雪のピークは深夜までで朝には太陽がギラつき蒸し暑い天候。これはすごい勢いで雪は溶けそうだ。夏だしな。
玉川の身に起きた事はあまりあれこれ議論しても仕方がないと本人も忘れることにしたようだが、何かがおかしい。
ルンルンと鼻歌でも口ずさむように上着を脱いだ。
「き、着替えるなら閉めろよ」
「あっごめん。洋一朗になら別にみられてもいいからつい」
あからさまなことを。本人は閉める気はないようなので俺が渋々と閉めた。
玉川の気持ちはきっとそうなんだろうと分かってはいるが、ここまで娼婦のように淫らに誘惑してくるような事は無く分別ある態度で俺を支えてくれたのだが……。
「外はまだ雪あるのにこんな格好でもオッケーなんてウケない?」
バンっと横へ勢いよくドアが開かれた。玉川は白いキャミソールにジャージ素材のような黒いショートパンツで現れた。
まるでタガが外れたようだ。これまでいくら暑くてもここまで腕、脚を露出した服装はしてこなかったのに。
「そんな服も持ってたんだな。どうしたのいきなり?」
胡座をかいている俺の背後に回り両腕を首に絡みつけてきた。
「もうね、モタモタしている暇はないみたい。だって世界は滅亡に向かっているみたいだし。だから、自分の気持ちに正直になろうと思って」
恋に夢中な若き乙女のアタック、として聞き流してしまいそうな軽さがあったが聞き捨てならない物騒な単語が……。
「なに、言っているんだよ。世界は滅亡に向かっているって」
「えっ。洋一朗も分かっているはずでしょ?」
当たらずも遠からず。
「だったら後悔しないように今やりたいことをやらないと」
背に胸を擦りつけられる。女性の胸ってこんな柔らかいものなのか、ってだからなんでいつもこうなんだ。もっと素直に浮かれる状況を作ってくれ。
世界が近いうちに、神曰くもう残り十年以内に終わるとしたらどう過ごすか?
人生のおける究極の問い。
「どこでそれを、誰から聞いた?」
「誰からというか、そんな感じしない? 夏なのに大雪になったんだよ。まさに終末へのカウントダウンじゃん。それに細胞レベルでもう世界は滅亡に向かっているって教えてくれている、みたいな?」
「俺にはそんな虫の知らせみたいなのはないが」
『それはあなたには助かる道があるからだよ』
この声は……神、いやあの子。
……俺は助かる。
どうやら俺も、その細胞とやらが主張し始めたようだ。
その、助かるためには……このままの身体では駄目だ。求められているのは……。
『あなたも、そう新人類になること』
答えは簡単に導き出された。でもどうやって?
『それをこれから探していきましょう』
方法があると言うのか。けど、なぜ俺は特別扱いしてくれるんだ。
「ねっ。だからいいでしょ? どうせ世界は終わるんだしー」
覚めた。酔っているみたいにとろけている玉川からひとまず逃げるか。
「あっ」
ぞんざいに突き放す。
「……ジムに行って来る。運動してリフレッシュしたい。世界が滅ぶって言ってもそんなあと数日後とかでもないだろう」
雪が溶けていくというよりは、大地に唇があり下品な音をたてながら吸い尽くしているように乾いている。
あれほどまでに恋に盲目な玉川がしつこく付きまとってくることはなくあっさり諦めたのはなんだかそれはそれで気味悪かったな。
なんかこう、離れた瞬間に目が虚ろになっていきなりネジが回り切ったおもちゃのようにピタッと止まったようだったが。
また魂がどっかへ行ってしまったってことはないだろうな。そう思うとこっちも逃げておいて身を案じてしまうが……考え過ぎか。
さぁ時間までどうするか。うちのジムはこんな朝早くから営業していない。この時間帯から行っても一時間半は待つことになる。
うっ目が……景色が分身したようにぶれる。
と思ったらまたその互いの枠がカチっと重なり……街がゲームのポリゴンみたいに生々しさや荒さが削ぎ落とされていた。
風や車の走る音、雑踏も消えている……。なのに歩く音だけばかにでかい。
曲がり角から人がやって来た。
あれは賢ちゃん?
「あっ洋ちゃん!」
いつものようにでかい声で元気よく手を振ってきたがそこまでで、俺の後方へ川のように流れてどこかへ収束していってしまわれた……。
また居るべき所へ。ふっと笑う。
時間は?
もうだいぶ進んでいた。一番乗りのつもりが出遅れたくらいに。
これがあの子のいう破滅への序章か?
いや、違う。ここは、
駅前は休日の人波ができていた。路線図を確認して遠方へ出掛けそうな人、ショッピングに来た人……この中にどれだけ異常に気がついている者がいるのだろうか。
ジムも休日の過ごし方としては定番だ。施設正面の張り巡らされた窓ガラス、その三階からたくさんの利用者が綺麗なフォームで足を走らせている。
必ずしもジムに行きたかったわけでもない俺はここにきて入るべきか迷ってしまう。
あれは……平山か。覇気がないようだが、惰性のように自動ドアをくぐり抜けて中へ。
これは撤退する理由ができたと踵を返そうとした時に、それは起こった。
紫色が空間を覆う。そしてあの建物の隙間という隙間から紫の煙が一斉に噴き出した。
咄嗟に俺は走り出して雑居ビルの間の路地に身を隠す。が、そんな危険な状態だと認識しているのは俺だけなのかみな呑気にしている。
危ないぞと声がけをしたいところだったが、あの煙を吸ったらまずいと直感が引き止めて俺はハンカチを口にあてた。
あれは毒ガスの類いか?
膝を曲げてしゃがみ顔も伏せる。
きゃーという悲鳴が複数あがる。いまさら気がついても遅い。
やがてわーわーと慌てふためく声が無数に行き交いパニックになっている様子がありありと伝わってくる。
……ピークは越したのか、急転直下でシーンとなってしまった。それがまた一層と恐怖を煽り身が縮こまってしまう。
「なにがあったの!?」
「えっ皆んな倒れているじゃん。やばくない」
野次馬の声が出てきた。もう、あの毒ガスはなくなったのか……。
顔を上げて新鮮な空気を吸ってしまったが、大丈夫そうだ。空間の色も元通りに。
その野次馬たちはその惨状を前にして開いた口が塞がらないようだ。
俺も、首を出して後方を見た。
そこには銃にでも撃たれて倒れているようにしかみえない人々が散り散り横たわっていた。
あれは生身の人間ではなく精巧にできた作り物なんじゃないのかと現実逃避したくなる。
自動ドアが開いた。小さな音だが注目を浴びるには十分だった。
ここで人が出てきた……あいつは、平山だ!
あれが生還を果たした者の顔つきなのか。刷り込まれた人像よりずっと勇ましく男らしいぞ。
誰かをおぶっているのか。
その重みがこたえているのか外に出て数歩で両膝をついてしまった。
俺は平山のもとへ駆け寄った。
「平気か。中でなにがあったんだよ」
「俺がやっちまったのか。でもよぉ、まさか本当にこんな事になるとは思わねぇじゃねーか」
懺悔するように嘆く。やはり、お前なのか。
「お前がやった? いや、なにをすればこうなるんだよ。凶器もなさそうなのに、爆発が起ったわけでもないのにこんな大勢の人が!」
「あったかい。おまけに甘くっていい匂いだな。この肌が俺に触れているのが……とても夢のようで、このまま永遠に、このままだったらどんなに、幸せなんだろう。でも、こんな形じゃなきゃ、俺じゃあ指一本触れられないんだろうなっうっ……」
ぎゅっと目をつむり粒が絞り出た。
そして、そこから顔が上向きになったと思ったらバタンと前に倒れてしまう。缶のガス抜きのように残ったあの紫の煙が狼煙のように細く薄く上がったのがうっすらみえた。
息絶えた。きっとそうなんだろう。
平山は福西をおぶっていた。せめて彼女だけでも救ったというのか。
想いを馳せる女性との最初で最後のボディコンタクト。
彼女の温もりに触れられたのは彼にとってせめてもの冥土の土産になったのだろうか。
『おまえはいいよな! 次々と群がるようにホイホイ女が寄ってきて触れられることを望まれているんだから!』
なんだこの怒声は……平山の叫び? 頭をどつかれたようだ。
何事もなく華やかなレールが事前に敷かれているように人生が上手くいく人と、どうあがいても全てが悪い方向へいってしまう人生を送っている人がいる。
後者である新人類が暴走、暴発したらこうなってしまうって事なのだろうか。
……それがまた三十年前の規模まで復活しようとしている?
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