13

 今日で生徒達が卒業するのであろうか。まだ一年早いしそれはないか。ここは俺が教壇する最後の日の方が適しているか。

 そんな最後の日、であれば要はなんでもいいのだがこの学校の年間スケジュールで大きな行事が迫っていることもないありふれたこの日が俺にとってそんな特別な日と化している。

 朝から常に精神統一されているようだと言えば聞こえがいいが裏を返せば緊張しているとも言えるので、後半はそれを維持するのにも疲れて集中力が途切れたのでただの赴任したばかりの新人に成り下がる。

 今日を、この授業を乗り越えれば明日は休み、さらにはもうすぐ夏休みだとリラックスしている生徒とは対照的だ。

 ということで今日、最後の授業が終わった。雑音が虫のようにブワっとわき出る。

 子供は気楽でいいよな、なんて思ったことは教員になってから一度もないのだがこの日だけは羨ましいというよりは微笑ましかった。

 、も悪いものではないのかもなと思うわけで。

 俺は知り過ぎてしまったのであろうか? 

 世の中には知らなくてもいいことだってある——長きに渡ってなにかと用いられるこんなニュアンスの言葉を反芻する。

 それは境界線ができてしまったということ。

 知らない人と、知っている人で。

 知っている側に回った俺は、その知らない人をみると別に知らなくたって人生、困ることなんてないとしんみりしてしまう。

 が、あっち側の人間は毎日、同じ事の繰り返しに飽き飽きしてこっち側に来たがるのだろう。俺がそうだったんだ。

 人間ってつくづく我儘な生き物だ。欲しいと言っていたものを手に入れたはずなのにやっぱり前の方が良かったかもしれないってしれっと口にするんだからな。

 それでやり直しがきくならそれも一つの人生経験だろうが、困ったことに引き返せないこともあるんだよな。

 それを俺は、与えられた人生の試練だと定義して腹を決めた。

 約束の時間までまだ三時間以上あるが、俺は早々に退勤させていただきふるさと村自然公園内を偵察ではないが、下見も何もしないのはまずいと思いたち歩き回ってみることにした。

 こんな行動も長時間労働がマストだった一昔前ではそうスムーズにはいかなかったこと。先人の新人類様の功績に感謝だ。

「石田先生」

 職員室で生徒が入力した日誌ページをタブレットでチェックしていると家永がなにやら隙間を縫うような細い声で俺の名を呼ぶ。ここのところは沈黙していたのに今日という日に限ってなぜだと机を叩きたくなる。

「何かご用ですか?」

「いえ、用というわけではないのですけど……今日の石田先生、なんか変だよねって噂を聞いたものですから」

「変わっていると言われるのは今日に始まったことじゃないと思いますけど」

 そういうことじゃないことは分かってはいるさ。それでも俺は突っぱねるような返しをした。その訳を答えたかったとしても時間はないんだよ、こっちは。

「そういうことじゃなくて……」

「すみません。今日は急ぎの用事があるのでこの作業が終わったら帰らせてもらいます。特に気にする必要はないってことだけは言っておきます」

 家永先生をあんな雑に扱うなんてけしからん、みたいないくつものビームを浴びる前に俺は荷物も持って立ち上がり、ここへは戻って来ることはないと示す。

 俺は、俺も……この社会には決して向いているわけではないのかもな。

 ここでしっかりと根付き生きていこうという意志がいまいち湧いてこない。

 なのに俺は新人類とは違うんだ。何が足りなかったのであろう。

 ほんの数メートル先のタブレット置き場へ向かいながら日誌を読んだので担任のコメントが雑過ぎたのが心残りだったが学校へ出る。

 さて。「先生、今日は随分帰るの早いんですね」と部活動の指導員から声もからかけられたので行くとしよう。

 バスのドアがプシューと音を立てながら開く。運転手のマイク越しからの声。発車を合図するピーッという音とドアが閉まる音。席にがさっと音を立てて座る。バスの走る音。

 早く着けと急かす気持ちを鎮めるために、耳に入ってくる情報を出来る限りキャッチしていた。

 これで気を紛らわそうとしているんだろうが、どれだけ効果があるのか自分でやっておいて疑問ではある。

 ここからは目に入ってくる情報か……。

『次はふるさと村自然公園入り口でございます。お降りの方は……』

 少し張った糸をほぐすために目を瞑ってしまっていたが、この音声案内でロボットのようにオフからオンになる。降りると強めにボタンを押す。

 バスから降りて地面に足をつける。

 この一歩は、ふざけているのかと笑われるだろうが月面着陸のあの足跡だ。

 ここから歩いて十五分ほどにある総合案内所……公園がさらにその奥にあるのは言うまでもなく。走りたい気持ちは山々だが陸上選手じゃあるまいし体力が持つわけがない。

 今年もあの地獄の暑さが到来すると予告されているように、今週から暑さがもう一段階厳しくなってきた。そんなまだ序の口のような暑さでも、ただここに立っているだけでじわじわと気力も体力も消耗していく。

 汗だくで、ぜいぜい息を吐きながら早く到着しても得られるものはなし。

「焦らずゆっくり、ちょくちょく休憩しながら向かうか」水分補給のためペットボトルをもう一本多く買っておくべきだったな。

 この日のために神経を研ぎ澄ましても、なぜかここにきて至らなさが出てくる。なんと情けないことか。

 初めてのことでいきなり上手くいくわけがない——俺がいつも生徒に言い聞かせていることじゃないか。

 もう強がるのはやめよう。この先、何が待ち受けているのか未知数の状況になって気丈でいられるはずがなかったんだ。

 入り口のアーチを通り歩を進めていくと右側に連なる丘とその足元に田んぼ地帯が出現する。狭い道路を挟んで左側には一軒家がポツポツ建っている。

 えらく広い庭を所持している家もあるな。こういう大きな家ほど歴史を感じるデザインになっている。もうこんな瓦屋根の家は建てられることはないんだろうな。

 そんな風景がしばらく続いたが鼻につく臭いがしてきた。その発生源はやっぱり小規模の牛舎だったか。

 田舎にしかないという先入観があったが都心のアクセスは不便ではなくても郊外ならまだあるもんなんだな。住所が東京であっても地域によっては自然の多い所はあるわけだしきっと探せばもっとあるのだろう。

 コンクリートで整備された道。人の手で植えられた苗木も一列に並んでいた。その道の中央には木目のベンチも。

 せっかくなのでそのベンチに座り休憩がてら時間を確認する。そろそろ歩いて十五分だが……。

 この整備された道の先は二手に分かれており左は長い長い坂がここからでも見えた。

右は『この先ふるさと村自然公園』とうす汚れた案内看板が電柱に立て掛けられている。

 家のブロック塀と竹林に挟まれているせいでちょっと窮屈そうな道になっていた。

 住宅街エリアの左の道と比べると寂れた雰囲気さえ漂っている。

 看板にこの先、立ち入り禁止と書かれていたら止めておこうとなりそうだ。

 近隣の人には観光スポットみたいな存在でもあるので平日のこの時間帯でも人はいるであろうが人を寄せ付けないものがある。

 短い橋があった。数メートル下には苔色に濁った水も溜まっている。

 その橋を渡ると今度は右側に広大な畑。軽トラックは停まっているが人の住んでいそうな家は見当たらない。

 いよいよ自然で覆われた地へと突入か。

 少し前へ進むと幾分か暑さが和らいだ気がした。左は斜面になっていてその上に生えている木の葉が日陰となっているからだろう。

 その日陰が切れると、右の広がる畑を背に近代的な建物があった。

 ここか。

 出入り口は車椅子、身体が不自由な人でも入りやすいようにちゃんとバリアフリーになっている。隣には車数台が停められる小さな駐車場。近所にある区民センターみたいな施設だな。

 ここで鍵を貰う手筈だが、そのまま伝えても応対してくれる人にはこうしてほしいと上から指示はされているのか。とりあえず中へ入るか。

自動ドアが開くと冷気が。あぁ、生き返る。

「どうもこんにちは」

 正面の窓口に座っている眼鏡をかけた中年くらいの女性が愛想よく挨拶をしてきた。

「どうも」

「……もしかして今日のお手伝いさんでしょうか?」

 お手伝い? 何の手伝いなのかはわからんが、そういうことか。ここは話を合わせよう。

「はい、そうです。鍵、をここで貰うように言われているのですが」

「はいはい。お伺いしてますよ。あれ、でもまだ時間が早いような」

「その前に公園内を散策してみようと思いまして。せっかく来たわけですし」

「あら、そうですか。なら、閉まる前に行けばこの鍵も必要ありませんが……どうしましょう?」

「初めて来る場所で、しかも広い所なので間に合わなかったなんて事がないように念の為、貰っておいた方が安心するので予定通り預かっても宜しいでしょうか?」

「それもそうですよね。はいこれです、どうぞ。この鍵は会ったら長谷川さんにちゃんと返してくださいね。うっかり持ち帰ったなんて事はないように」

 長谷川……今日、俺が面会する相手の名前か。

「はい、承知しました」

「初めてでしたら、そこにある展示物もよかったらご覧になってください。この公園内で採取された昆虫の標本やカメラマンさんからプレゼントされた鳥や固有植物の写真がございますので」

「はい。では」

 鍵を滞りなく貰い、案内通りに俺は左奥の展示物が飾られているスペースへ。ガラス張りのショーケースに、額縁に入った大きいサイズの写真。わりとさまになっている。

 おっ、木の枝にとまっている白い梟の写真だ。自宅の周辺でも鳴き声だけ聴いたことはあるがこの公園にも生息しているのか。カメラマンもよく野生動物をこんな美しく枠内におさめて撮れるよな。どれだけの時間と労力を費やしたのか。

 教員である以上、授業の一環で博物館や美術館へ行く機会は多い。ここも興味深く見物してしまいそうだが、今日の目的はそこじゃない。いつまでも滞在するわけにはいかないと展示物をさらっと一周だけして出口へ。

「一応、自然の中ですので怪我などしないようにお気をつけて」

「お気遣いありがとうございます」

 ムワッとした空気がまとわりつく。背後の冷房の風が後ろ髪ひくが行くしかない。

 逆方向からハイキングをするような出で立ちの男女とすれ違うようになった。高齢の夫婦であったり子供連れの若い家族、三脚を抱えている男性など年齢層は様々だ。

 そこに仕事帰りの男がいるんだから場違い感がなくはない。スーツではないのが救いか。

 木製の観音開きの扉。ここから先へ行く際の注意書きも貼られている。到着したようだな。

 時刻は……十六時半になるところ。一時間半は公園内を散策できるか。

 この扉を入ると、すぐ右横には同じく公園の出入り口よりも幅の広い木製の観音開きの扉が開けっぱなしにされていた。

 この先にトイレ、休憩所ありの案内板と共に伝統農家展示会場とも。

 ここが約束の場所。ちょっとした勾配の上にあるみたいでここからではどんな建物なのかは覗けない。

 それなりに人は行き来しているようでさっきから一定の間隔で人が俺の前後ろを通っていく。ずっと立ち止まっているのも気まずいのでここは後回しにして、新人類の拠点を探るとするか。

 何より——この公園のどこかでお爺ちゃんと彼女は出会いあの写真が残された。現物は紛失してしまわないようにデータ化して、スマホに取り込んだあの写真をみる。

 背景である見晴らしが良さそうなのがわかる白い雲と青空、丘の天辺が写っていることからして高台で撮られたものだろうな。

 ダウンロードした園内の地図に切り替えると、段を登ればなんとかの丘みたいな名称に行ける場所はいくつかある。

 全部は周りきれないだろうからこんな高い位置へ行ける所を重点的に回っていこう。

 ちょうどその段が横にあるが上へ行っても、どうやら木々が邪魔して空全体は見渡せそうにはない。ここはパスだな。

 子供であれば好奇心をくすぐられる溜め池があったが柵に囲まれて立ち入りは禁じられていた。

 ここまで来てこの公園自体が坂を登ってどんどん頂上までを目指す構図になっていることに気がついた。

 頂上には車でも来られるように有料駐車場があり、遊具も設置された公園もある。そこが最も見晴らしが良い場所であるが、駐車場がそばにあるとなれば常時人混みはそれなりにあるであろう。

 だがこの写真からはその気配は薄い……この瞬間は無人だった気さえする。

 あまり人気ひとけはなさそうな高台となると、どこが該当しそうか。

 グルルッ、みたいな低い音がした。ザザッと茂みが激しく揺れる。

 木の枝を伝っている動物……あれはリスか! リスが二匹いた。

「へぇーリスも住んでいるのか」

 素直にパァーと笑顔になる。人間に慣れているのか道端に降りてきて、俺の足元へ。

 そこから立ち去ろうとするリスを俺は釣られるように追っかけてしまった。

 リスとのかけっこをそれなりに楽しんだが、また茂みの中へ……もう後を追うのはできなさそうだ。

 緑で造られたトンネルのような道があった。ここはどこだ? 地図で確認すると……ここからずっと真っ直ぐ歩いて来たわけだから……多分だが妖精のそのという場所へ続いているはず。

 妖精ってなんだよ。ここまで来たからにはせっかくだし行ってみるか。

 陽射しが当たりづらい薄暗い道を抜けると、葉が絨毯のように敷き詰められた広場があった。真ん中には天然であろうか、大きな石の椅子。

 そういうことか。妖精がこっそり集まって戯れている図にはぴったりのそのかもしれんな。

 ひんやりとした石の上に座る。見回してみてもここまで来たら他の道はなく戻るしかなさそうだ。

 鈴の音? チリーンと澄んだ音がした気がするが。

 どこかで聴いたことがあるハープの音源が俺の脳内で自動再生された。

 ちょこんとそこにはが居た。

 ひっ、こっちをジロッと見てきた。険しい顔をしているのはなぜだ。俺が何かしたか?

 こっちへ来る。

 足を前へ出す度に振動はないが辺りがひずむ。重い。重力が、増した……?

 か、解放された。あっけなく。彼女は、いない。夢? 幻だったのか。

 途方に暮れていたが、空の色が真っ赤から染み込んだ水分が紙を湿らすように藍色にひたされていた。

 まさかっ! 十八時半を過ぎて、あと十分で十九時になろうとしている……! 約束の時間が……!

 俺はあの事を思い返す間もなく走った。

「一応、自然の中ですので怪我などしないようにお気をつけて」

 急ブレーキをかけた。

 ありがとう、おばさん。

 その言葉をかけてくれたおかげで躓いて転ぶことは防がれた。

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