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 うちのアパートの周りは深夜になれば交通量はほぼ皆無になるので通勤、通学前の朝までくらいであれば車一台くらい停めても問題はないとアパートから数十メートル先の公園前に停車させてもらった。

 さぁ、ここから夜の恋物語があるのかと無意識にソワソワもしてしまうが玉川さんはいたって事務的だった。

「あの男と歳を取っていない女性、どっちから先に手を付けた方がいいですかね?」

 玄関の電気を点け靴を脱いだら開口一番がこれだった。若い方がこれだと非常に心強い。

二人分の食事は無かったのでその前にコンビニへ買い物に出かけようとすると、玉川さんも付いてきた。年頃の女性と夜間、二人でコンビニなんて恋人同士あるあるだが彼女の食の好みもわからんし、これでいいのかもな。

「都会からのアクセスは不便ってわけじゃないし、自宅はこういうちょっと緑もあって夜は静かな所に住むのも有りかもしれませんね」

 職業モデルって名乗るくらいだから玉川さんの住まいは東京の中心なのだろう。その喧騒や高層ビルの圧迫感のない放たれた土地は魅力的なのか。

 他愛もない雑談をして束の間の休息を味わった。ここから待ち受けているのは未開のジャングルや深海へ赴くに等しい。いや、もはや地球上ですらないのか。

「石田さんだけで行くんですか?」

 遅めの夕食後。少々、己の無力感に苛ついているようだ。

「玉川さんはその、普通の人に該当するわけですし共に行動しても傍観者になってしまいがちなんですよね。渋谷の男はその一般人でも本能から危険だと感知したわけですし、ここは僕一人で行って……もしも帰らぬ人になったら玉川さんが諸々のご連絡をして頂ければと。気が重いでしょうが」

「縁起でもないこと言わないでくださいよ」

「すみません。しかし、想定しないといけない厳しい現実の一つにそれはあるかと」

「女性の方も私には普通の人だから姿が見えないかもしれないんですよね。どっちも私の出番はないじゃないですか」

 駄々をこねている玉川さんも可愛いな。可愛い、美人ってだけで優遇されるのはあらゆる平等を実現した世の中になろうとも、こればかりはどうすることもできない格差の一つだ。

「玉川さんは先輩の代理なわけですし、役割分担としてこれでいいんじゃないかと。命に関わる任務には待機、連絡係も立派な仕事ですよ」

「待機、連絡係……了解です。ではそれらしく私、しばらく石田さんに泊まって家事や買い物などして石田さんがやるべきことに専念できるようにしますね」

 それは有り難い! とはならんな。うーん、なんでこうなるのだろう。

「それは嬉しい心遣いですけど、お仕事に支障が出るならご遠慮させてください。先ずはそれぞれの日常を大切にしましょう」

「たまに移動時間が長くなるくらいいですって。早速、明日にでも車を置いてきたり足りない物を持ち運んでおきますね」

 思いがけず後方支援が整備された。

 それに異性と暮らす。同棲、結婚生活とはどういうものなのかを疑似体験できるのも悪くないか。

 親から結婚はしないのか? とたまに急かされるし。

 玉川さんは不規則なスケジュールで働いているが、俺より先に家から出るところは見たことがない。

 ノートパソコンとマイクを持ってきたと思ったらそれを操作している事も多いので、在宅でも働けるのか。これは特に仕事ができる人間だけに許される働き方だな。

 今や気合いだけは一人前ではないまことに優秀な若者は就職しないで起業するからな。 

 ある日の夜に、発表されるやあのドラゴンボールに出てくるスカウターともてはやされた最新式の携帯電話を装着して誰かと楽しそうにお話をしていた。

 あれは友人とのお喋りではなく、に似ている……まぁ、お金を払ってでも玉川さんとお喋りしたい人はいるか。

 ファンクラブ会員の権利か。料金はいくらだろう。

 そんな人物と俺は無料で、同棲までしているんだ。こんなことがファンにバレたら殺されるぞ。

 そんな自由に働いているから早朝に家を出て夜に帰ってくる俺からしてみれば朝の洗濯、ゴミ捨て、買い物、お風呂を沸かす等を玉川さんに任せられるので随分、楽になった。

「じゃあ、行ってきます」

「いってらっしゃーい」

 家族以外でこのやり取り、くすぐったいなー。

 この美女との共同生活と引き換えに俺は、次の土曜日に忽然とこの世から消えてしまうかもしれない任務を控えている、このギャップがなんとも。

 命がかかっているならこんな特典があっても罰は当たらないと思うようになった。


「ぜったいに、帰って来てよ」

 今日の見送りはさすがにまるで戦地へ出陣する夫への眼差しか。

「どうなるにせよ、無事ならなるべく早く帰って来ます。ただ夜、九時から十時くらいになっても帰って来ないなら覚悟しておいてください。お昼に渋谷駅に着いてそんな長くなるとは思えないですし」

 前日、俺の職場や実家の連絡先をメモで渡した。これを渡されると玉川さんは「こんなことする義務はないよね」と吐露して弱気になる。

 俺からしてみればこの神秘を前に、糸口はあるのにのうのうと暮らせる方が難しい。

「死ぬのもさぞかし辛い、怖いだろうけど死ねばそれで終わり。生き残った方の苦しみは遥かに長くずっと続くって胸に刻んでおいてよ」

 待機しているのだから身の危険が及ぶことはないし楽だろう、そう思っていた俺を殴りたくなった。

 泥をかぶってでも歯抜けなっても、なるべく生きて帰って来なければと引き締める。

 生きて帰って来ねばか。

 ここまで生きることに対して執着するのは……随分と久しぶりかもな。

 今日も平和に生きることができて感謝、こんな日が明日もと天に祈る。

 ここまでするくらいに生きること自体が尊いことだとはなかなか実感しにくくなっている。

 それどころか長生きしたくない、もう死にたいと高度に文明化された中で生きる現代人は口癖ように平気で死を口にする。

 そんな時代に俺は今日という日を絶対に生き延びなければいけないと決意したんだ。

 なんて幸せなことなんだろう。

 生きたい、まだ死ねないとエネルギーが湧き上がるのは人生の過程において貴重なことだ。


 その溢れるエネルギーを吸い取られ無に換えられるように、あのおっさんは今日も無気力に鎮座している。彼の瞳には何が映っているのか。

「あっ、また会いしましたね。もしかしてわざわざ来てくれたのですか?」

 年齢不相応の幼さが滲みた甲高い声。或いは身寄りがいなく孤独になってしまった老人に近い境地か。他者と会話ができることは極上の喜びのように弾んでいる。

「そこに居るあなたは僕にしか見えない。これは当たっていますか?」

「はい。僕の姿は隠し扉のようにある条件を満たさないと開かない空間に収納されているようなものなんです。それは図太い神経の持ち主にはとてもじゃないけど、遊び心で存在すら想像しようともしないから難しい。あなたは聡明な人だ。そんな人と巡り会えて僕は幸せです」

「なぜあなたはそんな場所に居るのですか?」

「いやーお恥ずかしい限りですが、脱落したってことです。この社会から不要だと蹴飛ばされた。だから

 助けてもらった?

 だから誰に。

 社会からお荷物扱いされて脱落した、その先は浮浪者のような希望のない人生、かと思いきや助けてもらったときた。

「助けてもらったってどういうことですか? 食料など提供してくれる人がいるんですか」

「食料? はっは。ご冗談を。水も食料も必要ありませんよ。だって僕は……」


『こっちとは隔離されているんだからな』


 おっさんの声が遮断されて切り替わるように響く、ガラガラとした低い男の声。背後から。

 きた。これが玉川さんの言っていたことか。漆黒とくれないがドロドロと混ざったような空間に覆われた。

 禁忌とされる深部まで、アウトサイドまで堕ちてきてしまったような。ここからはこちらの常識は通用しない。

「面白い奴だな。に送り込んでやった奴等のシュールな姿が見えるのか。だが、お前は実に中途半端だ。ってところか。こんな小物とも言えない人が生まれて来るとはな。が、お前は非常に珍しいぞ。取り柄もない、大きな力を持っているわけではないが希少種だ。誇ってくれ」

 誰だ、お前は! と叫びたくても詰まり物が胸にあるように出ない。

 これは。感覚としてそれに通ずるものがある。

「うん。今もなお各地でお前たちのような人間からしたら不可解な現象が起きているんだな。お前が幼少期から気にかけている少女は無邪気な悪魔だぞ。機嫌を損なわせたら即消される。こっちが居心地良くなってきたから試しに山から下山してみた凶暴な熊みたいなもんだ。関わらない方がいいと忠告しておく」

 俺の心が読まれている。

「あの嬢ちゃんもお前の知り合いか。なるほどねー。うーん、愛しい人はいるかもな。どっかに。俺は知らんが一度、上手い具合に時空が回転した時にこっちに運良く放り出されたなら。まっ、それだけでも伝えておいてくれい」

 時空が回転して放り出される。どこから? その、あちら側にか。

「そう。俺らは科学者でもないから名称は統一されていないが、この世はルービックキューブみたいなものさ。お前は常に回転した時にしか見えない隠れた面を観測することができる。常人とはどこか違う世界に見えてしごく当然だ」

 そこは内側じゃないのか。外側じゃない。

「はっははっ。細かいことは気にすんな。表側から見えるものなんて有りふれていてつまらないだろう。カラクリを解くようにガチャガチャと試行錯誤の末に核となるものがお出ましになる。その核の穴から別の世界へ飛べるってことさ」

 壁が溶け出して男の顔が俺の眼前に。長髪で日焼けしたように肌は黒く、眼鏡をかけている。レンズが反射してそのまなこは窺い知ることはできない。

「惜しいところまでは到達しているのにな、だが半端もん。とはいえ俺とこうして交わったんだ。またどこかで会ってやってもいい。重ねてあの少女のことは諦めろ。なり損ないが高貴なお姫様に指一本でも触れようものなら、紅蓮の炎に包まれてジエンドだ」


 

 ここは、渋谷。戻って来た。あのおっさんは、いない。

 時間は……夜十一時だって。馬鹿な。

 ここに来てからせいぜい五分くらいしか経っているとしか思えないぞ。そんな十一時間も俺はここでどう過ごしていたんだ。

 この現象こそ、事象の地平線に限りなく近い位置に居た結果では? 核の穴とはブラックホールみたいなもので……。

 ……はっ。帰らねば。まだ電車はある。やるべきことは先ずはそれだ。玉川さんは居ても立ってもいられないであろうから。

 錆びついた歯車がまた強引に回り始めたように歩行はガタガタしていたが帰路へ。

 それでも俺は歩いている

 深夜一時。ガチャと力なく鍵を開けドアノブをおろし扉を開けると玉川さんが目を潤ませて抱きしめて、いや突進してきた。

 腰をぶつけた。痛い。けど、良い匂いだ。このままこの匂いに沈みたいくらいに。

「よかった、よかった……」と呟く。

「遅くなったけど、大丈夫だ。別に危ない目にはあっていない」

 と言葉をかけたところで……それはどういうつもりなんだよ。

 それは、やりすぎなんじゃないか。

 俺は玉川さんの唇を蓋をするように掌でふさいだ。

 恋愛感情からではなく、欧米の人が歓喜のあまり隣の男性にキスをしてしまうよなやつか? それとも生還してきたご褒美?

 こんな美しい私ならこういう事してもいいでしょってか。それは美人の傲慢ってやつだ。

 生還の余韻に浸るのはこのくらいでいいだろう。俺は首に腕を巻き付け密着しているをそっと離して極めて事務的に、

「生きているかもしれない。先輩の婚約者は」と言った。


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