想いはあまりに単純で幼く
「……メリアさん? 足音は消せないのか?」
「裸足になれば音はなくなると思うけど。痛いんじゃない? ……悪いけど貴方みたいにガラスも割らずに音もなく歩く方法は知らないの。あとで教えてよ。ダメ?」
ジッと、仮面の奥に存在する眼差しを見据えた。僅かにしおらしい口調で空気を撫でるような声で尋ねる。
「まぁ、時間があるときだな。今はできる限り誰にも見つからずに移動したいから、悪いけどまた抱っこだ。お嬢様」
「好きね? そのからかい文句。…………誰にも見つからず、か。当然のことね? だれもこんな生物兵器の自由なんて望んじゃいないもの」
物を持つみたいにひょいと、また気楽に持ち上げられながら……ワタシは何をぺらぺらと、何を喋っているんだろう。
――こんなことをこの人に言ってどうして欲しいの? そんなことはないって言われたいわけ?
……自問自答。そのとおりだ。ワタシは誰でもいいからワタシを認めて欲しい。けど、この人は、ジン・ジェスターはそうしてはくれなかった。
ふんと、鼻でワタシのことを笑うと、その通りだろうなって、一言だけ。ぼそりと呟きを捨ててそれ以降はだんまり。
こんな沈黙は初めてだった。視線さえも合わせない静寂、体感時間の歪みから生じる無音。そんなものとは比べ物にならないぐらい……言葉にできない。
灯り一つない通路をジン・ジェスターは平然と進んでいった。最下層の生体管理区画をまっすぐと、重そうな金属扉は彼が指で撫でた途端、空間ごと粉々になって砕け散る。
瞬間、轟々と激しい水音が響き渡った。電灯のついた巨大な排水路へ出たらしい。濁流のごとく水が眼下の水路を荒れ流れていく。
「こうなったら足音なんて些細な問題だな」
「そうね? エスコートありがと」
「皮肉ぐらいはわかるからな。いや、むしろ君が皮肉を言えることが驚きだが」
「心の中ではいつも言ってたわ? 口にするのは貴方相手が初めてだけれど」
今度こそ地に足を着けると、足から身体へと激流の振動が伝う。……ずっと、体感時間も加えれば数百、数千年もこの研究施設にいたはずだというのに。こんな場所を見るのは初めてだった。
遠い地上から流れ落ちてきた水よりも淀んだ臭い。それに不自然なほど風が強く、最下層、大穴からも遠い屋内にもかかわらず髪が絶えず靡き続ける。
「不思議な場所ね?」
「いや、むしろ必然だな。ここは海上研究都市(ウォータージオフロント)だから、それだけでも滲出する水や雨を処理する巨大なポンプも、地下全体を循環する空調も必要になる。むしろおかしなのは……この施設が正常なことだ」
ジンは忌々しげに、どこかへ流れ進む激流を睥睨しながら歩を進めていく。
「君のおかげで施設がぶち抜けてあんなに水が流れ込んでいるのに排水路が許容域なんだよ。想定内ってことだ。この島自体は君の破壊程度じゃ要所は壊れないようになっている」
「…………そんなことがあるの? ワタシが、……決意した行動が想定内とでも言いたいわけ? だとしたらワタシが殺した奴らは研究者達もワタシと同じで――」
吐き気がしてくる。あいつらがワタシと違う場所にいて、違う場所を目指し見ていて、道具としか扱われてないと思って……自由になりたくて。
だから決断した。ワタシの考えで、初めて自由のために動いたはずなのに。
「真実はわからないが。……不快だな。嫌な奴が同情もできない屑なら何も考えなくて済むのに。まぁ、無駄に考えすぎたり入れ込んだりしないことだな」
言葉にできない想いを、ジンは平然と言語化してみせる。
仮面の奥、どんな表情をしているかはわからないけれど、その真っ黒な目は確かに細く、苛立ちを滲ませていた。
「……そうね。あまり考えないようにしたいけど、先のことを思おうとしても何も知らないから何も分からないの。どこかで、普通の人間の生活でも見られればいいんだけど」
「ふつうなぁ……。まぁ嫌でもそのうち――」
言葉が途切れる。瞬間的に緊張の糸が張り詰め、空気が変わったのがわかった。
反して、ジンは深く息を吐いてリラックスするように、だらりと腕の力を抜いていく。指が撫でるように空間に僅かな亀裂を走らせると、透き通ったナイフが彼の手に握られた。
「すまない。鉢合わせる。ここは意識しても警戒しづらいな。水も風もうるさすぎる」
ぼやいて、深く仮面を被ると共にすぐ隣にいながら気配が消える。
遅れて、巨大な通気孔の行き当たりから四名、何度もワタシを殺そうとしてきた連中が姿を見せた。黒いロングコートにおかしな仕掛け武器。
彼らは僅かに動揺しながらもすぐに臨戦態勢を整え――。一人が身構えるよりも早く、ジンは一瞬で加速し間合いを潰した。そのまま腕を突き伸ばし、一人、有無を言わさずに仕留める。
「っ……!」
メリアは無自覚のまま声を漏らした。殺さないでほしいなんて、酷い我儘を言いかけて咄嗟に黙り込む。
彼の技術は恐ろしく正確で、場慣れしていて、手を貸そうとしたときにはすべてが終わっていた。
「こちら下層第八ライフラインセグメントで――!?」
二人目が通信機に叫びながら距離を取り、毒針を構え投じようとするが、ジンは敵の頭部を鷲掴み、空間に何条もの亀裂を走らせる。
そして砕けた。人体がガラス片のように飛び散るなか、何もない場所で取り出される銃器。
無骨な銃身が垣間見えたときには銃声。銃声。二発、劈くような轟音が鳴り渡った。ビクンと、弾丸に貫かれた身体が跳ねて、最後の二人が何もできないまま前のめりに倒れる。血の泡が溢れ、水を啜るような音が耳につく。
「はぁ、……まぁこいつらも悪人ではないんだろうな。嫌な奴かどうかも、同情できるかどうかだってわかりゃしない。けどそういうもんだろ? 仕方ない犠牲はある」
「……そういうものなのかしら?」
メリアは小さく首を傾げて肯定にも否定にもならない言葉を呟いた。
ジン・ジェスターの言葉はワタシの破壊行為で生まれた犠牲を否定しないでくれているように聞こえた。……都合が良すぎるだろうか。
返り血に汚れた姿を正当化するために自分に言い聞かせているだけ? ――わからないけど、彼もどこか諦め慣れているように思える。
「それで、……さっきは何を言いかけたんだ?」
――まるで子供の我儘に耳を貸すような態度だ。いや、そのものかもしれない。ジンは答えを知っているかのように、ワタシがなにかを言う前から呆れたような哀しいようなため息を零した。
「何でもお見通しなのね? ……可能な限りは殺さないでほしいって思っただけ。ジン・ジェスターのためじゃないわ? ワタシがワタシの所為で生じる犠牲が少しでも少ない方がいいと思ったの。けどそんなのは――」
「そんなことをしたって今更手遅れだ」
ジン・ジェスターは予想通りの反応をした。一定の距離のなかで確かに冷たい一瞥が滲む。
メリアはすぐに睨み返し、翡翠の双眸でジッと仮面の奥、確かに見える目だけを見詰めた。
「分かってる。だから言わなかったのに、言えって言ったのはどこの誰かしら」
「あー、俺です。俺が言わせましたよお嬢様。だって、やっぱなんでもないみたいな雰囲気は気になるだろ? だからそういう思わせぶりをせず、思ったことは言ってくれ。言ってくれんならお前の要望、可能な範囲では叶えてやる」
メリアは虚を突かれたように目を見開いた。しかしすぐに、半ば本能的に薄ら笑いを浮かべ平静を取り保つ。
「本当? 本当なら嬉しい。嬉しいわ? 凄く嬉しい」
想いを明らかにしても無視されることも、踏み躙られることもないなら隠す理由もなかった。
メリアはゆらりと肩の力を抜いて、思ったことを単純な言葉にしていく。慣れなくて、気を紛らわすように髪を掻いた。さらさらと解けるように銀に靡き、止まっていた蝶が飛んでいく。
「なんだよ急に、その喋り方は」
失笑と困惑。顔が見えずとも理解できた。
「思ったことを言ってくれって言われたから、そのとおりにしただけなんだけど、ダメだったかしら」
「いや……そんなことはないんだ。少し羨ましいぐらいの素直さだと思ったんだよ」
ジンは数瞬、考え込むようにうつむいたが。何事もなかったかのように再び歩きだした。長い沈黙のなか、足音が水の流れに掻き消えていく。
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