第5話 春の夜

 春の夜は風が気持ちいい。今日の東京の夜はなんだか静かすぎるような気がする。まぁ、帰るのが遅いからそんなものかと思う。もうすぐ二十二時半。

「ファンって?」

川菜くんは私の歩幅に合わせながら、横に並んで歩いていた。

「……んー、売れているわけではないんだけど、輝いている人がいてね、頑張ろうって思えたの」

「それは良かったです。俺が出来ることってありますか?」

「んー、健康でいてくれたらそれでいいよ」

「なにそれ」

彼は笑った。

私は続けた。

「本屋で働くようになってから分かったの。みんな、それぞれの人生を生きているんだなぁ〜って。本は人を変える。それで救われた人もいれば変わることが出来ない人もいる。でもそれでいいって思う」

「俺も本好きですよ。有井さんと一緒ですね」

「そうだね」

私が不意に微笑むと、彼は少し目を逸らした。彼は真剣に私を見つめて、真っ直ぐに言葉をぶつけてくれる。こんな私にも。だから私もそれに応えなければならないと思った。

「俺、自分変えたくて」

「え、そのままでもいいと思うけど。どうして変わりたいの?」

「自分が好きになれなくて……」

夜の私達が歩いているこの通りは街灯が少なく暗い道だ。車の音や足音がうるさい。それでも聞こえてくるのは、川菜くんの声だけだ。だから、余計によく聞こえるのかもしれない。

「好きなものとかはある?」

私は尋ねた。すると

「深夜五時。日が昇るくせに、まだ深夜な感じがして好き。ですけど、なんだかポエマーみたいですね」

彼は自嘲的に呟き、困ったように眉を下げて、口元にだけ笑顔をのせた。

彼はきっと心優しい子なのだと思う。自分の気持ちを誤魔化すのが得意で、いつも本当の自分を出せないでいるのではないだろうか。

「体を痛めつけてほしくはないから……髪染めたら?」

「髪……」

「んー、思い付いたの。ちょっとはすっきりするんじゃない?この店は落ち着いた色なら髪染めても大丈夫だし。普通の書店とかでは無理かもだけど」

彼の表情は暗かった。私は

「大丈夫。君はまだ戻れるよ」

と言った。

すると彼は立ち止まってしまった。そして

「……何色好きですか?」

私は振り返って

「んー、赤?とか?かっこいいなって」

笑ってみた。

「じゃ、赤に染めます」

「即決だね」

彼は今日一の笑顔を私にくれた。

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