1.出発準備


「――魔神は正しく恐れなくちゃいけないよ」


 そう言ったのは、砂漠越えの案内人の貸し出しを行う総元締めの老婆だった。


「魔神?」


 隣で最初に声をあげ老婆に尋ねたのは、今回の任務で共に砂漠越えをして、目的地まで向かうリディアと同じ大学院生のキーファだった。


 彼はリディアよりだいぶ背が高い、百八十センチ以上はあるだろう。空色の瞳、茶色の髪、銀色のフレームの眼鏡から覗く眼差しは、思慮深くリディアを見下ろし、老婆の言葉に同じように疑問を持ったようだ。


 この砂漠越えと、それから向かう先で“魔神”なんて言葉はこれまで聞いたことがない。


 ――リディアは、グレイスランド王国魔法師団の第一師団ソードに所属する魔法師だ。

 この魔法師団は、北・中央諸国連盟では最強の名を冠し、魔獣退治や国内外の戦争以外の紛争解決、お偉方の護衛、諜報活動など多岐にわたる問題解決を生業にしている。


 そして、隣のキーファは一年前にリディアが教えていた大学の元生徒。魔法師団を一時期抜けて、その後大学教員になった時のリディアの最初で最後の生徒だ。


 非常に優秀で、卒業後の今は大学院の修士課程。

 リディアは元魔法師団だったが、教職時代にキーファと会い、現在はまた魔法師団に所属している。そして、キーファと同じ大学院で博士課程にいる。


 元生徒と同級生になるなんて、普通は複雑な関係かもしれないけど、大学院はどんな年代でも入ってくるからおかしなことではない。


 ただ彼の方が優秀なので少し複雑な感情も抱いている。

 —―張り合う気は全くない。彼はもっともっと上にあがり、恐らく国の要職につくと思うし、それが誇らしくもたぶん寂しいのだと思う。


 学生や育てた新人が自分を追い抜き、やがて自分を忘れていくのは当たりまえ。

 ただし、そう思っているリディアに対して、キーファは呆れつつも「絶対に忘れることはありませんから」と言ってくれる。


 彼はとても、気遣いが上手く察しがいい。今も、自分が対応したほうが良いと判断して、リディアを守るように前に出て、堂々とした態度を保ちつつ相手を敬いながら老婆に質問を返した。


「魔神とは何ですか?」


 この地方では、男性に対してのほうが交渉に真面目に応じてくれる。女性は慎み深く、会話で主導権を握るべきじゃないと思われている。


 でもそれだけじゃないだろう、老婆はキーファの真摯な態度に興味を持ったのか、経年と強い太陽の日差しに焼かれ、黒目が灰色に白く濁ったまなこを見開き、口を開く。

 

 その横のリディアは、一歩下がり老婆の言葉を耳に入れながら、背後でそれぞれの役割を果たして最後の総点検をしている魔法師団の仲間達に意識を向ける。


 一方で、彼らも自分達の会話に意識と耳を傾けているだろう。何事も見逃さない仲間だ。


「――魔神は時に本気で、時にはいたずらで襲い掛かってくる。その摩訶不思議な力を侮ってはいけないよ」


 その謎めいた言葉に、リディアと、キーファはちらりと視線を交わし合う。これは、予言なのか、忠告なのか。


「侮らないように、というにはどうすればいいのですか」


 キーファの穏やかな声は人の信用を得やすい。真摯で耳を傾けていい、この人を信じてもいい、と思わせるのだ。学生の頃からもそうだったけど、実力をつけた今は更に彼はそのような気配を放つようになった。


 老婆は、キーファをじっと見つめ返した。


 二人がこれから仲間達と向かうのは、自然の驚異である砂漠だ。そこでは、どんなに準備をしようと、旅程を甘く見積もることはできない。


 まして現地人の言うことは、侮れない。


 その意味をくみ取ろうとしているキーファに、老婆は濁った目を遠くにやり、ゆるりと首をふる。


「そうさね。魔人を怒らせる者も、興味を惹いてしまう者もいる、時にはそれを操っている者もいる。襲われたのならば、抗わずに信じて恐れなされ」


 そう言って、ふいっと背をむけて、色あせ千切れた仕切り布を持ち上げて身を隠した。呼んでも彼女はもう出てくることはないだろう。 


 今のはなんだろう。

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