第26話
町内会の決定を、父が家族に伝えれば母はふうん、と興味なさげな声を漏らした。陸は、そこに微かな喜びが孕んでいるような気配を感じたが、何も言わずに頷いた。
「正直なところ心配だが……元々お前は家事もある程度は出来るからな……イタルくんだったか、彼の世話をしてやってほしい。父さんも時々は見に行くんでな……頼む」
「……うん、分かった」
陸もあの若者がどこかに追い出されてしまうよりかは、ましだと思ったので町内会の沙汰を受け入れた。その中には、このやや居心地の悪い家から離れられる。そういった打算も含まれていたことは、否定出来ない。
「良かったな。追い出されなくて」
陸が段ボールを抱えながら社務所に入る。社務所は、奥が家になっていた。昔は管理人がここに住んでいたらしい。少し埃っぽいものの、今の管理人が定期的に掃除をしていたらしく思ったよりは綺麗である。
「ボク、ここに住んでいいの?」
イタルが目を輝かせながら、陸に問う。
「違う。ここに住まなきゃ駄目なの。俺と一緒に」
「リクと?」
「そう。お前を見つけた責任だってさ」
「嬉しい」
「なんだそれ。でも九月になったら……俺、学校に行くから。昼間は大人しくしとけよ。退屈しないように本とか置いとくからさ。もしかしたら港町の人から仕事とか手伝わされると思うけど、ちゃんと言うこと聞けよ」
「分かった」
段ボールに詰めていた衣服や、さしあたっての日用品を引っ張り出す。気まぐれで持ってきた本を何冊か机に置けば、イタルは興味津々といったていでそれを取った。
「てかお前、日本語読める?」
「読めるよ。これは海底二万哩」
本のタイトルを指さしてイタルが言うのに、へえ、と陸は感心する。そして気を取り直して立ち上がった。
「じゃあ夕食作るぞ」
「ご飯? 何にするの?」
「うーん、当面の食料は買ってもらったんだけどな……米炊いて、味噌汁と、卵焼きでも作るか」
ほら、とイタルにエプロンを押しつければきょとんとした顔でそれを見る彼に、手伝うんだよと陸が言えばこくりと頷いた。
台所も綺麗だった。
イタルが流れ着いた祭りの日も、担ぎ手の妻達に使われていたのだろう。自分の家よりも広い台所に少しばかりの戸惑いを感じながら、冷蔵庫から材料をひっぱりだす。
「料理したことは?」
「多分ない!」
どこか誇らしげに言うイタルに苦笑いをしながら、陸が卵を割る。ボウルに四つ、割り入れれば箸と共にイタルに渡した。
「混ぜるなら出来るだろ?」
「……」
緊張した面持ちのまま、箸で卵を混ぜ出すイタルを尻目に、陸が米を洗う。水を入れ、年季の入った炊飯器のスイッチをいれればピーッ、と機械音が鳴った。
「お前さ、不安じゃないのか」
「不安?」
かちゃかちゃと箸が鳴る。黄色い液体が透明を巻き込みながら渦を巻くのを見つめながら、イタルは箸を動かしている。
「不安っていうか、怖くないのかなって。知らない場所に流れ着いて……そもそも、海に落ちて漂流してたんだろ、イタルは」
「うん……それだけは覚えてる。ずっと長い間、漂ってた」
「何日ぐらい?」
「とっても長い間」
「あー、そう……」
覚えていないか、と陸が肩を落とす。ネギを大雑把に切り、鍋に放り込み火に掛ける。頃合いを見て、味噌を入れた。その傍らで卵焼き器に油を引き、温める。
「今からどうなるんだって不安にならない?」
「ならないよ。リクがいるから」
あっけらかんと答えるイタルが混ぜた卵を卵焼き器に流し込み焼いていく。黄色い卵液がふつふつと揺らぐ。
「お前、ヘンだよ」
「へん? ちゃんと、イタルになれてる?」
「なれてるっていうか……。ヘンだけど、まあ、しょうがないか。記憶無いし」
「記憶が無いとヘン?」
「まあな。……だから、戻ればいいな。そしたらお前がどこの誰か分かるし」
陸が菜箸で卵を巻いていく。黄色くふかふかとしたものが、布団のように丸まっていく。
「誰かじゃないと、駄目?」
「駄目っていうか……困るだろ。自分が誰か分からないなんて、どうやって暮らしていけばいいのか分かんなくなるし」
「そうなんだ……」
声を落とすイタルの横顔をちらりと見る。ようやくといっていいのか、寂しそうな顔をさせていた。
「とにかく」
陸が卵焼き器を揺する。そのまま更に、出来上がった物を盛り付けた。
「お前が思い出すまで、よろしく。……大根おろし作るの忘れたな」
ぽつりと呟く陸をイタルが見つめる。青い目を見開いて、それから嬉しそうにはにかんだ。
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