第36話 学園のマドンナは頭を撫でたい

「相川君、こっちですよ」


 少し離れた場所で彼女が呼んでる。

 プールの中は人が多く、気を抜けば誰かとぶつかりそうになる。


 そんな中、渡辺さんは浮き輪に乗り、プールに浮かびながら俺に手を振っていた。


「渡辺さん、待ってよ!」


 水着を褒めたことで、少しの間、お互いを意識してしまいぎこちなかった俺たちだが、いざプールに入ると緊張も解け、いつの間にか渡辺さんも笑顔で楽しむようになっていた。


 入ったプールは大人用ということもあってか水深が深く、俺は泳ぎながら彼女を追いかける。浮き輪という機動力を持つ彼女に対し、俺は自力なので離されないように必死だ。


「渡辺さん、あまり遠くにいかないで!」


 周囲にも聞こえるように声を出す。流れるプールということでどんどん先に行く彼女に大声で話し掛ける。

 何せ、先程から周囲の人間が彼女に視線を送っているので、ナンパされたら厄介だ。



「はぁはぁ、やっと追いついた」


 彼女の下まで泳ぎ終え、渡辺さんが乗っている浮き輪に手を置いた。


「ふふふ、お疲れさまでした」


 息を切らした俺の頭を渡辺さんに撫でられた。


「渡辺さん?」


「あっ、申し訳ありませんでした。つい……」


 無意識だったのか、目の前に頭があったから手が出てしまったらしい。

 彼女は謝ると俺の頭から手をどける。


 よく考えたら、誰かに頭を撫でられるのは随分と久しぶりな気がする。


 母親は、俺が小さいころに亡くなっているし、父親には一人前に扱って欲しくて、甘えたことがないので、頭を撫でられたことがない。


「相川君?」


 俺が黙り込むと、渡辺さんが顔を覗き込んでくる。


「いや、何でもないよ」


 既に彼女の手は俺の頭から離れており、撫でられた時の感触も消えてしまった。

 俺の中に「もっと撫でて欲しい」という願望が思い浮かぶのだが、それを口にするのは恥ずかしい。


「それより、せっかく来たんだからもっと楽しもう」


 俺はそう言うと、浮き輪に手を掛けたままバタ足をして、彼女とプールで戯れるのだった。





「全身が結構だるい」


「あははは、相川君。張り切ってましたからね」


 泳ぎ始めて数時間が経過した。途中何度か休憩を挟みつつプールに入り、水に浸かりながらたわいもない会話をしながら遊ぶ。

 恋人同士になってから、一時、距離間を見失っていた俺たちだが、段々といつものやり取りを思い出してきて、今では付き合う前の様に会話が弾んでいる。


「渡辺さんが『もっともっと』って頼むからだろ?」


 流れるプールなので、何もしないでも波に揺られて進むのだが、彼女がせがむので、俺は泳ぎ、浮き輪を押し続けた。


「申し訳ありません。平気ですか?」


 俺の軽口を真剣に受け取ったのか、渡辺さんが顔を覗き込んでくる。こういう冗談を真に受けてしまう純粋さこそが彼女のもっとも可愛い部分かもしれない。


「へ、平気だから」


 腕にそっと触れる渡辺さん。水着姿ということもあってか、普段見えない部分が視界に飛び込んできてしまい目のやり場に困る。

 彼女は首を傾げると、訝しんだような視線を俺に向けてくる。流石に指摘するわけにもいかず、俺はそっと距離を取った。


「それにしても、結構混んでるよな」


 昼食時ということもあるのだが、レストランは多く客で溢れていた。席の利用率は九割を超えていて、残りの一割はテーブルが片付けられておらず、今も待ちが発生している。


 俺は何気なく、忙しそうにフロアを走り回っているバイトの姿を目で追いかけた。


「もしかして、手伝いたいとか思っていませんか?」


「どうしてわかったの?」


 俺は内心を言い当てられたことに驚く。まさに、自分だったらどうするかについて考えを巡らせていたからだ。


「相川君って、きちんと片付いてないのが嫌なんですよね? 海の家の時も手際よくテーブルを片付けていましたし、今も、こーーーーーんなに眉根を寄せて片付いてないテーブルを見てましたから」


 そう言って、俺の表情の再現なのか、渡辺さんは眉根を寄せると指で強調ししかめっつらをしてみせる。その姿があまりにも可愛くて俺は一瞬見惚れてしまった。


「確かにそうかも」


 父親と二人暮らしで家事を任されていることもあり、やるべきことは先に済ませる癖をつけてきた。

 そのせいで、片付いてない状況をみると妙に落ち着かないのだ。


 そんな俺の心理を見抜いた渡辺さんは、微笑ましいものを見るような目をしながら頬杖をつく。


「でも、渡辺さんもその辺はきっちりしてるんじゃないの?」


 立ち居振る舞いからして一切の隙がない彼女だ。きっと私室も整頓されているに違いない。


「私も、気になる方ではありますけど……」


 何やら含みを持たせた言葉が気になり、怪訝な目で見ると、彼女は言い訳を口にした。


「普段は整頓しているのですが、今日だけはちょっと……部屋が散らかっているんです。帰宅したら片付けないと、御父様に怒られてしまいます」


「そうなんだ、一体どうしてそんなことに?」


 普段は整頓しているというからには、イレギュラーなのだろう。彼女が片づけをできない状況と言うのは少し気になった。


「きょ、今日のデートでですね……どのような服を着てこようか……悩んでしまいまして……それで……」


 渡辺さんは部屋が片付いてない理由を告げると、恥ずかしそうに顔を伏せてしまった。


「そ、そうなんだ……なら、仕方ないかな?」


 つまり、渡辺さんは俺を喜ばせるために手持ちの衣装をすべて出し、散々悩んでくれたということになる。


「それは……その……ありがとうございます」


 思わぬ彼女の努力を聞いてしまい、俺はお礼を言う。そこまで想ってもらえたことが嬉しくて仕方なかった。


「あ、相川君だって、髪を整えてくれましたし! 今日の服装だって初めて見ます! お洒落してきてくれて嬉しいですよ?」


 俺がお礼を言うと、今度は彼女が俺を持ち上げてくれた。


「そのくらいは、せっかく渡辺さんと出掛けられるわけだし……」


 俺だって、一緒に行動する以上、彼女の恥にならないようには気を配る。だが、衣装全部を広げるまではしていないので、このデートへの意気込みで彼女に負けた気分だ。


「そのせいで、周囲の女性の視線が向きますし……いえ、相川君は私の彼氏さんなので、モテても問題はないのですが……やはり……」


 渡辺さんは口元に手を当てるとブツブツ呟き始める。しばらくして結論が出たのか、こちらをチラリと見ると、


「相川君は髪を下した方がいいと思います」


 そんな提案をしてきた。


「えっ、こっちの方が楽なんだけど?」


 最初は苦手だった髪のセットにも慣れてきたし、目にかからないというのがとても良い。

 もしかして、遠回しに似合っていないと言っているのだろうか?


 渡辺さんが浮かべる不安そうな表情を観察していると、


 『ブブブッ』


「おっ?」


「どうしましたか?」


「スマホが鳴ったから驚いて」


 基本的に俺が連絡を取り合っている人間と言えば、父親と渡辺さんである。

 最近までは相沢や沢口さんからも連絡があったのだが、花火大会以降はやり取りもなり潜めている。

 渡辺さんが目の前にいることを考えると父親の可能性が高い。


「ちょっと見てもいい?」


 もし父親だとすると、緊急の用事の可能性が高い。毎日朝晩と顔を合わせているので、連絡事項がある場合は事前に話しているからだ。


「ええ、大丈夫ですよ」


 渡辺さんの了承を得てスマホを開くと、


 相沢:よお、遊びに行かないか?


 メッセージを送ってきたのは相沢だった。


「どうされたんですか、何か良くないことでも?」


「ああ、いや。全然そんなんじゃないから大丈夫」


 顔に出ていたのか、渡辺さんが心配そうに俺を見る。

 俺は焦りを浮かべつつ、相沢に返事をする。


 この一週間、既読がついても一切返事を寄越さなかったので心配だったのだ。ようやくメッセージを貰えてホッとした。


 流石に今日は無理なので、予定が空いている候補日を告げ約束を取り付けスマホをしまう。

 俺がやり取りを終えるまで待っていてくれたのか、渡辺さんはじっとこちらを眺めていた。


「今のメッセージ、相沢だったんだ」


 俺がそう告げると、渡辺さんは眉をピクリと動かすと聞いてきた。


「そうですか。元気そうにされていましたか?」


 久しぶりに出る相沢の名前、一瞬、花火大会のことが頭をよぎり二人の間に沈黙が流れる。


「うん、まるでいつも通りだから拍子抜けした。今度一緒に遊ぶことになったよ」


 相沢との関係が変わらなかったことに安心するのだが、渡辺さんの表情は相変わらず険しい。


「そっちは、どうかな?」


 本来ならば、他人の交友関係に俺は踏み込むことをしない。たとえそれが恋人だとしても、探られて嫌な気分になるかもしれないので、これまで石川さんや沢口さんについて触れてこなかった。


 だけど、渡辺さんが沈んでいるのを見ると、どうにかできないか考えてしまう。


「元々、三人で作ったチャットルームがあるので、そちらでは毎日話しています。あの件については触れていません」


 聞くところによると、石川さんの発言は少ないが、概ね元気を取り戻しているのだとか。

 沢口さんも石川さんも、あの日以降、花火大会の話題をタブーとしているようで、渡辺さんもそれについては触れないので、彼女らが内心でどう考えているかは読み取れないらしい。


 だが、五人がいるチャットルームが沈黙しているのがその答えだろう。

 時間を戻すことができない。海での楽しかったひと時はもう戻らないのだと思っていると、


「それでも、今、私と相川君は一緒にいます。酷い話だと思いますけど、多分、里穂さんが振られていなければ……何か一つでも状況が違っていたら、今私たちはこうして付き合っていないと思います」


 だから、ここで後悔するのは違う。渡辺さんの瞳が俺にそう訴えかけてきた。

 確かにそうかもしれない。渡辺さんが想いを告げてくれなければ、俺はずっと心に蓋をしたままだっただろうし、彼女もそんな俺をどこかで諦めていただろう。


 俺たちの交際は、相沢と石川さん。沢口さんの不幸の上で始まったということになる。


 だけど、このままで良いのだろうか?

 このまま離れてしまうのがベストなのか?

 他の三人は後悔していないのか?


 楽しかった日々に未練がないのかと、俺は考えてしまう。


「俺、相沢に聞いてみるよ」


 本来は途切れるはずだったグループの関りは、かろうじて一本の糸――俺と渡辺さんを通じて繋がっている。

 この先、相沢と石川さんが付き合うことはないかもしれない。だけど、あの海の日のように仲間としての関係をふたたび取り戻すことができるかもしれない。


 俺がそう説明をすると、


「そうですよね……、私もまだあきらめません。里穂さんも真帆さんも相沢君も大切なお友だちですから。皆でまた仲良くしたいです」


 互いに目をみて頷く。

 その後、俺たちはデートを楽しみながらも、どうすればふたたびグループで行動をできるようになるか話し合うのだった。

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