第24話
母がいなくなった。
それを聞いたのは
姉はダイニングで困った顔をして椅子に座っていた。背中側のキッチンのシンクには今朝父と食したであろう朝食の皿とコーヒーカップが乱雑に置かれていた。運悪く父は大事な会合で帰りが遅くなるという。
先日銀二親子とうちで食事した時にご馳走を重箱に詰めて持たせてくれ、姉はその重箱を返しに行くと午前中に母に連絡していた。その時「ママの稲荷ずし食べたいな」とそれとなく言ったので、きっと今日はそれを作って待っていると思ってたという。
そういえば数時間前、銀二の家に行く前に着替える為に数分だけウチに寄ったがその時母はいなかったと思う。まさか誰かに不幸があって取り急ぎ出かけたのではないかとかいろいろ考えたが、だったらスマートフォンは持って出ているから父には連絡するはずだ。
意を決して姉が母の実家に電話してみた。母の弟からは「歌舞伎でも観に行っているんじゃないか」と、言われた。それももちろん思いついたが、歌舞伎を見たり、相撲を観戦に行ったり、レストランに出かけたり、夜なにかしらで出かけるときはたいてい父と一緒だった。しかも食器を洗わずに出かけるなんてことはない。唯一知っている母の友達の連絡先は父しかわからないので今確認しようがない。
「着物!」と言って、姉が母の着物を確認しようと2階へ駆けあがったのでアタシもついて行った。母のクローゼットを開け、着物のタンスを1段づつ引き出したが、抜けているものはなさそうだった。母はおしゃれして外出する時は着物を着るので、タンスを見る限りおしゃれはしてないようだ。
アタシも姉も打つ手がなくなり、冷蔵庫から食べられるものを適当に引っ張り出し夕飯の代わりにしていた。
しばらくしてほろ酔いで帰ってきた父がうなだれたアタシ達を見て
「ママはホテルにいるよ」
と、言った。
姉から連絡が来た父は、母のお気に入りのレストランが入った高級ホテルにこっそりと電話をして母の所在を確認していた。
「早く教えてよ……」
と、姉がつぶやいた。
なぜ母がホテルに1人で泊まりに行っているのかはわからないが、
「居場所もわかったしそっとしておこうよ」
と、父が言うので、今夜はとりあえず解散して明日母に会いに行くことにした。
母の実家は老舗の和菓子屋で今は母の弟が継いでいる。
評判もよく有名な俳優や文豪のお気に入りだとして雑誌やテレビで紹介されたこともある。老舗だけあって少し値は張るが、販売コーナーとは別にテーブルがいくつか並んだ喫茶スペースもあって繁盛していた。
母はそこの1人娘として育ち、短大を卒業後はこの店で働いた。父はこの和菓子屋に訪れていた客の1人だった。家に客が来るときなどはお土産に重宝するし、なにより祖母がここの団子が好物だったのでよくお使いにきていたのだった。それが両親の馴れ初めだ。
翌日、アタシと姉は昼過ぎに母の滞在しているホテルの一室を尋ねた。
「あらっ」と、言って迎え入れた母はこれまで見たことない母だった。
昨日近所のデパートで買ったという上質な淡い色のワンピースを着て胸元にこれまた見たことない高級そうなブローチを付けていた。いつも上品に後ろにまとめている髪も午前中に美容室でセットしてもらって、おろして品よくカールしている。昨日見つけた綺麗なパンプスが忘れられなくて、これからそれも買いに行くところだという。
この部屋も1人ではもったいないくらい高級な部屋で
「いくら使ったの?」
と、思わず姉が聞くと
「わからないわ。パパのカードだもの」
と、別人になった母はかわいらしく小悪魔的に笑った。
話は本題に入って姉がなんで誰にも言わずにこんなことしてるのかと問い詰めた。
「誰もママのことなんて気にしてないじゃない」
堰を切ったように母が話し出す。
姉は突然カミングアウトして理解がおいつかず、アタシは結婚式もせず、相談もなしに銀二の家に住むことを決めた。それに加え母である自分には料理を教えてなんて言ったこともないのに銀二の母に料理をならったり仲良くしている。
楽しみにしていた娘の結婚式もなければ、楽しみにしていた孫の顔は見られない。それに父は1人で退職を考え始めた。自分の望みなんて1つも叶わないとふと思ったら、今まで専業主婦として家族に尽くしてきたことがばかばかしくなりこのような暴挙に出たという。姉もアタシも黙って母の言い分を聞いた。
「2人とも……3人とも勝手なのよ」と、強い口調で母が言ったので
「ママも働けばいいじゃん、別にお金困ってるわけじゃないんだからボランティアでもいいし」
と、姉が言うと、
「ママにはそういうのわからないの……あなたたちと価値観が違うの……」
と、言って泣き出してしまった。アタシは母にタオルを渡し宥めた。
箱入り娘の母は外で働いたことがなく、きっと母の時代は家柄がよく大手勤務の男性のお嫁さんになって家庭に収まることが幸せとされていたんだろう。その点では母は勝ち組だったんだと思う。
しかし時代は流れ、多様化し女性も働く。自分がされたように手塩にかけて育てた娘達は訳のわからないことを言い出し、各々の価値観にそって自由に暮らす。母はその流れを横目で見ているしかできなくてはがゆかったのかもしれない。
「私がご馳走するから、ママの好きなところで夕飯しよう?」と、姉が宥める。
「そうだ、ヒール買いに行くんだよね?3人で行こうよ」と、アタシが宥める。
母はかわいくうなずいた。
買い物を済ませ夕食にはまだ早かったので、昨日の電話で心配をかけてるであろう母の実家へ行き、和菓子店の喫茶スペースで女3人で今夜は何を食べに行こうかと相談していた。
「パパはなんてママに声かけたの?」この店で両親が出会ったのを知っていたアタシは聞いてみたくなった。
「レジでお会計しているときにね、今度お茶でもしませんかって」
「なんて答えたの?」
「私は洋菓子が好きなので、ケーキ屋さんならいいですよって答えたの」
と、恥ずかしそうに嬉しそうに母は答えた。
すぐそこのカウンターで顔を真っ赤にしながら汗を浮かべた純朴な青年の父と、着物にエプロン姿で頬を赤く染めた可憐な乙女の母が、向き合って恥ずかしそうにしている様が容易に想像できた。その数日後2人で喫茶店に行ってショートケーキを食べたと聞いた姉は
「ママ、天邪鬼なとこ、
と、和菓子屋の娘が洋菓子をリクエストしたことを笑った。
アタシの“かわいくない遺伝子”は、かわいらしい人だと思っていた母から受け継いだものかもしれない。
和菓子を食べ終えると
「やっぱり、帰りましょ。パパのご飯心配だし……」
と、母は言っていそいそと帰り支度を始めた。アタシと姉は何も言わず目を合わせて、母の大量の買い物袋を手に立ち上がった。
実家の懐かしい甘い餡子の味が母に乙女心を思い出させたのかもしれない。
3人でタクシーに乗り家路を急いぎ、母のストライキは終わった。
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