第22話
翌日
家賃が安くて広くて綺麗という理由で都心から離れた通勤時間のかかるところに住んでることを後悔してるだろう。
ほどなくして杏奈は出勤してきて、早々に上司の元へと向かい遅刻を謝った。しかしその上司は今日は機嫌が悪いのか、何故遅れたのか言えと、杏奈に詰め寄っている。杏奈は事が事だけに、場所が場所だけに言えずに黙ったままだった。
何度も聞く上司に黙ったままだがどんどん表情が険しくなる杏奈を見て、さすがにアタシが割って入ろうと席を立った瞬間、
「つわりで何度か電車降りたので」
と、憮然たる面持ちで杏奈が言った。そしてフロア中の視線をさらった。
「そっか。できちゃった結婚か? 今時は珍しくないもんな!」
と、21世紀対応していない、アップデート前の上司が言うとすかさず、
「それーなんらかのハラスメントだと思いまーーす!」
と、ふざけた口調で
「クビになったら、お笑い1からやりますよ」
と、おどけた顔を見せたので(コイツいいヤツ……)と、感動すら覚えた。
これから多分、杏奈の前にはゲームかのように、この様な“時代遅れ達”が現れるだろう。それらに押しつぶされないで欲しいと願っている。
それと同時にアタシも一緒に戦う覚悟をした。
アタシは先輩に相談しようと今は秘書課の室長をしている
いつ会っても髪を巻いて睫毛もしっかり上がっていて指の先まで手入れが行き届いている。そんな彼女だが、結婚してほどなくして妊娠したものの流産してしまい、それを乗り越えて女子社員のための活動に尽力している。ハラスメント相談室の設置や会社が近隣のいくつかの託児所と提携しているのも彼女の功績だ。アタシは尊敬してやまない。
「
赤ワインを片手に伏し目がちで大人の妖艶な色気を漂わせながら香子が言った。
「なんすか。唐突に」
と、パスタをフォークに巻き付けながら色気なくアタシが聞くと、
「もっとハードルの低いものから要求しないと」
アタシと杏奈は会社に託児所を設置することと育児休業の延長を要求しようとしていて、それへの評価だった。
「今はね、『女子社員が未婚で子供産むんだって。すごいな!強い女だな!』っておっさんたちは思ってる段階なわけ」
アタシは頷きながら聞き入った。
「そこに大きな要求したって『強い女が来た』って警戒されて煙たがられるだけ。おっさんたちがこういうこともあるんだなって理解できる段階まで待たないと」
呆れた口調で香子は言った。
それまでは小さい要求をこまめにし、そういった“時代遅れ達”を慣らしていく。そして頃合いを見計らって大きな提案に入るという駆け引きをしろというのが香子の経験からくる話だった。
アタシよりわずか5歳上の彼女だが、結婚しても妊娠しても出産しても仕事は続けると宣言したときは今ならマタニティハラスメントと呼ばれるものに悩まされたという。しかも相手はおっさんだけではない。それらの“かわいい子”で在りたい女性も同性でありながらあちら側になる。
なぜこちら側がタイミングを計ったりあちらに気を使いながら発言しなくてはならないのかと納得はいかないが、悪意があるなしにかかわらず、いじめのような嫌がらせのような行為に名前が付いて表面上は変わっても、それは今でも脈々と続いている。だから悲しいかな戦略的に動かなくてはならない。
「つわりひどいなら、出社時間の変更を希望してみたら?それなら部署だけで判断できるしできないことはないよ」
経験者ならではの現実的な案だった。
溜飲を下げたアタシはまたパスタをフォークに絡めた。パスタはスプーンを使わないでフォークだけで食べる。イタリア人はスプーンの上でパスタをくるくるとしないので別に正しい作法ではないとどこかで聞きかじったからだ。それを見た香子は
「桜子のそういとこ好きだけど、周りに合わせて自分を変えなきゃいけないこともあるのよ」
と、またワインをくねらせながら呆れたように、悟ったように言った。
そして月日がたち杏奈は退社することなく産前休業に入った。そのまま育児休業をとり2年近くは休むことになる。両親に打ち明けると、父親は父親のいない子を産むなんてと立腹し、それに業を煮やした母親が手伝うため上京してきて杏奈の部屋で一緒に暮らしている。母親は離婚してこちらで娘と孫と一緒に暮らそうかとまで言っているそうだ。
この先どうなるかわからないが杏奈には世界1心強い見方が現れて、シングルマザーとしての第1歩を踏み出した。
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