第5話

 入社したころは残業ばかりで仕事帰りに食事に行けるのなんて週に1度か2度だった。

それならまだしも忙しさがピークに達すると、会社に泊まっている社員をよく見かけた。今はほとんど残業はなく、5時を過ぎると早く帰るよう促される。

かといってすべての業務を切り上げられるわけでもなく、残ったモノは持ち帰って片付けていたし、休みの日に企画書に手を付けたりもしていた。

しかし、あの頃に比べたらだいぶマシな世の中になったなんて思いながら、紺野との待ち合わせ場所に向かった。


 時間ギリギリに到着したアタシを、先に席に座っていた紺野こんのが立ちあがり一礼して迎えてくれた。やはり品のいいスーツで清潔感があって礼儀正しい男だ。

それに気取らないが評判のいいこのグリルバーを選択するセンスもなかなかだ。アタシはあまり社交的ではないけど、紺野の話や振る舞いが穏やかだからか緊張せずに済んだ。

 しかしどうしても気になって仕方ない。

彼のスマートフォンがずっと振動し続けているのだ。メッセージなのか、着信なのか。

テーブルに伏せられていたスマートフォンがブーブー音を立て、紺野はソレを確認した。その動作を何回か繰り返した後、なかなか静かにならないスマートフォンを上着のポケットにしまった。しかしそれでも鳴りやまない。鈍い音を胸元から響かせながらも彼は何事もないような振る舞いで、会話を続けた。

 もしかしたら上司の娘の自分に遠慮しているのだろうか、もしかしたら身内の緊急事態かもしれない、もしかしたら会社で重大な事件が起きているのかもしれない。紺野が何事もないような空気を醸し出せば出すほど、気になって仕方なく会話どころではなくなっている。

「あの……電話……」

と、会話を遮ってみると

「気になりますよね」

と、紺野は苦笑いしながら胸ポケットに手を入れた。

用事を片付けるため、彼は少しの間席をはずした。

 戻って来るなり何か重大な用事だと告げられるのかと思って待っていたが、彼は何ら変わらず何食わぬ顔で、さっきの話をし続けた。しかしながら『なにかあったの?』なんて気軽に聞ける仲ではまだないから、アタシは何も変わらず話を合わせた。


 先ほどのあれは何だったのだろうかと思いながら家路に就いた。

玄関を開けるととても賑やかな様子が伝わってきた。銀二ぎんじとその母が両親と夕食を共にしていた。

銀二の母は華道の家元の生まれで、本家を手伝いながら自宅で生け花を教えている。いつも着物を着てシャンとしていて、地元のカッコイイとして有名だ。

「桜ちゃんもおいで!」

と、帰るなり威勢よく呼ばれその輪に参加した。

 早速デジャヴだ。銀二がフーディのポケットに入れてるスマートフォンがブーブー鳴っている。しかしそれを気にしないふりをしている。紺野ほどではないが鳴っている。先ほどのトラウマか、だまって見逃せなかった。

「鳴ってるよ?」

「知ってるよ」

と、言ってしらんふりを続ける銀二。

「なんで出ないの?」

さすがに幼馴染だから突っ込むことができる。

「メッセだし、あとで見るよ」

面倒くさそうに答えた彼を見ていまいち納得がいかない。

そしてまた銀二のスマートフォンがブーっといった。思わず目をやってしまったアタシに対し

「元嫁だからっ」

と、返されてそれ以上何も言えなくなった。


 紺野に『なんで出ないの?』なんて聞かなくてよかった。人には即座に対応したくない呼び出しやメッセージがあるのだと学んだ。しかしそれというのは……銀二には元嫁だったわけで、紺野にとってそれに相応する人からの連絡だったんだと気づいた。

独身で結婚歴もないことは初めて会った鰻屋で父と聞いていたから、きっと彼女だったんだと漠然と思った。あの出来る父でもリサーチ不足だったわけだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る