第8話


 十一月の末、とうすい戦のため、札幌にいる教養部水産系の後輩三人を連れて函館へ行くことになった。北海道大学水産学部と東京水産大学の定期戦である。

 函館に移行してから柔道を始めた者たちの「水産学部柔道部」と、いわゆる「北大柔道部」の混成部隊で戦う。昨年は北大柔道部からは私と飛雄馬の二人だけで参戦し、東京で団体戦を戦った。東北大学との定期戦と同じく開催地が毎年交代で替わるのだ。

 飛雄馬はすでに九月に函館にある水産学部へ移行し、引っ越していた。だから私が、教養部水産系一年目の東英次郎、いしたけみぞぐちしゆうの三人を連れて特急に五時間揺られて函館へ向かった。地図で見ると札幌と函館はすぐ近くにあるのに特急で五時間もかかる。内地で特急に五時間乗ったらどこまで行けるだろう。

 北海道という土地の巨大さは地図ではなかなかわからない。実際に移動してみて初めてその大きさが実感できる。そもそも北大の敷地だけでも附属施設を合わせると日本の国土の五百分の一を占めるのだ。

 函館に着くまでに車窓の木々の種類も明らかに変わっていた。それほど遠いのだ。がる海峡にはイギリスの動物学者トーマス・ライト・ブラキストンが引いたブラキストン線という動植物の分布境界線があり、例えばクマの生息地は北海道がヒグマで本州以南がツキノワグマなどはっきり分かれている。しかし車窓を見ていると植生の境界は札幌と函館の間にもあるのかもしれないと思えた。

 水産学部のほくしん寮は学部の建物から四~五キロほど離れている。学生運動が激しかったころ、あえて離して建てたのだと噂されていた。その北晨寮に旅装を解いて今晩泊めてもらう手続きを済ませた。そして少し函館市内を探索してみようという話になった。私が最上級生なので一人で裁量することができた。

 この東水戦は東京水産大学にとっては重要な定期戦だが、北海道大学柔道部にとってはそれほど重要な位置になかった。それは試合がこうどうかんルールで行われるからだ。この東水戦はあくまでもお祭りで、学部間レベルの余興のような部分があった。実際これが始まったのは〝寝技仙人〟こと佐々木よういちコーチが現役時代に挑戦状を送ったのが始まりらしい。しかし東京水産大学にとっては本気の試合なので失礼なマネはできない。

 四人でりようかくや函館市街を見学した。みな、いつもの札幌での練習から解放されて笑顔だった。札幌の連中は今頃練習中なんだろうと思うと不思議な感覚だった。北大には柔道部が三つある。ひとつはわれわれが所属する全学の北海道大学柔道部。ひとつが函館にある北海道大学水産学部柔道部。もうひとつが札幌の北海道大学医学部柔道部だ。しかしながら後者のふたつは週に数回、一時間か二時間練習しているサークルである。本当に強くなりたい者は水産学部生でも医学部生でも北海道大学柔道部に入部する。

 市街見学を終えるとタクシーで水産学部へ行った。農学部、獣医学部と並ぶ北大の三枚看板、水産学部の建物は辺りを圧する大きさと風格があった。一学年二百人を超え、学部生の半数以上が大学院に進む、世界有数の海洋研究機関である。

 キャンパスをぐるりと廻ったあと、水産科学館に入った。入口のパネルを読むと、札幌の植物園が農学部の附属施設であるように、ここは水産学部の附属施設だと書いてあった。

 中に入ると、平日の昼間だからか誰もいなかった。

 巨大なクジラの骨格標本やトドのはくせいなどが並んでいた。研究者たちが至近距離から撮ったホッキョクグマやアザラシなどの写真もあちこちに飾ってある。戦前のものであろうセピア色に変色している写真もたくさんあった。ホルマリン漬けの資料は何だか人間の死体を想像してしまい、異様な雰囲気である。五、六メートルはあるクジラの陰茎や、深海に棲むダイオウイカなどがずらりと並んでいた。

 しかし、私が一番興味を持ったのは船の模型だった。北大は〈おしょろ丸〉〈北星丸〉〈うしお丸〉の三つの船を持っているが、このなかで最も大きな船がおしょろ丸である。研究者や学生たちが乗って、毎年何度もアラスカや南氷洋などへ遠洋航海に行く。

 パネルの説明を読むと、現在のおしょろ丸は4世で全長72・85メートル、乗組員百六名。明治四十二年の札幌農学校時代の1世は木造の帆船だった。そのおしょろ丸1世から4世までの模型が並んでいた。

「おしょろ丸はどこに浮かんでるんだろう」

 私が聞くと、一年目たちが笑った。

「先輩、浮き輪やブイじゃないですから浮かんでるっていうのはおかしいですよ。停泊っていうんじゃないすか」

「そうか。どこに停泊してるんだ」

「知りません」

「今から探して、こっそり船の中に入ろう。中が見たい」

 石井が不安そうな表情になった。

「また今度にしませんか。勝手に入ったら後で問題になりますよ」

 たしかにそうかもしれないと諦めた。

 科学館を出たところで一年目に食堂で飲物でも飲んで待っててくれと言い、私は飛雄馬に会うために学部本館の建物に入った。階段を上がってはひとつずつドアを見ていく。部屋の入口に航海学研究室とか海洋気象学研究室とかプラスチックプレートが付いている。あちこちのドアを開けては「増殖学科二年目のどう飛雄馬がどこにいるか知ってますか」と聞いた。みんな「知らない」と言った。

 適当なドアを引くと、そこは実験室のようであった。白衣を着た学生たちがビーカーやフラスコを扱っており、幾つかの小型電子機具のようなものもある。見知った顔が何人かいた。

「あ、増田さん!」

 男子学生がこっちを見て言った。彼とは教養部で同じクラスだった。私が入っていくと同様に同じクラスだった何人かが集まってきた。

「何しに来たんですか?」

 女子学生が聞いた。

「柔道の試合」

 みんなが笑った。

「おしょろ丸はどこに置いてあるの?」

 私が聞くと、今度は男子学生が答えた。

「置いてあるって、陸の上じゃないんですから。停泊っていうんです」

 たしかに柔道部の後輩もそう言っていた。

「どこに停泊してる?」

「いま航海中ですよ。ハワイかどっかにいるんじゃないかな」

 その男子学生が言った。

「増田さん、教養部の授業出てるんですか?」

「出てない」

「いつ函館に移行してくるんですか?」

「函館に来るのは五年目だよ。あと一回留年しなくちゃいけない」

「俺たち卒業しちゃいますよ。だいたい増田さん何歳なんですか。二浪して二留したら卒業は二十六歳じゃないですか。卒業しても就職ないですよ」

「卒業しなきゃいいじゃないか。就職しないという手もある」

 男子学生は呆れたように溜息をついた。

 本当のところ、私はさまざま迷いはじめていた。入学した時は水産学部に本学の柔道部員が一人もいなかったので、函館に移行すると練習量が減ると考え留年しようと思ったのだ。しかし、飛雄馬が移行し、さらに東ら強い水産系の一年目が三名入部してくれた。飛雄馬によると函館では町道場に通って、そこに出稽古に来ている実業団や高校の選手たちとも練習をやっているらしい。東たちと一緒に移行すれば寝技の練習もできるだろう。だから函館に移行する手もある。

 しかし入学してみると学部学科の転部がそれほど難しくないことが分かった。かつての柔道部の先輩たちのなかにも札幌で練習を続けたくて水産学部から獣医学部や農学部などに転部した人がたくさんいた。出す側の教授と受け入れる側の教授が双方納得すれば、一年遅れになるが転部は可能だ。こういったことは入試要項などには書いてないので入学してみないとわからない。

 文学部へ転部することも考えていたが、それならはじめから苦手な数学のない文系に入学すればよかったのだ。なぜ大嫌いな数学が受験科目にある理系を受験したのかというと動物をやりたいという思いが絶ちがたかったからだ。

「ところで飛雄馬がどこにいるか知らない?」

 私は聞いた。

「ああ、飛雄馬さんですね。おそらくひとつ下の階ですね」

 一人の男子学生が顔を上げて言った。

「さすが飛雄馬は有名なんだね」

 私が言うと、元クラスメートが「増田さんが無名すぎるんです。ちゃんと授業出て早く学部に来てください」と言った。

 私は片手を上げ、廊下に出て階段を駆け下りた。

 この階には浮遊生物学教室であるとか発生学遺伝学教室であるとか生物系の研究室が並んでいた。ドアを開けては「工藤飛雄馬はどこ?」と聞いてまわり、やっと居所を見つけた。飛雄馬は授業を受けていた。

 授業をしている先生が黒板に向かった瞬間、私は教室の後ろの方から入っていき、飛雄馬の後ろの席に座って背中を突ついた。飛雄馬が振り向き、私の顔を見てびっくりした。

「あれ? どうしたの」

 声をひそめて聞いてきた。

「どうしたって、明日東水戦だからさっき来たんだよ。飯食いに行こう。東たちも来てる」

「わかった。いま行く」

 飛雄馬は机の上の専門書とノートを鞄に入れて立ち上がった。二人で廊下へ出た。

 飛雄馬に連れられ、みんなで函館市街で夕飯を食べた。その日の夜は北晨寮の幹部が酒席を設けてくれ、歓待された。

 一年目を寝かしてから飛雄馬と久しぶりに二人きりになった。

 私も入れてわずか六人になってしまった同期の一人であり、同じ水産学部の盟友でもある。東北戦で札幌に来たときは他の部員たちも多く、あまり深く話せなかった。函館に来てからの授業の様子、研究者たちの能力、大学院の雰囲気、さまざま聞いた。

「こっちにはこっちの空気があるからさ」

 飛雄馬が言った。

 正直いうと本学札幌の柔道部では「飛雄馬は練習量が落ちて弱くなるのではないか」という声が一部にあった。そういう雰囲気を飛雄馬は敏感に感じているようだった。

「大丈夫だよ。俺はわかってるから」

 私は言った。

 札幌からの視点では函館はかなりの遠隔地である。東京から名古屋が二時間なのに、札幌から函館は五時間なのだ。感覚的には東京-福岡間の距離だろうか。北洋漁業の衰退があり、来年一九八八年には青函連絡船の廃止も決まっている。戦後何度も水産学部の札幌移転の話が上がっては消えるのは、海に隣接している立地もあるが「函館のほうが上」だとするふうが水産学部の老教授たちのあいだにあるのは否めないという。

 大学全体の研究の連携を考えれば札幌キャンパスに移転するほうがいいに決まっている。そのときは小樽に臨海研究所を持って船はそこに停泊させればいいという移転推進派の意見はもっともである。しかしプライドがあるのだ。函館は札幌より古い街である。そして水産学部は他大学を圧して日本一の海洋研究機関である。そのプライドが札幌移転を実現させないのである。

「このあいだ支笏湖キャンプで歌ってくれたあの寮歌、教えてよ」

 支笏湖キャンプというのは全学柔道部が夏合宿のあとに行う行事で、寒くなりかけて観光シーズンを終えた支笏湖へ行き、焚火を囲んで一泊して語り合う。他に人はまったくいないので柔道部員だけで支笏湖を独占している気分になる。「水産追いコン」という副題がついているように、九月に水産学部へ移行する柔道部員を送るためのコンパを兼ねている。そこで夜、飛雄馬が二人になったときに歌ってくれたのが『湖に星の散るなり』である。これは昭和十六年の恵迪寮寮歌である。

 支笏湖の面積はの九分の一ほどだが水深が最大三六〇メートルもあり、だから貯水量は琵琶湖に次ぎ日本二位という特殊な湖である。透明度が高いことでも知られしゆうやシベリアのバイカル湖などと比較されるほど世界的にも有名な湖だ。私もキャンプ時に潜ってみたが、どこまでも透き徹った水は芸術家たちから〝支笏湖ブルー〟と讃えられるに相応ふさわしいものだった。

 飛雄馬はこの美しい湖をモチーフにした寮歌「湖に星の散るなり」の歌詞の一番を砂浜に書いて教えてくれた。


湖に星の散るなり かそけさよ 松の火燃えて

漕ぎ出づる あい

岸辺ち しみじみ眺む

旅の日は はや暮れゆきぬ

夢に酔ひ 夢にぞかん

けがれなき 心を慕ふ

大いなる 支笏のうみ

花若く われが許に

希望のぞみ満ち 今宵宿らん


 一年目のときのカンノヨウセイで先輩たちに言われた「寮歌は覚えるものではなく吟味するものである」の伝に従えば、松の樹で焚火をしていると静かな支笏湖の湖面に星が散っているといった意味であろう。まさにその時われわれ柔道部が行っていたことだった。

 周囲はすべて深い森──。灯りはただひとつ。焚火だけだった。背後でゆらゆら揺れるその焚火から離れて、私たち二人は湖水の浜に座り込んでいた。入部してから一年半、ずっと一緒で、私が遅れてはいても、いつか同じ水産学部へ進学する仲間である。二人だけの言葉にならない気持ちがあった。

 北大を代表する寮歌『みやこ弥生やよい』が山々や平原、つまり陸で移りゆく季節を謳い上げるものだとしたら、この『湖に星の散るなり』は支笏湖という世界有数の美しい湖面に映る想念のさまざまを影絵のように歌詞として編みあげた詩だった。題名であり歌い出しでもある《湖に星の散るなり》という光景が、まさに眼前に広がっていた。満天の星空が黒い湖にそのまま映り込み、散るようにして揺れている。

「湖に星の散るなり、幽けさよ、松の火燃えて──」

 飛雄馬が抑揚なく砂浜に書いた歌詞を読み上げた。

 そして一番の最後まで読むと、今度はそれを歌っていく。

 その日の夜。二人はたしかに北海道大学と一体化した。


*     *


 函館に到着した翌日。私たち全学の北大柔道部員は、試合の二時間ほど前に水産学部の体育館へ入り、飛雄馬の指示で試合会場の位置を決め、柔道場から畳を運んで設営した。できるだけ観客が入れるように飛雄馬が事前に広い場所を確保したのだ。

 やってきた東京水産大学柔道部を迎え、柔道衣に着替えてウォーミングアップをしていると、北大水産学部応援団のほか、教養部時代の同級生たちもたくさん応援に来てくれた。

 試合は五人戦の点取り試合として行われた。

 私の相手は一三〇キロの重量級だった。ただ、どう大学の重量級のように特別に体幹が強いわけでもない。寝技なら取れると思った。しかし講道館ルールだから引き込みは禁止だ。寝技に持ち込むためにはまず投げなければならない。今回の最上級生は私と飛雄馬の二人だけなのだ。そのプレッシャーはあった。

 黄色い声援が飛ぶのは初めてだったので少し戸惑った。試合場脇に陣取った元クラスメートの女の子たちだ。

 試合が始まると相手は体格を利して前に出てきた。

 それをいなしながら足技で崩していく。北大に入ってからの私は立技で投げるだけの体のキレが二浪のブランクで戻っておらず、また、ほとんど乱取りが寝技ばかりになってしまっているので一本取れる投技というものがびたままだった。そもそも戻そうという気もなかった。取るなら立ち関節、あるいは有効程度の投げで寝て、腕を縛って抑え込むというパターンである。何度か相手を崩しては後ろについたりしたが主審の「マテ」が早く、取りきれなかった。

 一度は思いきって支え釣り込み足で横転させたが、これも主審のコールなし。寝技にいったが取りきれず「マテ」。組み直し際、今度は引き込み十字にいったが持ち上げられて「マテ」。

 相手は体が大きいだけに少しずつ息をあげてきていた。それを見透かされないようにするためか、襟を突っぱねてぐいぐい押してくる。場外際、その力を利用して私は大学に入ってからやっていない高校時代の得意技、右の片襟背負いで背負った。

 相手が体を預けてきた。七帝戦前に傷めてまだリハビリ中の左膝をかばって右に思い切り相手を振った。体勢が崩れ、一三〇キロを背負ったまま場外の板敷きに右膝からまともに落ちた。膝の中でグシャッと音がした。

 立ち上がろうとしたが右膝が安定せず立ち上がれない。両手を着いてやっと立ち上がって開始線に戻る。主審が「大丈夫か」と聞いた。私はうなずいた。膝が安定していないが激痛ではない。そこからは両手を突っ張ったまま立技で引き分けた。

 試合がすべて終わり合同乱取りとなった。痛みが酷くなっていた私は座ったまま見学した。

 練習後の打ち上げは函館市街の寿司屋の二階だった。足を引きずりながらついていった。飛雄馬が心配してずっと肩を貸してくれた。

「会場が狭かったから。畳の上だったらまだ良かったのに──」

 飛雄馬が言った。

「いいよ。明日になったら歩けると思う」

 寿司は、さすがに水産学部御用達だけあって美味かった。

 二次会へ行く頃にはさらに膝が痛くなって、ほとんど足を地面につけることができなかった。

 北晨寮に帰り、二段ベッドの下段に横になると、疲れで一気に眠ってしまった。しかし小一時間もした頃、膝の激痛で目が覚めた。左膝のときに何度も経験したロッキング現象だ。火箸を膝の関節内に突き刺されたような強い痛み。こうなると伸ばすことも曲げることもできない。いや、体を動かすこともできない。体中に脂汗が滲んでくる。喉の奥から声にならぬ声を出し、何時間もそのままの体勢でいた。片手で触れてみると膝が大きく腫れていた。こいつは左膝以上にやばいかもしれない──。


(この続きは2024年3月発売予定の単行本でお楽しみください)

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七帝柔道記Ⅱ 立てる我が部ぞ力あり 増田俊也/小説 野性時代 @yasei-jidai

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