第3話


第2章 たった二人の抜き役




 次の日、洗濯済みの柔道衣を抱えて道場へ行くと、すでに主将の後藤さんはじめほとんどの部員が道衣に着替えており、道場の隅に座って足首にテーピングしたりしていた。レギュラーではない一年目も着替えているのは試合後に合同乱取りがあるからだろう。九月にはこだての水産学部へ移行したばかりの同期のどうゆうの顔もあった。大鏡の近くに座りテーピングしていた飛雄馬は私に気づいて軽く片手を上げた。

 引退した四年目や五年目、そして札幌在住のOBが大勢応援に来ていて、久しぶりにたくさんの人がいた。しかし、部員も先輩たちもみな蒼ざめ、顔を引きつらせている。東北大が「観光に来た」と言っている話はすでに広がっているようだ。

 両腕を組んで座っている和泉さんがこちらを見た。頭を下げた私を、しかし和泉さんは黙ったまま見ていた。もういちど頭を下げたが和泉さんは黙礼も返さず、目線も動かさない。ただ黙って私の顔を見ていた。

 緊張しながら部室に入った。ちょうど着替え終わった竜澤と入れ違いになった。私は紙袋に突っ込んできたいわさき製の道衣に着替え、ロッカーから自転車チューブや包帯、テーピングテープなどを出し、床に座ってそれらを膝やら手首やらに巻いていく。試合本番では必ず岩崎の柔道衣を着ることにしていた。

 部室の外が急にうるさくなった。

 東北大の連中が来たようだ。

 帯を結びながら、私はできるだけゆっくりとした所作で道場に出た。竜澤が両腕を組んで壁にもたれており、ちらりと私に目配せした。東北大の連中がなごやかなのを言っているのだ。

 たしかに緊張感がない。みなリラックスしている。

 夏の七帝戦のときより、さらに体が大きく見えた。とくに幹部連中は背丈も体の厚みも、北大のそれを圧倒していた。いつもなら七大学で一番仲のいいチームなので歓談したりもするのだが、なめたことを言われているのを知っているのだ。北大勢は誰も近づいていかず、東北大が着替えるのを黙って見ていた。

 岩井監督がやってくると、後藤さんが走っていって挨拶した。そこに杉田さんも行き、三人で何か話している。岩井監督の表情が曇った。もしかしたら杉田さんが伝えているのかもしれない。

 しばらくすると、後藤さんが両手を上げ、パンパンと叩いた。

「北大集合!」

 みな小走りに集まっていく。

 私はしかし、緊張を気取られぬようゆっくりとそこへ歩んだ。竜澤が両肩をまわしながら、やはりゆるりとした所作で近づいてくる。東北大学からどう見えるか。それを考えていた。そして北大の下級生たちの眼にどう映るか。それを考えていた。

 岩井監督がぐるりと北大勢を見まわし、東北大学に聞こえないように小声でオーダーを発表していく。いつもそうだが岩井監督は紙に書かずとも頭のなかにすべて入っている。

 私は三将だった。

 竜澤が五将、東英次郎は中堅に置かれていた。

 十五人のうち、七人の一年目を出さねばならない。誰が抜かれてもおかしくない。いや、一年目どころか私や竜澤も、東北大学にとっては十五人全員が穴であろう。彼ら東北大の抜き役陣をトラやライオンに喩えれば、私や竜澤や東はオオカミか。いやオオカミですらない。イノシシくらいだろう。だが、トラやライオンから見れば、オオカミもイノシシも、ウサギもネズミも同じ食い物でしかない。



 東北大と北大のオーダーが黒板に順に書かれていく。

 名前が一人記されるたびに両陣営から小さな声が上がった。

 東北大は「俺たちに回すな」と言っていた三年生の超弩級四人が本当に後ろに並んでいた。普通はこれだけ駒が揃っていれば、大将に主将の佐藤稔紀さんを置くのは常道としても、他の強者を全体に散らしてチームの勝ちを揺るぎなくするはずだ。完全になめられていた。


東北大学   北海道大学

(学年)   (学年)

先鋒 小林文則2 工藤飛雄馬2

次鋒 西川 治2 守村敏史1

三鋒 脇野真司3 荻野 勇2

四鋒 金子 剛1 石井武夫1

五鋒 塩見祐二3 松井 隆2

六鋒 大森泰宏2 川瀬悦郎1

七鋒 平山 健2 城戸 勉1

中堅 長谷部諭3 東英次郎1

七将 永峰共能1 溝口秀二1

六将 輿水 浩2 斉藤哲雄3

五将 山口孝幸3 竜澤宏昌2

四将 高橋隆司3 藤井哲也1

三将 小野隆之3 増田俊也2

副将 斉藤 創3 宮澤 守2

大将 佐藤稔紀3 後藤孝宏3


 しかし、並んだ名前を見るとその超弩級四人までたどり着けるのかさえ疑わしかった。四人以外にもずらりと実力者が並んでいる。絶望感しかなかった。

 引き分けが続けば私の相手は小野隆之さんだ。

 七帝戦本番で昨年も今年も活躍した七大学屈指の抜き役である。

 背が高く手脚も長い。懐の深い体型を活かして相手の背中につき、ネルソンからの回転縦四方で二年生時から活躍している有名選手だ。いったいどうすればいい。あたりまえだが私が抜くなんてありえない。そもそもあの小野さん相手に私が分けられるのか。まいがした。脳味噌も心臓もふわふわして落ち着かない。鼓動も速まっていた。

 主務の杉田さんが東北大側へ試合前の挨拶に行く。そして蒼白の顔で戻ってきた。

「最後の四人、じゃんけんで順番を決めたらしい」

 なんてことだ……。

「北大、集合!」

 後藤さんが全員を集めてこの試合の意味について話しはじめた。何を言っているのかまったく頭に入ってこない。それは他のメンバーも同じようで、うつむいて聞いている。主審に言われて十五人のメンバーが試合場に上がった。近くで向き合うと東北大はさらに大きく見えた。私は眼の前にいる小野隆之さんを強く睨んだ。しかし小野さんの眼は涼やかなままである。相手にもしていないようだった。

 主審が先鋒を残して下がるように指示する。

 十五人の抜き勝負。すべて終わるのに二時間近くかかる異形の七帝ルール。国内にも海外にも類のない、場外なし一本勝ちのみの試合である。そして絞めは落ちるまで、関節技は折れるまで耐える精神性を持つ。

「はじめ!」

 主審の声で先鋒戦が始まった。ここは大丈夫だろう。飛雄馬はこのところ大きく伸び、竜澤にも私にもいっさい取られなくなっていた。とくに立技が伸びており、誰にも投げられなくなっていた。先鋒はたいてい動きのいい斥候が配置されるが、飛雄馬も相手の小林も、相手校の出方を探るのが役目である。飛雄馬はいつもの軽快なフットワークで相手のまわりを飛びまわる。互いに袖を持った瞬間、小林が引き込んだ。飛雄馬はその引き込み際を捌いては立ち上がることを繰り返している。最終的にお互いに相手の良いところを出させずに、探り合いのまま試合は終わった。

 しかし次鋒の一年目もりむらから北大は攻められっぱなしになった。誰もがぼろぼろにされて必死になりながら引き分けている。

 私と竜澤は並んで立ち、両腕を組み、ときどき大声をあげた。

 北大陣が取られそうになるたびに、和泉さんら先輩たちも立ち上がって声援を送っている。

 緊張感のある引き分けが一時間近く続いた。

 しかし、後ろには東北大の超弩級四人が座っているのだ。どうあがいたって、あそこで全員抜かれる──。

 監督の顔を見た。いつものように静かに指示を送っている。

 中堅の東英次郎が期待を担って開始線に立った。

 北大陣営から声援を受け、いつもの気合で三年のさんに対した。はじめ立技から上になって攻めるが、ここも取れないだろうと私は踏んでいた。長谷部さんは二年のときから七帝戦に出て京大との二年連続決勝戦でもレギュラーを張った鉄壁の分け役だ。今では攻撃力も相当にある。昨年、つまり私が一年、長谷部さんが二年だったときに東北戦で当たった私は攻めまくられて途中で肋骨を折られ、ほうほうていで引き分けた。とにかく体幹の力が強い。おそらくそれは下級生のころから強い上級生たちと毎日乱取りをしていたからに違いない。私の予想通り、東英次郎は長谷部さんに余裕をもって引き分けられた。

 均衡が破られたのは七将同士の戦いである。

 東北のながみねは一〇〇キロを超える重量級。北大の宮澤とたきかわ高校の同期で高校柔道部のキャプテンだった。現役のときは北大を受けて失敗して宮澤だけが入学した。北大は一浪での入学を待っていた逸材だったが東北大学に入学してしまった。一年目のみぞぐちしゆうじでは荷が重すぎる。溝口は白帯スタート組だった。しかし試合が始まると相当に粘りを見せた。鬼のような形相で攻める永峰に対し、溝口は必死に分けにいく。上から潰され、カメになり、そこでしばらく頑張った。北大から「頑張れ!」「耐えろ!」と多くの励ましが飛ぶが、一〇〇キロの体でプレッシャーをかけられ続け、最後は力つきたように返された。下から永峰に抱きつき脚を二重がらみにして守る。二人とも眼を開いていられないほどの汗で畳が濡れていく。そのうち永峰が力ずくで脚を抜いて横四方に抑え込んでしまった。

「一人ずれたな……」

 私は緊張しながら竜澤に話しかけた。

 しかし横にいると思ったら答が返ってこない。後ろを振り向くと、松井君を相手に内股の打ち込みをしていた。すでにその身体からは湯気があがっている。緊張からか顔全体が蒼ざめていた。

 四年目の松浦さんとすえおかさんが話している。

「テツに頑張ってもらわないと……」

「大丈夫だろうか」

「立っていけばなんとか……」

 斉藤テツさんが溝口秀二に代わって開始線に立った。

 一六〇センチ六〇キロの身体は、一〇〇キロを超える巨漢の永峰の前で頭を垂れる小学生のように見えた。北大の救いは小学生時代に町道場通いをしていたテツさんが、小柄ながらステップワークが良い選手であることだ。そして永峰がまだ一年生なので引き込んでの下からの寝技はできないだろうこと。だからテツさんが引き込まない限り、永峰はテツさんを投げないと上になれないということだ。さらにもうひとつ。永峰は浪人しているので体力が戻っていない。一人抜いて肩を上下させ、荒い息を吐き、両手を膝についていた。後ろから東北大の先輩たちの激励が飛ぶたびに振り返って肯いているが、止まらぬ顔の汗を何度も拭っている。

 試合が始まった。テツさんは永峰の立技を捌いて時間を稼ぐ。永峰は「一人抜いたら分けろ」の指示が出ているのか攻撃してこない。一試合目で完全にスタミナ切れしているようだ。途中でテツさんがこかされたが、すぐに立ち上がってしのいだ。両陣営から「あと半分!」の声が同時にあがった。残り三十秒。ここは引き分けだ。

 竜澤が岩井監督に呼ばれて走っていく。斜め前に正座し、監督の指示に黙って肯き、一呼吸して立ち上がった。そして帯を解いて道衣の前を直しながら戻ってくる。

「なんて言われた?」

 私が聞くと、帯をぐいと結び直した。

「抜きにいけ、だ」

 おそらくそう言われるだろうと思っていたが私も一緒に緊張した。岩井監督は、私たち二人には七帝戦でも優勝大会でもいつも「思いきっていけ」のひとことだけで、指示したことすらない。緊張があった。混乱もあった。しかし一人ビハインドで他に抜く者がいないのだ。

 竜澤が試合場へと上がっていく。

「竜澤さん、お願いします!」

「抜いてください!」

「お願いします! ファイトです!」

 一年目の大声があちこちから飛んだ。つい半年前まで私たちが先輩たちに言っていた言葉が、自分たちの背中に飛ぶようになった。不思議な感覚だった。

 竜澤の相手、輿こしみずは同じ二年生。小柄だが、今年の七帝優勝メンバーにも入っており、難攻不落の寝技を持つ。なにしろ二年連続優勝の東北の先輩たちにボロボロにされ続けた二年間の経験を持っている。そのなかで身につけた絶対の寝技だ。しかしここは竜澤に取り返してもらわないと北大に後はなくなる。

 両者ゆっくりと頭を下げた。

「はじめ!」

 主審の声が響いた。

 輿水が腰を引いて組みにいく。竜澤もタックルを警戒して腰を引き気味にし、慎重に輿水の袖を探る。輿水が素速く襟を握って寝技に引き込んだ。竜澤が上から速攻。輿水がカメ。竜澤は輿水の頭にまわって横三角。右膝頭を後頭部に当て、全体重をかけて潰した。これによって輿水の脇を空かせようとしているのだ。輿水が必死の形相で耐える。その脇の下に左の踵を捻じ込む竜澤。

「竜澤、それ返せるぞ!」

 五年目の岡田さんの声だ。

「いけるぞ!」

 この声は大学院生の斉藤トラさんか。

「竜澤! 取りんさいや!」

 和泉さんの大声が飛んだ。

 しかし竜澤が踵を捻じ込んでも、輿水は返される寸前にその踵を押し出すので横三角に捉えることができない。同じ攻防が何度も何度も繰り返された。

 時間が刻々と過ぎていく。

 カメになった輿水も、それを横三で攻める竜澤も大量の汗を滴らせていた。抜き役の横三角と分け役のカメ、まさに矛と盾の関係である。

「竜澤──」

 岩井監督が声をかけた。竜澤がそちらを見ると監督は右手のひらを上に軽く上げ「立っていけ」と言った。

 竜澤が肯いた。額の汗を拭いながら立ち上がると輿水が竜澤のズボンをつかんでしがみついた。立技から再開されるのを避けようとしているのだ。竜澤が輿水を引きずってその手を切ろうとするが輿水も必死だ。東北大陣営から「離すな!」と声があがる。最後は竜澤がもう一方の膝で潰すようにしてその手を切り、ようやく立ち上がった。

 開始線に戻る。輿水も立ち上がり、息を荒らげながら開始線に戻った。七帝ルールには場外がないので「場外マテ」はない。寝技こうちやくのマテもないので試合時間ずっとカメをしていても「膠着マテ」はかからない。かかるのは一方が寝技をやらない意思を示して立ち上がった場合だけである。

「はじめ!」

 主審が言った。

 輿水が極端に低い姿勢で前へ出てきて袖を握った。引き込もうとした瞬間、竜澤がガバッと上から奥襟を持ち、引き手を握った。輿水を引きずり上げるようにして得意の内股を放った。

 輿水が大きく吹っ飛んだ。

 北大陣営から「いった!」と声があがった。

 輿水が畳に落ちた。両陣営が主審を見た。

「技あり!」

 その声に、北大陣営と東北陣営の歓声と怒声が交錯した。竜澤が長髪を振り乱しながら上からまた寝技で攻めはじめる。北大陣営の先輩たちからは「いけ!」と、東北大陣営からは「輿水なにやってんだ!」と大声があがる。岩井監督が「竜澤、立て」と指示を出した。竜澤が監督を見て肯き、立ち上がった。

「はじめ!」

 主審の声に竜澤が飛び付くようにして奥襟。そのまま内股を放った。北大陣営から大歓声があがった。しかし輿水は身体を捻って腹ばいに落ちる。主審のコールなし。「よし!」と東北大陣営。竜澤は輿水を引きずりあげるようにしてまた内股。輿水は吹っ飛んだが腹ばいに落ちる。さらに竜澤が引きずり上げて内股。輿水がカメになって竜澤のズボンの裾を握りしめた。竜澤が髪を振り乱して横三角にいく。輿水はカメで耐える。

 そこからは、立技を避けて引き込む輿水を竜澤が持ち上げて主審が「待て」をかけることが繰り返された。両陣営の怒声のなか、引き分けとなった。

 私の相手は高橋さんになりそうだ。

 高橋さんは引き込んで下から返す本格的な寝技をやる。

 一〇〇キロを超える寝技師にどう対すればいいのか。

 シミュレートしながら私の呼吸は荒くなっていく。

 しかし、次の一年目のふじてつが東北三年のやまぐち孝幸さんの怒濤の攻撃に崩袈裟に固められた。二人差になった。私の相手は山口さんに変わった。考えている暇はなかった。山口さんも私より二回りは大きい。

「増田──」

 岩井監督が、抑え込まれている藤井を見ながら私を手招きした。小走りで監督のもとへ行き、そこに正座して言葉を待った。

 監督の眼が、私を見た。

「抜きにいけ」

 言われるのはわかっていたが、心臓のあたりが熱くなった。

 膝の怪我以来、初めての試合である。

 抑え込み三十秒の一本を宣せられ、藤井が立ち上がって開始線で道衣を直して戻ってくる。私は藤井の尻を叩き、代わって畳に上がった。

 深呼吸し、弱気を顔に出さぬように開始線に立った。

「増田さん、お願いします!」

 一年目たちが大声をあげた。一矢報いなければなめられっぱなしだ。まともに組んだら投げられるかもしれない。寝技に引き込まれたら返されて抑えられるだろう。組み際の奇襲しかない。

「はじめ!」

 主審の声と同時に前へ出た。山口さんが手を伸ばしてきたので私は応じ、右自然体に組み合った。そのまま一歩、私は下がった。山口さんがついてきた。私は二歩目を下がった。山口さんがついてきた。三歩目を下がりながら私は素早く右に体を開いた。支え釣り込み足。山口さんが横転した。

「技あり!」

 主審が右腕を水平にあげた。

「よっしゃ!」と北大陣営が沸いた。

 しかし私は寝技にいかず、山口さんから離れて開始線に戻った。

 岩井監督と眼が合った。

 監督が肯いた。

 私の本当の狙いは、次の二度目の組み際にあった。いつも乱取りを見ている監督にはそれがわかっている。

「はじめ!」

 主審が言った。

 山口さんが私の襟を取りにきた。

 私は両手でその襟を切るふりをして山口さんの手首を固定し、立ったまま得意の脇固めにいった。

「痛っ!」

 山口さんが声をあげた。かまわず私はそのまま引きずり倒し、寝た姿勢で肘を極めた。

「よし!」

 北大陣営から拍手と大歓声があがった。

「山口、耐えろ!」

 東北陣営から声があがる。骨折させると数カ月は練習ができなくなる。七帝戦本番と違い、ここは参ったしてほしかった。私は折るぞと両腕に渾身の力を込めて伝えた。山口さんが手を叩いた。

「一本!」

 主審が言った。

 北大陣が一斉に沸いた。立ち上がって監督を見たが、いつものように黙っていた。山口さんが肘を抱えて立ち上がった。主審の「勝ち」という宣告を受けて頭を下げ、私は畳に残った。

 だが、この後どうすればいいのか。

 四人並ぶ超弩級をどうすればいいのか。

 俺がどうこうできる相手は一人もいない。

 未経験のレベルの寝技を持つ人たちだ。

 高橋さんが開始線に立つ。私は深呼吸して帯を結び直し、眼を合わさないように視線を落とした。頭中で作戦を巡らした。何も浮かばない。高橋さんは寝技に引き込んでくるだろう。引き込んでくる巨漢の実力者と私は対したことがなかった。どうすればいいのか。頭を巡らした。速攻をかけたらそのまま返されるのではないか。股を割ってかみついたら後ろ帯を取られて返されるのではないか。何も浮かばない──。

 混乱したまま試合が始まった。

「もう一人頼むで!」

 和泉さんの声が遠くで聞こえたような気がした。

 そうだ。二人ビハインドなのだと気づいた。

 高橋さんが引き込むのに合わせ、脚の間に入って一呼吸あけようとしたが、ものすごい力で引きつけられた。頭を下げられ腕を引っ張り込まれた。そのまま脇をすくわれた。横に変則的に返され、そのまま横四方に入られた。潜り込もうとしたがその動きに合わせてくずれかみに変化され、そのまま抑えきられた。

 一本を宣せられ、開始線に戻って頭を下げる間も、何も感じなかった。悔しさすら感じない。いったいこの感覚はなんだろう。これが七帝戦のスタンダードなのだ。俺たち北大柔道部は、ずっとずっと下をとぼとぼと歩いているだけの小さな存在なのだ。

 私と入れ替わりに宮澤が出ていく。

 道衣を直しながら立ったまま試合を見た。

 宮澤は引き込み際に脚を捌かれて、すぐに袈裟に固められた。

 先輩たちが「袈裟で抑えられてどうするんだ!」と怒鳴っている。

 最後の砦、大将の後藤さんも同じパターンですぐに袈裟で抑え込まれた。高橋さんは、後藤さんを抑える三十秒の間、笑みを浮かべて東北大陣営を見ていた。

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