第2話

「あら。増田君──」

「こんばんは」

 狭い店内に客は誰もいない。

「今日は一人?」

「いえ。後ろに竜澤がいます」

 振り返ると竜澤が口に人さし指をあてていた。

 私は店内に顔を戻した。

「うちの先輩で今日来るとか言ってる人いないですか」

 ママがにやにやしながら立ち上がり、薬缶のかかったガスコンロに火を入れた。

「また先輩に奢ってもらおうとしてるのね」

「今日はちょっと来月の試合についていろいろ相談があるんです」

 そう続けた私の顔をママは笑いながら見ている。しかし相談うんぬんは噓でもない。私も竜澤もいろいろ悩んでいた。

っちゃんと一緒にお茶だけでも飲んでいきなさい。今日は寒いでしょう。お金はいらないから」

「いえ。ありがとうございます。みねちゃんに行ってみます」

 頭を下げ、急いで引戸を閉めた。そして竜澤に向き合った。

「誰もいないよ」

「五年目も四年目も?」

「先輩だけじゃなくて他の客もいない」

 それを聞いて竜澤が喉のなかで唸った。

「そうか。ママ大変だろうから金ができたらまた来よう。小さい子供がいるからな」

「そうだね。来たほうがいい」

 私たちはまた肩を並べて、いま来た北大通りの歩道を北上して戻っていく。真冬になると除雪車が横へ雪を吐き出すので車道と歩道の間に高さ二メートルから三メートルの雪の壁ができる。そして歩道の足下の圧雪アイスバーンは五〇センチから七〇センチの厚さになる。その圧雪をのこぎりで切って雪のブロックを造り、ドーム状に組み上げれば、カナダエスキモーのイグルーと呼ばれる住居が作れるはずだ。厳しいその冬はすぐそこまで来ていた。

 しばらく行くと前方にホテル札幌会館が見えた。背が高い茶色の建物だ。あの手前を右へ折れると、みねちゃんが入っているカネサビルがある。大袈裟にビルなどと名前が付いているが築年数の古い木造モルタルの二階建てである。別名「北大体育会の巣窟」と呼ばれ、様々な運動部の上級生たちがたむろしている。

 ビルの入口は北大武道館の一階入口に似た鉄枠ガラス製の重いドアだ。私はそのドアをぐいと引っ張った。ひゅううと風の音が鳴った。中に入ってすぐ左の店がみねちゃんである。『やきとり』と書かれた赤提灯をよけて店の前に立った。竜澤がまた一歩下がったので私は大きな暖簾を分けて引戸をひいた。

「らっしゃい!」

 いつものようにみねちゃんの威勢のいい声があがった。

「おう増田か。和泉がいるぞ、和泉が」

 両手に串を持ったままカウンターの奥に視線をやった。

 紺色ジャージの坊主頭が座っていて振り向いた。

「あんた、美味いもんにありつこう思うてわしがおるのを狙ってきたんじゃろ」

 広島弁のバリトンが響いた。和泉さんに会うのは久しぶりだった。後藤さんの前の主将である。

「そんなわけないじゃないですか。たまたまですよ、たまたま」

 私が笑いをこらえながら振り向くと、竜澤もにやつきながら店を覗きこんだ。

「あれ? 和泉さんだ。こんばんは」

 とぼけた口調で言った。

 和泉さんがげらげらと笑った。

「なんじゃ、竜澤もおるんかい。悪ガキ二人でつるんでから。入ってきんさい」

 二人でそそくさと入って引戸を閉めた。ストーブががんがんに効き、炭火焼きの串ものの香りが店内に満ちている。

 竜澤が笑いながら奥へと行く。

「まさか和泉さんがいるとはほんとに偶然です。お邪魔しちゃっていいですか。せっかく一人で飲んでいるところに」

「あいかわらずな奴らじゃのう。人が増えてきたけ、ちょっと座敷を借りようかい」

 奥の部屋へ顎を振り、一升瓶を握って立ち上がった。座敷といっても畳三枚ぶんほどの小上がりである。三分の二が壁になっており、三分の一がカウンター側から見える構造だ。

 和泉さんがサンダルを脱いで上がっていく。そこに私と竜澤が続いた。座卓についた。和泉さんがいつもの光る眼で二人を見た。

 みねちゃんがやってきて私と竜澤におしぼりを投げた。熱くて火傷やけどしそうなそのおしぼりを手のひらで転がしながら私は「生ビールを大ジョッキ、二ついただけますか」と頭を下げた。

 みねちゃんが消えると、和泉さんが笑った。

「あいかわらずのバッドボーイズじゃのう」

「そんなんじゃないですよ。意外に真面目ですよ、俺たち」

 竜澤の言葉は、半分噓で、半分は本当である。つい最近、私たち二人は共に生まれて初めての彼女ができた。しかし何度デートしても二人とも手も握れずにいた。

 みねちゃんが大ジョッキを二つ持ってきた。和泉さんが「練習ごくろうさん」と焼酎のコップを私たちに向けた。二人はそのコップにジョッキをぶつけ、急いで生ビールを飲んでいく。練習で失われた水分の補充はまだ三リットル以上足りない。二人ともジョッキを空け、待っていたみねちゃんに頭を下げて返した。みねちゃんはすぐに生ビールを満たして戻ってきた。座卓にそれをどんと置き、そのままかまちに尻を半分乗せて座った。自分のジョッキも持っていて大きな喉仏を上下させながら三分の一ほど飲んだ。口についた泡を作務衣の袖で拭った。

「さっきも和泉と話してたんだけど、おまえらあの旗判定どう思うよ?」

 みねちゃんが言った。和泉さんが前年に続き連覇を狙っていた九月のしようりき杯体重別個人戦の北海道予選六〇キロ級決勝で、道都短大の選手に負けた試合のことのようだ。

「どうみたって和泉の勝ちだろうよ。あの審判、何考えてんだって」

 みねちゃんの顔が紅潮しはじめた。

「俺、あの瞬間、『馬鹿野郎! 八百長やってんじゃねえ!』って怒鳴りつけて帰っちまったんだから」

 強い口調でぶちまけた。

 そして「どう考えてもあの判定はおかしい」と首を捻って一気にジョッキを空にした。たしかに試合は終始和泉さんが押していた。得意の捨て身小内で何度かこかし、明らかに一度は効果のポイントがあった。しかし主審はそれを取らなかった。最後に副審の旗が割れたとき「あれ?」と思ったが、まさか主審が相手選手に上げるとは思わなかった。会場はざわついた。

「みねさん、もう言わんとってください。一本勝ちすりゃあ、あんなことにはならんのですけ」

 和泉さんが焼酎の番茶割りを口に運びながら言った。

 しかし、みねちゃんの怒りは収まらない。

「だけどおまえ、あれだけ練習したんだぞ。あれだけやってあんな八百長みたいなことやられて、やってられるかっていうことだ」

 みねちゃんは今度は一升瓶に手を伸ばし、それを鷲づかみにしてビールジョッキに焼酎をなみなみと入れた。それをストレートであおりながら語り続けた。

 みねちゃんが言うには、和泉さんは主将としてチームを率いた七月の七帝戦引退後、国際ルールの正力杯体重別個人戦六〇キロ級北海道予選の連覇に賭け、朝六時からみねちゃんに連れられて道で高校ナンバーワンのほつかい高校レスリング部の朝練に単身参加していたという。

「ほんとですか……」

 さすがに私は驚いた。竜澤と顔を見合わせた。和泉さんはそんなことを一言もいわなかったのだ。

 みねちゃんが続けた。

「命がけの練習だったんだぞ」

 朝は北海高校でレスリング部員たちと猛烈なスパーリング、そしてサーキットトレーニングや裸でのタックルの練習などを繰り返した。午後になると今度は柔道衣を抱えてとうかい大四高に出稽古へ行き、高校柔道全国トップクラスの重量級陣と乱取りを繰り返したという。北大道場に顔を出さないと思っていたら、陰でとんでもない努力を重ねていたのだ。その練習は実は前年の主将時代の体重別前にもやっていたという。私たちが道警特練への出稽古などあの過酷な練習で音を上げているとき、和泉さんは隠れてさらに厳しい練習を自身に強いていたのだ。それによって体重別で優勝し、団体戦で六〇キロの体で一五〇キロの相手とやっても負けない柔道を身につけたのだ。主将として七帝戦へ向けたリーダーシップをる和泉さんとは別の、もうひとつの勝負師の顔だった。

「みねさん、それもこれも含め勝負の世界ですけ、もう言わんとってください」

 和泉さんは手酌で一升瓶からコップに焼酎を満たし、それをあおった。みねちゃんは渋い顔でうなずき、カウンターのほうへと戻っていった。

 私はその場に正座して和泉さんに向き合った。

「先輩。俺たち、先輩がほとんど道場に来てくれないから『和泉さんはもう柔道部のことなんてどうでもよくなったんだ』って話してたんです」

 和泉さんは黙ってコップの焼酎を飲み干した。竜澤も正座し、両手で一升瓶を持ってそのコップに焼酎を満たした。和泉さんはコップを持ち上げて唇の前で止め、何かを考えている。やがて一口も飲まずにそのコップを置いた。

「わしの個人戦なんてどうでもええ。話の順番が違うじゃろ。わかっておると思うが」

 その言葉に私は緊張し、唾を飲み込もうとしたが急に喉の奥が乾いて嚥下できなかった。

「どうじゃ。東北戦に向けての仕上がり具合は」

 和泉さんの眼が鋭くなった。

 私が頭を下げると、和泉さんの眼が竜澤へと移った。竜澤も黙って頭を垂れた。

 何もかも私たちは中途半端だった。北大柔道部全体が中途半端だった。和泉さんや松浦さんたち四年目の七人、そして五年目のおかさんが抜けた穴はあまりに大きかった。

「あんたら、自分たち二人がどこに立っておるかわかっておるんか」

「はい。だいたいは……」

 竜澤が座卓を見たまま言うと和泉さんは溜息をついた。

 そして私に視線を移した。

「あんたは」

「ええ。だいたいはわかっています」

「だいたいって何じゃ」

 和泉さんが顔をしかめた。

「後藤とテツと杉田の三人はこのあいだ呼んでいろいろ言うておいた。引退してしばらくは幹部としての意識づくりの邪魔になってはいかん思うて少し距離を置いておったが、三人ともわかっておるようじゃ」

 私と竜澤は黙って肯いた。

「問題はあんたら二人じゃ。もっと自覚を持ちんさい」

 和泉さんはそれだけ言うと「まあええ。今日は好きなもんを食いんさい」と言った。私と竜澤は恐縮しながらみねちゃんを呼び、串や魚、丼飯を頼んだ。和泉さんは「みねさん。それを一人前ずつじゃのうて三人前ずつください。こいつら身体を大きうせにゃいかんですけ」と言った。みねちゃんがわかったよという顔で肯いて、厨房のほうに戻っていった。



 十一月に入ると寒さが本格化して北大武道館にようやくスチーム暖房が入った。外ではときどき砂粒のような雪が降り、その雪が風でアスファルトの上を転がった。風が冷たいのは冠雪したいね山の山頂から吹き下ろしてくるものだからだ。札幌市内は夜が明けるたびに寒くなっていた。

 柔道部員たちはうめき声をあげながら畳の上でごろごろと組み合っていた。ぜいぜいと喉を鳴らし、身体全体から汗の蒸気がもうもうとあがっていた。

「九本目、終わり!」

 ストップウォッチを持つ杉田さんが声をあげ、乱取り相手を交代する。かつて私が前々主将のかなざわさんとの乱取りを避けていたように、いまではこの交代時に私を避けて道場の隅へ隠れるように逃げる一年目が何人もいた。それは上級生から見るとよく判別できる動きで「ああ。金澤さんはこうして俺を見つけていたんだな」とよくわかった。

 私はそうやって逃げる後輩がいると静かに近づいていって「おい。一本やろう」と声をかけた。東北戦までに穴となる一年目を少しでも鍛えなければならない。竜澤も思いは同じようで、様々な一年目をつかまえては抑え込んでいた。

 私にはもうひとつ日課のようになっている乱取りがあった。主将の後藤さんが必ず私のもとにやってくるのである。

「これから引退の日まで増田と毎日やることに決めたんだ」

 などと言っていた。しかし私は後藤さんをけっこう楽に取るようになっていた。七帝戦前はなかなか取れず大変な乱取りになったのに、このごろは最後は必ず私が抑え込んだ。後藤さんはオーバーワークで疲れきっているのではないだろうか。



 東北戦前日の最後の調整練習も暗いまま終わった。

 緊張が高まっていた。

 私は一階でシャワーを浴び終え、部室で着替えてから道場へ出た。今日は合気道部もけんせいどう部も練習がないので、柔道部員たちはそれぞれ同期たちと固まって話していた。

 私は二年目の同期たち、竜澤ひろまさみやざわまもる、松井隆、おぎいさむの四人がいる壁際へ行って、明日の東北戦について議論を交わしていた。

 そこに鞄を提げた杉田さんが道場に入ってくるのが見えた。一年目が代わる代わる挨拶しているが、いつもの杉田さんのように朗らかに返したりしないので皆戸惑っている。

 硬い表情のまま黙ってこちらに歩いてくる。私たち二年目の前までくると、黙って鞄を畳の上に放り投げ、そこに座った。

「東北のやつら、そうとうなめてやがる」

 杉田さんの言葉に私は首を傾けた。

「なんかあったんですか」

「今回は札幌に観光に来ただけだとよ」

 杉田さんが銀縁眼鏡の奥で頰をひきつらせた。

「それ、どういう意味ですか?」

「東北の二年目に聞いたんだ。三年の幹部連中が一年や二年たちに言ったらしい、『俺たちは札幌観光に来ただけだから、おまえらだけで片付けろ』と」

 竜澤が眼を細めて杉田さんを見ている。彼が本気で怒ったときの表情だ。私の胸にも怒りが這い上がっていた。宮澤たち他の二年目もじっと杉田さんを見ていた。優しい松井君まで顔を赤くしている。

「どうしたんですか。何かあったんですか」

 五、六人の一年目が集まってきた。

 杉田さんがみんなにゆっくりと説明した。

 東北大の幹部──つまり三年生たちが下級生たちに「面倒だからおまえたちだけで片づけろ」と言っているのだという。「俺たちはみんな後ろの方に座るから回すなよ。札幌には観光に来ただけだから。面倒だからおまえらだけでやれ」と。

 北大と東北大学との定期戦は毎年十一月のはじめに行われる。もともとは七帝戦と同じく柔道部だけがやっていたものに他の部も追従しはじめ、やがて両大学対抗の総合スポーツ定期戦になった。北大側からは「東北戦」と呼ばれ、東北大側からは「北大戦」と呼ばれる。

 北大柔道部は七帝戦四年連続最下位と歩を同じくしてこの定期戦で四連敗していた。北大の戦力低下と入れ替わるように東北大の力が急上昇してきたのだ。

 その東北は、この二年、七帝戦の決勝で常勝京大と死闘を繰り広げ、会場使用の時間切れで同時優勝を分け合い、七帝戦二連覇を達成していた。今回の東北戦でそのメンバーから外れるのは主将だったなかむらふみひこさん、くもさん、さわさんの三人の四年生だけである。つまり優勝メンバーがほとんどそのまま残ったことになる。

 新主将のとう稔紀さんをはじめ、さいとうつくるさん、高橋たかはし隆司さん、たかゆきさんと、三年生に七帝屈指のちようきゆう四人を擁し、そのほかにも好選手をずらりと揃えていた。

 一方の北大は、前主将の和泉さんたち四年目七人がメンバーから抜け、五年目の岡田さんももちろん出られないので、十五名のうち八名を入れ替えてオーダーを組まなければならない。

 たしかに苦しい戦いだ。私たちができるのは、いかに小差で負けるか、その部分だけかもしれない。しかし「札幌に観光に来た」という発言はあまりにも馬鹿にされすぎだった。

 竜澤が黙って立ち上がり部室へ入っていった。杉田さんはその背中をじっと見ていた。

 竜澤が鞄を持って部室から出てきたので、いつものように二人で武道館を出た。二人ともパーカーの上にごつい防寒ジャンパーを着るようになっていた。

 真っ暗である。冷たい空気は硬く冴え冴えとし、闇のなかのにれの巨木からエゾフクロウらしき哀しい声が響いていた。

 二人は北極海をいく砕氷船のように、冷たい空気のなかを歩いていく。そして明日の試合のことを話し続けた。

「俺たちが抜かないと……」

 竜澤が言った。

「無理だよ」

 私が弱気なことを言うと、竜澤が責めるように私を見た。

「じゃあ、誰が抜くんだよ」

「わからない」

 私は言った。

「誰が抜くんだよ」

 竜澤がまた言った。

「東がいる」

 私は言った。一年目の東は二週間前、無差別の北海道学生柔道個人選手権で、得意の背負い投げで私大の重量級を次々と投げ、北大としては久しぶりのベスト8入りしていた。

「でもたちわざの切れる東にわざわざ立ってくるわけがない」

 竜澤が言った。

 そのとおりだ。

 私も竜澤もわかっていた。私たち二人だって抜き役なんていうのはおこがましい存在なのだ。

 二人は、七帝戦四年連続最下位のチームのなかで、四年目が引退したいま、分け役から抜き役にならなければと必死にもがいている程度の小者である。三年目が少なく非力すぎて、私たちに役割が回ってきただけだ。立技なら──相手が立ってきたら──という可能性くらいしかなかった。しかし立技勝負になったとしても、竜澤も私も東も東北大の超弩級の前には吹っ飛ばされるだろう。佐藤稔紀さんや斉藤創さんらは立技も強いのだ。本当に必要なのは寝技に引き込んで下から攻め、返して抑え込む、あるいは絞めや関節技で仕留める本格的な寝技だ。もし相手が自分より強かったら下の体勢でも脚を利かせて守れる確実な寝技なのだ。四年目の引退で、そういう本格的な寝技師が北大からは完全に消滅した。

 二人は、黙って歩き続けた。

 白い息が街灯に照らされてふわりふわりと上がっていく。

 札幌は本格的な雪が降る直前のこの季節が一番寒く感じる。

 実際の気温は一月や二月の方が低いが、白く美しい景色がそれを紛らわせてくれる。しかしいつになったらその白い雪は積もるのか。降っては解け、降っては解けを繰り返していた。

 北区と東区のあいだを南北に流れるそうせい川の橋を渡る途中、竜澤が突然立ち止まった。

「監督さんとこ行ってみない?」

 川の上なので強い風が吹き抜けている。

「いまから?」

「東北が上級生を後ろに並べることを監督さんに言っておいたほうがいい」と拳を握りしめた。そして「そろそろ塾が終わるんじゃないかな。アパートの前で待ってれば監督さん帰ってくるよ。俺や増田君、どこに置かれるかも聞いてこようよ」と言った。

 岩井監督は司法試験の勉強をしながら学習塾の講師をしていた。

「俺たちがどこにどう置かれたって勝てないよ」

 私が言うと、竜澤は苦しげに下を向いた。長髪が風で荒れているが構ってられないのか荒れるにまかせ、険しい表情をしていた。また歩きはじめた。大きな背中がいつもより小さく見えた。

 結局、そのまま竜澤の住むだちビルの前まで来た。

「このままでいいのかな……」

 別れ際、竜澤が言った。

 私は何か言おうとした。しかし言葉が出ず、そのまま自分のアパートへ向かった。そして暗い空を仰ぎ、北大柔道部を誰か助けてくださいと願った。

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