七帝柔道記Ⅱ 立てる我が部ぞ力あり

増田俊也/小説 野性時代

第1話

私たちは一時間でも多く練習した方が、必ず相手を倒すことができるということを信じていた。それが真実であろうとなかろうと、それを信じなければならなかったのである。 

――「青春を賭ける一つの情熱」井上やすし



第1章 「札幌には観光に来ただけだ」




 静まりかえった部室に、主将のとうさんの細い声が響いている。それを聞く部員たちの毛髪と顎の先から大量の汗がぽたぽたと落ちていた。その汗はさきほどまで延々と繰り返された寝技乱取りの熱を含んでおり、濃度の高い塩水の味がした。

 この時期、さつぽろの日没は午後五時前なので窓外は真っ暗だ。こんなに寒いのにどうしてスチームが入らないのだろう。主務のすぎさんが何度も北海道大学当局に訴えているが、大学側は「武道館の暖房は十一月一日から」の一点張りだという。網膜剝離で選手生活が続けられなくなった杉田さんは専業主務として様々な環境整備にあたってくれていた。

 後藤主将の今日の総括はぼそぼそと続いている。

「みんな元気がなさすぎるんじゃないか。それぞれが自覚をもって練習すれば手応えが出てくるはずだと思う」

 小さな声が、よけいに部員たちをわびしい気持ちにしていた。

「練習試合はもちろんだけど、乱取りの一本一本で決して力を抜かないこと。意見ある者、言ってください」

 ななてい戦後の夏から主将についた三年目の後藤さんも副主将のさいとうテツさんも、これまでの幹部のように下級生たちを叱咤するどころか、彼らが道場を暗くしているんじゃないかとときどき私は思った。どうしてもっと厳しく言ってくれないのか。

 後藤さんのどうは細くて小柄な身体に合わず、だぶついている。その横に座る副主将の斉藤テツさんはさらに身体が小さいので、道衣を着ているというより道衣に着られているようだ。二人とも散髪に行く頻度が少ないため、中途半端に伸びた髪があちこちに跳ね、余計ぐっしょりと濡れた感じに見える。二人は練習でいつも相手の下になって攻撃され、抑え込まれているので、畳にこすれて道衣が真っ黒に汚れていた。ほうはつから滴り落ちる汗と雑巾のように汗を吸った汚い柔道衣。まるで土砂降りの雨のなかにうずくまる濡れネズミのように見えた。

「意見ある者、いませんか」

 後藤さんがまた言った。

 しかし、やはり誰も手を上げず、指に巻かれたテーピングテープを剝がしている。寝技乱取りで関節を傷め、指を二本三本と束にして分厚く巻いてあった。テーピングしないと練習ができないのだ。とりわけカメをやる分け役は指が固まったりあらぬ方向に曲がったりしていた。後藤さんの指などはとくにそうだ。

 指以外にも手首を傷めている者は手首に、肘を傷めている者は肘に、肩を傷めている者は肩にテーピングしてある。毎日テーピングするため、その部分の皮膚がただれていた。耳を内出血で腫らした一年目のなかには頭にラグビー用のヘッドギアをかぶり、ガーゼなどを折り重ねて耳に当て、その上から頭をぐるぐるとテーピングしている者もいる。私は左膝にテーピングし、その上から自転車のチューブを二本巻き、さらに上から弾力包帯を巻いていた。乱取り中ほとんど左膝を曲げることができないので動きを制限されるが、他に乱取りを続ける方法がなかった。七月の七帝戦直前に膝の靱帯を切って入院した。九月に退院してリハビリを繰り返し、やっと練習に復帰したが、乱取り中にまた膝をひねってしまった。柔道どころか歩くだけで強い痛みがあった。しかし練習を休むわけにはいかない。

 対東北大学定期戦、通称「とんぺい戦」が近づいていた。伝統のこの定期戦は七帝戦と同じく十五人の抜き勝負、戦前の高専柔道ルールを踏襲する七帝ルールで戦われる。出場資格は三年目以下だけにあり、来年の七帝戦を占う新人戦の位置づけだ。七月の七帝戦で京都大学と二年連続で優勝を分け合った東北大学は三年目に重量級の強者が多く、優勝はその三年目の力がかなり大きかった。だから四年生以上が抜けても強力このうえないチームである。七帝戦四年連続最下位というどん底にある北大には、どう足搔いても勝ち目はなかった。それでも部の方針は「勝利」であった。これは戦前の高専柔道も戦後の七帝柔道も同じで、戦う前から試合をなげうつことは絶対にできなかった。

 寝技に特化したこの七帝柔道は、北大のほか東北大・東大・名大・京大・阪大・九大の七大学だけに受け継がれた異形の柔道で、寝技技術だけが異常なまでに発達し、試合が始まるや両者とも延々と寝技を戦う。ルールだけではなく特筆すべきはこの柔道をやる七大学の学生の精神性である。決して「参った」しないのだ。だから試合で絞め技を仕掛けられればそれは失神すること──柔道では「落ちる」と言う──を意味し、関節技を仕掛けられればそれは骨折を意味した。

「意見ある者、いないか」

 後藤さんがまた細い声をあげた。その横で斉藤テツさんは潤んだ眼でうつむいている。ただひとりジャージ姿でいる杉田さんが銀縁眼鏡を差し上げて「本当に誰もなにもないのか」と部員たちを見た。しかし誰も挙手しないので沈黙がさらに重さを増す。前主将の和泉いずみさんたちから幹部を引き継いだ三年目はこの三人しかいない。その三人で私たち二年目六人と、一年目十一人、計十七人を率いていかねばならない。

「ミーティング終わり、解散」

 後藤さんの言葉で延々と四時間続いた今日の延長練習がようやく終わった。東北戦へ向けての延長練習は九月終わりから二週間続き、一週間の通常練習をはさんでまた二週間続く。そのあいだはいわ監督が毎日来て何度も繰り返し練習試合が組まれる。どんな相手と当たってもいいように、あらゆる組み合わせで何度も何度も繰り返し部員を戦わせる。それプラス普段の寝技乱取りなのでとにかく長いのだ。

 部員たちは嘆息しながら立ち上がり、柔道衣の上を脱いで着替え始めた。シャワーを浴びるために部室を出ていく者もたくさんいる。一日一日を消化していくのが精一杯だ。しかし少なくとも今日のプレッシャーからは解放された。練習後のこのほんの数時間だけが一日のうちの安寧だ。アパートに戻って寝具をかぶると「明日もまた練習がある」という現実に暗い気分になってしまう。朝起きればなおさらだ。うんざりするようなこの生活は四年目の最後の七帝戦が終わる引退の日まで続く。

 私が自分のロッカーの前で帯を解いていると「胸は大丈夫か」と声をかけられた。横に杉田さんが立っていた。

「ええ。なんとかやれます。少しずつですが」

「無理するなよ。この東北戦で引退するわけじゃないんだから。来年の七帝戦もあるし、再来年の七帝戦もある」

「大丈夫です」

 私が頭を下げると杉田さんは笑いながら首を振った。

「おまえはいい加減だけど柔道だけは真面目だから心配なんだ。俺みたいになったらだめだぞ。しっかり治せよ」

 杉田さんは長いあいだ腰を傷めており手術をすすめられていた。そうこうするうちに網膜剝離をやってしまったのだ。私は八月の夏合宿のときまだ膝で入院中でギプスを巻かれていた。それなのに病院に「父が危篤なので実家に帰る」と噓を言って一週間の外泊届を出し、合宿中ずっと道場脇でベンチプレスを続けていた。毎日百セット以上やっているうちに大胸筋にひどい肉離れを起こし、いまだに治っていない。それを一緒に見学していた杉田さんは知っていた。

 しばらく杉田さんと立ち話したあと道衣の上を脱ぎ捨て、鉄製ロッカーを開けてバスタオルを肩に掛けた。そして固形石鹼の入ったプラスチックケースをつかんで部室を出た。

 柔道場には笑顔と嬌声が溢れていた。

 合気道部員たちだ。五十人はいる。女子部員もかなり多い。週に三回の練習で乱取りもないから退部者はほとんどいないのだろう。先ほどまで柔道部員の苦行の場だった道場が別世界のように輝いて見えた。柔道部員の汗の蒸気で滝壺のように霞んでいたのに、立つ者が替わるだけでこんなに鮮やかになるのだ。入部以来、柔道部員が練習しているとき、こんなふうに道場が見えたことがなかった。

 溜息をつきながら私は道場の出口へ向かった。

ます君──」

 後ろから声がかかった。

 振り向くと、たつざわが部室から出てくるところだった。上半身は裸だがすでにジーンズをはいている。手にはTシャツとトレーナーを握っていた。

「〈みねちゃん〉行こうよ」

 Tシャツとトレーナーをまとめて頭からかぶった。そして発達した上半身を窮屈そうに中へ潜り込ませていく。しばらくするとトレーナーの首から竜澤の顔が出てきた。他大学から様々な外国俳優に喩えられるほど日本人離れした美丈夫である。しかし性格はわがままなことこの上ない。私たち同期は小学生がそのまま大学生になったような彼に抗いがたい魅力も感じるようになっていた。

「今日は〈とん子〉へ行くっていう約束だったよ」

 私がそう返したときには竜澤はすでに私を見ていなかった。打ち込みフォームチェック用の大鏡の前で肩をいからせたり腹を引っ込めたりして、かっこよく見える角度を研究している。それを一年目の何人かが遠目に見ていた。

 とん子とは武道館から歩いて五分ほどのところにある豚カツ屋だ。二人でよく行く店のひとつである。夫婦二人でやっており、大将も女将おかみもいかにも豚カツ屋という顔をしている。たまたま本屋で二人を見かけたことがあるが、割烹着を脱いで本屋にいても豚カツ屋の店主にしか見えなかった。それくらい豚カツ屋らしい豚カツ屋である。

 竜澤は「今日はみねちゃんだよ、みねちゃん」と大鏡を見ながら言った。そして腰のベルトを弛めながら「豚カツ食うとよけいに喉が渇きそうだからさ。たまには生ビール飲みたい。みねちゃんだよ、絶対に」と腹のあたりを触り「最近、しけたもんしか食ってねえから、腹もぺしゃんこだ」と女性がするように腹を細く引っ込めて鏡に映した。

「金あるの? 俺はないよ。仕送り前だから」

 私が言うと、竜澤はジーンズのポケットから二つ折り財布を出した。中をのぞいて札を二枚引っ張りだし「二千円しかない」と言った。そして小銭をジャラジャラと手のひらに受けてもう一方の手で数えた。

「小銭は四百二十六円なり」

「俺は全部で千五百円といったところかな」

「しけてるな。合わせて四千円か」

 竜澤は財布をポケットに戻しながら合気道の練習を見遣った。彼がお気に入りの農学部三年のあんちゃんが今日は来ていた。手刀を前に出して移動稽古をしながらこちらにちらちら視線をくれる。頰が赤くなっていた。いつも私たちが見ているのが気になるのだろう。しかし竜澤は興味なさそうにまた財布を出し、中身を再び確認している。

 私はしばらく考えた。

「四千円だと生ビールを二杯ずつ、ホッケ一枚、つくねを四人前といったところだよ。よけいに腹が減った状態でみねちゃんを後にすることになる」

「ツケでいいじゃん」

「最近あちこちの店にツケが溜まってるからなあ」

 竜澤がへへへと笑った。

「だったら牛革の財布があるじゃん」

「牛革?」

「牛だよ、牛」

「お、まつ君ね」

「シャワー室で誘ってきてよ」

「よし。わかった」

「早くシャワー浴びてきて。腹減ってしかたねえんだよ、俺」

 そう言ってまた大鏡にジーンズの後ろ姿や横姿を映している。

「俺のケツ、でかいかな」

 面倒なのでシャワーへ行こうとすると「増田君。逃げないで答えてよ」と強く言った。仕方なく立ち止まって「でかくないよ」と言った。

「なんで噓言うんだよ」

「でかくないって」

「絶対?」

 竜澤は鏡の中の自分に問いかけるように聞いた。

「うん。絶対でかくない」

「この角度から見るとでかいような気がするけど」

「でかくないよ」

「そうかな」

 長髪を片手でかきあげ、また後ろ向きに鏡に映した。そして「早く浴びてきてよ。増田君、遅いから嫌いだよ」と勝手なことを言った。竜澤はシャワー付きのワンルームマンション住まいなので武道館でシャワーを浴びる必要がない。シャワー付きのマンション住まいは柔道部に二人しかおらず、もう一人は一年目のつとむで、『メンズノンノ』を愛読し、毎朝ズボンやシャツにアイロンをかけているらしい。

 柔道場いっぱいに広がっていた合気道部員たちが真ん中に集まって上級生らしき男子学生の訓示のようなものを受けはじめた。それを機に私は竜澤をおいてシャワー室へと向かった。

 道場脇のバーベル置場で柔道部の一年目数人が交替でベンチプレスをやっている。その横では一年目最強のあずまえいろうが上半身裸になって黙々と腕立て伏せ──柔道界ですりあげとか突き出しとか呼ばれる特殊な腕立て伏せを繰り返していた。先ほどまで部員全員で三百回の腕立てをしたばかりなのにこの努力だ。体の下にはすでに汗の水溜まりができている。その横で私は体重計に乗った。練習前より六キロほど落ちていた。喉が渇くはずである。道場に一礼し、階段を下りていく。

 腰にバスタオルを巻いて戻ってくる裸の柔道部員たち何人かとすれ違う。みな練習の緊張から解放され表情が穏やかになっている。一階へ降り、トイレと少林寺拳法道場の間を抜けて奥へ入っていく。蛇口がずらりと並ぶ洗面部屋に入り、ウォータークーラーで冷たい水を何度も息継ぎしながら飲んだ。コンクリートの壁ごしに聞こえる音はシャワー用の小型ボイラーのものだ。十一月に入れば巨大ボイラーが稼働する。大量の湯を沸かし、その蒸気を武道館内に張り巡らせた鉄製の管のなかに循環させるスチーム暖房である。北海道やソ連など極寒地域で昔から使われている放射暖房の一種だ。

 一リットルほども水を飲んでようよう落ち着いた私はシャワー室へ入っていく。湿気ったコンクリート向き出しの空間に柔道部員たちの声がカーテン越しに響いていた。

「おい、シャンプー貸してくれ」

「下から滑らすぞ。ほら」

 シャワーブースは六つ。上部五〇センチと下部一五センチほどが開いたパーティションで仕切られ、壁に固定式の金属製シャワー栓、前面にビニールカーテンがある。カーテンレールに掛けられたバスタオルの色柄を手前から探していき松井たかしのブースを見つけた。その横の空きブースに入った。

「松井君。俺だよ」

 パーティション越しに声をかけた。

「あ、エキさん」

 松井君がのんびりと言った。《エキ》というのは私の柔道部でのニックネームで一部の人だけがときどき使い、四年目のまつうらさんは《エキノスケ》とフルニックネームで呼んだ。

「今日も練習きつかったね」

 私がシャワー栓を捻りながら言うと「もうやってられないよ。早く東北戦、終わってほしいよ」と《もう》の部分を伸ばしながら言った。

 私は固形石鹼を頭に塗りたくり、そのまま髪を洗い、顔、肩、腕と洗っていく。部員のなかには髪にはシャンプーとリンス、身体には液体ボディソープと洒落たものを使っている者もいるが、私は固形石鹼ひとつで充分だと思っていた。そもそも柔道衣の裏はザラザラなので練習しながら垢擦りをしているようなものだ。入部してから垢なんか溜まったことがない。

「それにしても松井君。どうしてリンスなんてするんだよ」

 私がシャワーで泡を流しながら言うと「どういうこと?」とのんびり聞き返した。

「だってその髪、何センチよ。スポーツ刈りでしょ。一番長いところでも二センチか三センチくらいじゃん。短いとこは二ミリとかでしょ」

「髪がしっとりとなるんよ」

「しっとりなんてしなくていいじゃん。短毛種の牛のくせに」

「エキさんがそんなことばっかり言うから一年目まで『もう』とか言って牛の啼き真似してくるんだよ」

「はっはははは」

 私が声をあげて笑うと、松井君がまた「もう」と長く伸びる声で言った。

「それよりさ、竜澤とこれからみねちゃん行くんだけど、松井君も行かない?」

「なんか怪しいな。あんたら俺に奢ってもらおうと思ってるんでしょ」

 一年半を一緒に生活するうちに同期には行動を読まれるようになった。だから上手をいかなければならない。

「そんなわけないじゃん」と私は優しく言った。「いつも松井君に奢ってもらってるから御馳走しようって竜澤と話してたんだよ。美味しいものを食べてほしいんだよ」

「そうか。疑ってごめん。ありがとう」

 すぐに人を信じる松井君は「でも、いま勉強が滅茶苦茶忙しいんだよ。また今度でいいかな」と申しわけなさそうに言った。

「教養部でしっかり勉強しなかったからだよ」

「あんたに言われたくないよ」

 松井君が笑いながら言った。私は同期でひとりだけ教養部で留年していた。北大は一年半を教養部で過ごして英語や数学などの授業を受け、二年生の九月から専門課程へと進学するシステムである。これを北大の専門用語で「移行」という。そのさい希望の学部学科を募るのだが定員を超えると教養部の成績順で下位の者を撥ね付ける。だから人気学部人気学科を狙う人間には教養部での成績は重要だ。

 松井君は行きたくもない薬学部へ移行していた。そこしか受け容れ先がなかったのである。北大薬学部は化学系クラスの理2からはトップ集団しか移行できないのに生物系の理3からはドン尻集団が移行するねじれた学部だ。松井君の第一希望は獣医学部で、第二希望は理学部生物学科動物学専攻、第三希望が農学部農業生物学科だった。しかしすべてに弾かれて第十三希望として出した定員割れの薬学部へ移行したのだ。

「松井君は化学が苦手だから勉強が大変なんだね。俺たちが酒に誘ってまた松井君が留年したら柔道部が笑われちゃうから今日はやめとくね」

 そう言って腰にバスタオルを巻きながらブースを出た。

「もう。だからあんたに言われたくないって」

 松井君の裏返った声がシャワーの音と一緒に聞こえたがそのままウォータークーラーへ行く。そこでまた一リットルほど水を飲んで少林寺拳法部の楽しそうな練習を見ながら階段を上がっていく。柔道場に戻ると、竜澤がまだ鏡の前でジーンズのシルエットをチェックしていた。

「お、やっと来た」

 竜澤が言った。

 私は部室に入り、着替えて道場に出た。

「松井君どうだった?」

 竜澤がこちらも見ず、鏡のなかの自分に向かって言った。

「勉強が忙しいからだめだってさ」

「牛に学問なんて必要ないのに何言ってんだよ。しかたないな。今日は先輩巡りして何軒かまわってみよう」

 鏡を見ながら自分の尻をジーンズの上から何度か叩き、「よし、行こう」と言った。

 二人で道場から出るとき「失礼します」と腕立て伏せをしている東が言った。ベンチプレスをしている他の一年目がいっせいにこちらを見て「失礼します」と言った。

 竜澤と一緒に彼らに片手を上げ、並んで階段を下りた。高校のときは帰る人が「失礼します」と言うものだと思っていたが、北大柔道部に入って日本語としてはこれが正しいのだと知った。

 一階へ降り、鉄製の下駄箱からサンダルを引っ張り出し、玄関のたたきに放り投げた。そこには靴がたくさん脱ぎ捨てられているが、いくつかあるサンダルはすべて柔道部員のものだろう。この季節にサンダルで学校へ来ているのは柔道部員くらいのものだ。

「ごめん。ちょっとだけ水飲んでくる」

 竜澤が言って奥へ消えた。ウォータークーラーのようだ。〝ちょっとだけ〟と言ったのは、このあと生ビールにありつけるかもしれないからだ。

 竜澤が戻ってきた。二人でサンダルをつっかけて武道館の鉄製の重い扉を肩で押す。ひゅうと風の音が鳴った。温度差からくる気圧差なのか、この扉はやたらと重く、開けるときにいつも風が鳴る。

 かなり冷え込んでいたのでジャンパーの襟を立てた。今日は昼から曇天だったので星は見えず、空も地も黒一色である。

「あれ……?」

 竜澤が立ち止まり、その黒い夜空を仰いだ。

「雪だ……」

「ほんと?」

 私も立ち止まった。たしかにまばらに白いものが舞っている。

「あああ。また冬かよ……」

 竜澤が舌打ちした。

 いくらなんでも早すぎないかと私は思い「今日何日だっけ」と聞いた。

「二十一日」

 竜澤が怒ったように言った。もちろん私に怒っているわけではなく、札幌の長い冬に怒っているのだ。

「去年の初雪も十月だったもんな……」

 私は空から落ちてくる雪を両手で包みこむようにつかまえた。手を開くと、すでにそれは手のひらのなかで解けていた。

「行こう」

 竜澤がぶっきら棒に言って歩きはじめた。

 私はジャンパーのジッパーを襟まで上げてついていく。明日からは厚手のコートを着なければならないなと思った。車止めの鉄柱のあいだをすり抜けて道路へ出ると向かいの馬術場から馬糞の甘い臭いが漂ってきた。噓か本当か、何年か前の先輩たちが馬術部女子に合コンを申し込んだところ「柔道部は臭いから嫌だ」と断られたという。「馬術部だって臭いじゃないか」と先輩たちは言い返したらしい。

 喫茶店イレブンやとん子の前を通り、北大通りの十八条の交差点に出るころには雪が少し大粒になっていた。走っている車にはスパイクタイヤを履く気の早いものもあって鉄製スパイクがアスファルトを叩く音がカツカツと鳴っている。

 二車線の北大通りを冷たい風が吹き抜けるので、横断歩道を歩いているあいだ二人は小刻みに体を震わせた。

「近いからみねちゃんから覗こう」

 私が言うと竜澤は首を横に振った。

「先輩がどの店にいる確率も同じだとすると、いったん南へ下って順に北上したほうがいいよ」

 確率計算で何か意味があって言ってるようだ。この九月、竜澤は理1から工学部土木工学科へ進んでいた。物理や数学が得意である。

「だったら〈みちくさ〉か」

「あそこは可能性高い。五年目や院生の先輩も使ってるから」

 肩を並べ、背中を丸めながら南へと下っていく。北大キャンパスの東側に沿って走るこの道を地元の人は北大通りと呼ぶ。

 ときどき少しだけ強めの風が吹いた。まばらに雪の舞う北大通りを見て歩きながら夏の七帝戦最下位から今日までの様々なことが想い出され、切ない気分になった。北大柔道部はこれからどうなっていくのだろう。

 北十四条くらいまで下り、トタン葺きのみちくさの前に立った。屋根だけではなく外壁もすべて錆びたトタンで、建物全体が大きく傾いている。真冬になると入口以外はほとんど雪で埋まってしまう。

「増田君、ちょっと覗いてみて」

 冷たくなった両手のひらを息で温めながら竜澤が言った。

「みちくさから行こうって言ったのは自分なんだから自分で見ろよ」

「頼む。お願い」

 言いながら顔の前で手を合わせた。いつものことなのでしかたない。れんをわけて引戸を引いた。首だけを入れるとカウンターの中でママが細面の顔を上げた。

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