16(終)芽衣ちゃんって呼んでいい?
じゃあさ、と僕は提案した。
「登坂さんのこと、芽衣ちゃんって呼んでいい?」
登坂さんは目をぱちぱちして、
「いいけど、なんで?」と不思議そうな顔をした。
「ずっと登坂さん、じゃよそよそしいかなって」
「……ふふふ、マドノくんは面白いこと言うね。じゃあ飛鳥くんって呼んでいい?」
「うん。決まりだ」
こうしてあらたな条約が施行された。芽衣ちゃん飛鳥くん条約は、僕たちが高校を卒業するまで続くことになった。
さて、ある日の将棋部。やっぱり僕は一方的にボコボコにされていた。芽衣ちゃんは強い。
外は次第に秋へと向かっている。初めてのこの街の秋は、もう秋の虫すら鳴いていない。
「これからどんどん寒くなるよ〜水道管凍って水出なくなるよ〜」
と、芽衣ちゃんは脅しをかけてきた。
「そんなに寒くなるの、ここ」
「うん。冬は氷点下が当たり前だから。寒いよ〜」
僕は大事なことに気づいた。
「……この部室、ストーブないね」
「……言われてみれば確かに。谷村先生にお願いして出してもらおう」
というわけで職員室に向かう。谷村先生いますか、と声をかけると、非常勤なのできょうは来ていないらしい。
「まいったなあ」
僕は職員室を見渡す。特に頼りになりそうな先生の姿はない。
困っていると保健室の先生が現れた。かくかくしかじか、と説明すると、それなら倉庫にストーブがあるから持っていっていいんじゃない? と言われた。それを他の先生にも確認して、ストーブのある倉庫に向かった。
倉庫には古びた石油ストーブが何台か置かれていた。適当なのを運ぶ。重たい。
「直火タイプのストーブってあったかくていいんだよ」と芽衣ちゃんはニコニコしている。ファンヒーターとだと温まりかたが違うらしい。
ストーブは重たいのに灯油が入っていなかった。灯油は職員室まで汲みにいかねばならないようだが、きょうはまだそこまでは寒くない。
とりあえず確認ができただけでも大勝利だ。
将棋もそこそこに帰ることにした。芽衣ちゃんと、当たり前みたいに手を繋ぐ。ずいぶん慣れてしまったけれど、独占したいという気持ちは変わらない。
ただ一つ言えるのは芽衣ちゃんが好きだということ。この関係が高校卒業で崩れると思いたくないこと。ずっとずっと、一緒にいたいということ……。
好きなんだ。どうしようもないほど。
ただ芽衣ちゃんがどう思っているかはわからない。僕は結婚する相手ではないし、高校時代を充実させるための関係でしかないのだろう。
いずれバラバラになる。そして自然消滅する。それでも芽衣ちゃんが好きだ、どうしようもなく。
高校時代の幸せな思い出が一つできただけでも、感謝しなくてはならない。もとよりこの民度の低い高校で、まともに話のできる関係の人間がいたことが驚きなのだから。
◇◇◇◇
そう思っているうちに月日はめぐり、僕は芽衣ちゃんに6枚落ちで勝てるようになった。奇しくもそれは、文化部の3年生が部活を引退する文化祭の直前だった。
「もう成香がここまで来てるでしょ。前みたいに作りっぱなしじゃないもん。素晴らしい進歩」
そうなのだろうか。
「この先もう教えてあげられないのが残念だなあ……入試終わったらまたフードコートで指す? わたし入試夏休みなんだけど」
「いや……僕普通に受験だから、夏休み返上で塾通いだ」
「そっかあー……」
芽衣ちゃんは天井を見上げた。
「楽しかったよ」
芽衣ちゃんは顔を綻ばせた。
「僕も。このまま自然消滅するのはいやだって思うくらい」
「あ、そっち? ……うん、自然消滅はいやだな。志望校ってどこだっけ」
芽衣ちゃんはスマホでグーグルマップを開いた。芽衣ちゃんが通う予定の大学の場所を表示する。
地図を見てびっくりした。僕の志望校のごくごく近所だ。いわゆる学生街というやつらしい。芽衣ちゃんの入る大学の女子寮からも程近い。
「……ぜんぜん近所じゃん」
芽衣ちゃんはポカーンとした顔をしていた。
「ほんとだ……」
僕も完全なるポカーンである。
しばらく二人でポカーンとしてから、突如芽衣ちゃんが抱きついてきた。こういう感情の示され方をしたことがなかったので、いきなり心臓が高鳴る。
「よかった。お別れしないで済んだ」
「うん。そうだね……僕も嬉しい。芽衣ちゃんのことが好きだから」
「問題はわたしと飛鳥くんが大学入試に成功するか、だ。一緒に勉強しようよ。将棋じゃなくて」
「うん。何がなんでも大学に合格しないと」
「それはわたしもそうだなあ。頑張らないと」
トンネルの向こうに、明かりが見えたような、そんな気分だった。
この物語は、まだ終わっていない。僕たち二人が大学に進学して、そのあとどういう関係になったかはわからない。不確定だ。
未来というものは常に不確定である。将棋の棋譜がどういうものになるかは、指してみないとわからない。それと同じである。
でも、僕も芽衣ちゃんも幸せになりたいと願ったし、それでいいのだと思う。
幸せになることを諦めないことは、将棋で勝つことを諦めないのと同じだ。
だからきっと、僕らはとても幸せな人生を歩むことになるのだと思う。(おわり)
いつか登坂さんを芽衣ちゃんって呼びたい 金澤流都 @kanezya
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