第4話ありのままじゃなくたって
待ちわびたチャイムが鳴り響き、教室の張り詰めた空気が弛緩する。四時間目の化学が終われば、ついに昼休みだ。僕は伊勢崎さんの元へと向かう。
「伊勢崎さん、行こう」
「ああ、エスコートありがとう。ボクの唯一無二の親友よ」
……その話し方はどうにかならないのか。ほら、二時間目に帰ってきた水口さんが凄まじい目でこちらを見ている。飼い主のリードを引っ張って威嚇する猛犬みたいだ。怖い。
美術室は一階だ。僕らの教室は四階なので、一番遠い。
「伊勢崎さんお昼は大丈夫? 学食で食べるつもりだったなら席埋まっちゃうよね」
「大丈夫です、お弁当作ってきました」
二人っきりになって、伊勢崎さんの口調が素の方になる。話し声自体が小さいので、周りには聞こえていないだろう。
「渡辺君こそ、私のために貴重な昼休みの時間を使ってしまってよかったんですか?」
「僕はどうせ菓子パンをつまむだけだからね。二十分もあれば十分だよ」
話しながら廊下を歩いていて改めて感じたが、伊勢崎さんと一緒に歩いていると、とても人目が集まる。伊勢崎さんを知らない上級生でも、つい見てしまうような顔立ちと立ち振る舞いなのだろう。正直、学校の廊下という日常の光景が、伊勢崎さんの周りだけ何か別の場所みたいだった。
「失礼しまーす……あれ、清香まだか」
美術室は鍵は開いていたが、誰もいなかった。美術の先生の姿すらない。
「伊勢崎さん、ちょっとまってよ……伊勢崎さん?」
彼女は、夢遊病者のような足取りで、一枚の絵に近づいていった。イーゼルの上に飾り付けるように置かれた、暗い色をした大きな絵だった。そして、その絵には僕も見覚えがあった。
「これ、すごいです……」
素の口調で、彼女は呆然と呟いた。
何を描いたものなのか、すぐには分からない絵だった。
まず目に付くのは、キャンバス一面に塗りたくられた暗い青色だ。白いキャンパスに秩序なく広げられたそれは、空の青というよりも海の、それも深海の青に見えた。所々に黒っぽいカーキ色が点在している。
その中心には、青とは対照的な赤色の何か。内臓みたいな形をしたそれには奇妙な質感があって、はっきり言えば気持ち悪かった。
題名は、『私と世界』。察するに、周りの青が世界で、中心の赤が私なのだろうか。
これは僕の幼馴染、清香の描いた絵だ。相変わらず、妬ましいのほどに見る人の感情を揺さぶってくる絵だ。これを見つめていると、僕の胸の奥底に仕舞ったはずの嫉妬の炎が再燃してくる気がする。
僕は落ち着くために一呼吸おいてから、伊勢崎さんに説明をした。
「清香が高校に来て最初に描いた絵だね。美術の先生が絶賛してたよ。気に入りすぎてここに飾ってるくらい」
「星さんが描いたんですか⁉」
伊勢崎さんが驚いた顔でこちらを振り向いた。
「……ああ、高校ではまたあんまり知られてないのか。清香は絵で何度か賞をもらってるくらいだからね」
僕が彼女を特別な人間だと思う決定的な部分は、この芸術の才だ。十代の少女が描いたのだと言って絵を見せれば、プロの絵描きが筆をへし折りかねないほどの、溢れる才能。
──もっとも清香自身は、絵は気まぐれで描くものだと言い、あまり頻繫に絵を描かない。
しげしげと絵を眺める伊勢崎さんを眺めていると、突然美術室の扉が勢いよく開かれる音がした。
「ごめん、遅れた!」
清々しい挨拶と共に、清香がこちらに寄ってくる。
「あ、その絵……恥ずかしいから、あんまり見ないでほしいんだけど……」
思ってもいないことを口走って、清香は頬を赤らめた。
嘘つけ。自分の絵がどれだけ凄いものか十分理解している癖に。
「凄いよ星さん! これほどのもの、どうして恥じることがあるというのか!」
「えへへ……」
頬を掻く清香。
「さて、三人だけにはなれたけど、伊勢崎さん、要件は?」
「うん、少し待ってね……スー……ハー……」
深い深い深呼吸をする伊勢崎さん。
「ンンン……ンンッ! ハジメマシテ」
「え?」
「イセサキレイトモウシマス。ソノ、ワタシトトモダチニナッテクレマセンカ?」
「んん?」
蚊の鳴くような、とも言えない、そよ風が吹いたような小さな声だった。
微妙な空気が流れる。コミュニケーション能力の高い清香ですら、何を言っていいのか分からないらしく、微妙な笑顔を浮かべている。
そんな空気を払拭するように、伊勢崎さんは短い髪を掻き上げた。気取ったようなその仕草は、彼女みたいに容姿の整った人がやるとびっくりするくらい似合っていた。
「……何かあったかな?」
まるで僕たちが黙っていることの方がおかしいみたいに、彼女は堂々と言い放った。
「伊勢崎さん、こっちに」
僕は伊勢崎さんの腕をガシリと掴み、美術室の端っこに連れて行く。思ったよりも柔らかい二の腕の感覚に、少しドキリとする。
「情熱的だね、親友。そんな君も魅力的だよ」
「伊勢崎さん」
少し感情を籠めて言うと、途端に彼女はシュンとなった。
「ハイ、すいません」
自信なさげに視線を下に向ける伊勢崎さんは、本当に先ほどまでの彼女と同一人物には見えなかった。
「いや、謝ることないけど」
「──やっぱり、怖くって」
おずおずと、伊勢崎さんは切り出した。その様子は、先ほどまでの堂々とした彼女とは別人のようだ。
「体が震えるんです。喉が、引き締まるんです。人と普通に話そうとすると」
そう言う彼女の体は、ひどく震えていた。
「怖いんです。何を言われるんだろうって、そればっかり考えてしまって、上手く話せないんです。情けないですね……」
「……僕と話しているように話せないの?」
「渡辺さんには、もうバレてしまいましたから。……他の人には、本当の私は知られていないので……」
「……そっか」
眉を下げてうつむく彼女は、なんだかこの世の終わりみたいな顔をしていた。
そんな顔を見ていると、不思議と言葉が出てきていた。
「じゃあ、無理にありのままで話す必要はないんじゃないかな?」
「え?」
「カッコよくて、堂々としていて、気障な伊勢崎さんのままで、友達になってほしいってお願いしてみたら?」
そうだ。別に無理する必要なんてない。たとえあのかっこいい姿が演じているものだったとしても、あそこまで完璧だったならそれはもう伊勢崎さんの一部だ。
けれど伊勢崎さんの表情は曇ったままだった。
「それで、いいんでしょうか?」
「なんで?」
「だって、不誠実じゃ……」
「そんなことないよ。きっと、誰だって多かれ少なかれ、演じながら他人と接しているものだよ。……伊勢崎を信じて教えるけど、あの清香だって、実際はもっと暗くて冷たい面を持っている」
「星さんが……」
驚いた様子の彼女に、僕は頷いてみせる。
「まあでも、友達を見捨てるほど人でなしじゃないから安心して」
「みんな、私みたいに」
何か考え込んでいた伊勢崎さんは、やがてゆっくりと、清香の待っている方へと向かっていった。その足は、先ほどとは違って震えていなかった。
なんだ、やっぱりかっこいいじゃないか。
「星さん」
凛としたその声は、堂々たるたたずまいの伊勢崎さんに良く似合っていた。
「ボクと、友達になってくれないかな?」
まるでダンスにでも誘うように、伊勢崎さんはゆるりと右手を突き出して言った。
「うん、いいよ」
清香がほほ笑んで首肯する。
伊勢崎さんも見惚れるような笑みを返すと、突き出した右手を恭しく左肩にあて、礼をした。
見目麗しい少女が二人、微笑みを交わしている。その光景に、僕はようやく安堵のため息を吐くことができた。
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