サナギ第4話
マテラと俺は密かに森を抜け出す算段をしていた。
すっかり森の木々は葉を散らし冬にしては暖かい陽光が差し込む日のことだ。俺たちは森の奥の巨大な切り株の上で紙を広げて計画を練っていた。
「冬至に森を抜け出すのが一番いい」
マテラは紙の上に森の地図を描いた。森の南側にバツ印をつけていた。
「ここが森から一番近い人間の集落らしいね」
「本当にここに人が住んでいるの?」
「住んでいるだろうね。だって本に書いてあったんだ。そこには人の住む街があるってね」
マテラは疑うことなく本の内容を信じていた。本に書かれてあることが全て真実であることを疑わない。
「外の世界はどんなところだろう?」
「本にはいろいろなことが書いてあった。美しい色の建物があるとか。食べ物も豊からしい。それに何より、外の人間はとても優しいそうだよ」
マテラは一冊の本を手に持って言った。それは小説だった。文字の読めなかった俺には何が書いてあるかはわからなかった。しかしマテラの話からそこには男女の恋が描かれていたのだと知った。
彼女は頬を染めてその内容を語ることもあった。彼女は表情をよく変える。時に優しく、時に残忍だ。
「人間の世界はどんなに美しいだろうか?」
マテラはいつも外の世界に想いを馳せていた。
「俺にはわからないよ。何もわからない」
「サナギは無知なんだね。けれど僕が全部知っているから心配しなくてもいいよ」
外の世界は希望に満ちていると言うことだけが俺たちの心を染めていく。
ナラの木に小さな鳥がすがりついているのが見えて俺とマテラはその鳥を見ていた。
「飛べないのか?」
「飛べないことはないだろうね。飛ぶのが怖いのかも?」
よく見るとその鳥はまだ所々、毛色が違っているように見える。
「きっと、大人になったばかりなんだ。だから、飛ぶのが怖いんだと思うよ」
マテラが言った。
鳥は飛び立とうとして、すぐにまた木に寄り添う。
「知らないところは怖いものな」
俺が言うとマテラは違うと首を振った。
「知らないことはとても面白いと思う。確かにわからないことは不安だけれど、わからないことを知ることで怖さなんてなくなってしまうんだよ」
彼女の唇が震えるのが見えた。俺もマテラも外の世界が理想郷のように感じていた。しかし、未知の場を恐れる気持ちも確かにあったのだ。だとしてもマテラはどんな不安や恐怖があってもきっと飛び立ってしまう。そんなことはわかっていた。彼女にはとても危ういところがある。だからせめて俺だけは側にいようと思っていたのだ。
今にして思うと外の世界にそれほど大きな憧れを俺は抱いていなかったのかもしれない。ただ、俺はマテラにおいて行かれたくなかったのだ。
「あっ!」
マテラの声と同時にその小さな鳥は飛び立った。その羽ばたきは弱々しかったのだがそれでもどこまでも遠くへ、空の彼方へ飛び去った。
「僕らもあんな風に外の世界に行けるんだね」
マテラは嬉しそうに笑っていた。
俺はその笑顔に不安を感じた。
そして、それから半月後、俺たちは森を抜けだしたのだ。
独房と呼ばれるものに入ったのはこれで二度目だった。あの男は予審判事だと言った。名はエゾモと言うらしい。
俺は両手足を縛られて冷たい石の床に頬をつけて横になっていた。冷たい石の上には無数の杖の子らが斑らに繁殖していた。独房の中には木に布を巻いた枕が一つと硬い床に広げられた薄手の布切れが一枚だけだった。他には何もない。まるで古代の棺桶のようだ。
独房の外の廊下では小さな一斗缶に目一杯炭が入っており、それが赤々と燃えていた。熱気がこちらまでくる。
「何のために……」
俺が呟くと守衛の男が遠くから声をかけてきた。
「起きたのか。悪魔!」
その男も顔には鳥のマスクを着けている。こちらには近づこうとはしなかった。
「そこでじっとしていろよ。じっとしていなければ、すぐにでも火あぶりにしてやる」
男は低い声で怒声を放つがそれ以上何かをする様子もない。
男は俺を恐れているようだった。人間は自らが知らないことを恐れる。だから、俺たちを恐れている。
「何もしないさ。手も足も縛られているのだから……」
俺の声に男は答えなかった。ただため息おついただけだった。
俺も人間が恐ろしい。俺たちの力で人間を殺すことができるように人間の銃や兵器は簡単に俺たちを殺すことができる。人間を殺すために作られたものにどうやって対抗できるというのか。彼らはもっと自らの優位性を考えるべきだ。
故郷が滅びたというのは風の噂で耳にしていた。だから、俺は一度だけ故郷へ帰った。広大な森の中に建てられた俺たちの集落はどこにもなかった。そこにあったのは黒焦げた野原にまばらに生える雑草だけだった。住処があった場所は綺麗な平地になっていた。それは人間の手で焼かれたに違いなかった。一族は火を好まない。火を好むのは外の人間だけだ。
そこには車の轍が生々しくいくつも残っていた。雨に濡れ風に吹かれても残っていた巨大な轍、そこに何が来たのか想像できる。この国の軍隊が動いたのだ。たかが一民族を虐殺するために国は兵器を使い、森を焼いたのだ。そのことは公にはなっていない。新聞には森の一族は近隣の町の義勇軍に駆逐されたと記されているが直接見ればそれが嘘であることは明白だった。
俺はその平地を抜けてまだ木々があるところまで歩いた。光も刺さないミュンクヴィズの森はもうそこにはなく、小さな林のようなものがあるだけだった。細いアカマツばかりが生え林の向こう側まで透くことができそうなほどだった。
唯一残っていたものがあの巨大な切り株だった。その周りには幾重にも石が塔のように積まれその塔は切り株を囲むように置かれていた。そして、それぞれの塔には名前がつけられている。
その塔は一族の墓だった。切り株の端に名前が刻まれていた。ナイフか何かで刻まれ、見知った名前も多かった。誰がこの墓を作ったのかわからない。そこにマテラの名前はなかった。
俺はそのことを少しだけ嬉しく思った。マテラが生きているかもしれない。
そんなことを思い返しているとコツコツと何者かが近づく音が聞こえた。
「お目覚めかな? 罪人」
鳥のマスクをつけた男がこちらに近づいてくるのが見えた。俺は横たわったまま足音を聞いていた。声からその男が先ほどのエゾモであることはわかった。手には拳銃が握られ銃口はこちらを向いている。
「黙ったままか? 罪人」
見下ろすエゾモの声は先ほどよりも落ち着いていてよく通る。
「何故あの子に近づく?」
「あの子?」
エゾモは拳銃を構え直し怒声を放った。
「わかるだろう! 一緒にいた子どもの話だ」
それでようやくナキのことだと理解した。
「俺は何もしていない。偶然会っただけだ」
「嘘を吐くな! お前が人間を襲っているところは見ている。あの子をどうするつもりだった?」
「何も……俺はナキに何かしようとは思わない」
「違う! お前はあの子が邪魔だったんだろう! あの子の身体が特別だから、殺そうとしていた」
男は力強く拳銃を握っている。
この男にはなにも見えていない。怒りは人の目を暗くする。
「俺が何のためにナキを殺そうとしていると言うんだ?」
「だから!」
「一族を殺された復讐のためか?」
「そうだ! お前は復讐を邪魔されたくないから、あの子が病に対する抗体を持っているから、消そうと企んだんだろうが!」
あまりに想像通りの答えで笑みがこぼれた。
「何がおかしい?」
エゾモは拳銃をこちらに突き出した。
「いや、ナキの言うことがわかる気がしてな」
ナキはこの街にいて何を考えていたのだろう。俺は故郷を、森を離れてとても孤独だった。人間は一人では生きていけないと誰もが言うだろう。しかし、人間は一人で生きていくのだと俺は思う。その孤独を抱えながら生きていくのが人間で、それはとても寂しいことだ。
「情も知らない悪魔の一族が、生きることさえ罪だというのに」
「俺は確かに罪人だがナキは善良でとてもいい子だ。だから、俺が彼女に何かすることはない」
エゾモという男は憤然としていた。
「彼女はいい子だ。お前のようなものが近づくべきじゃない。お前は死ぬことが確約されている。裁判などする必要さえないだろう」
「別に構わない」
誰に言われずとも俺はすでに死を覚悟している。自ら森を出ると決めたあの時から。
「明日、お前の公開審問が行われる。そこで正式に処刑が決まるだろう。それまで自らの行いを悔やむがいい」
男は銃をおさめ踵を返した。コツコツと床を踏み鳴らしながら、扉を開き最後にこちらを一瞥した。
「この男の監視を怠るなよ」
その夜、俺は床の冷たさを感じながら過ぎ行く雲の動きを鉄格子の窓から見ていた。雲は月を半分隠しながら過ぎ去り、また次の雲が月を隠す。その断続的な光景を見ていると妙な安心感を抱いた。過ぎ去り、また現れる。これが自然の摂理だと思う。生命は滅んでは生まれ、また滅んでは生まれる。そのことを強く思った。しかし、一度死んでしまった個体は二度と姿を現すことはない。人間は輪廻転生する。東の国ではそんなことが囁かれている。どこの国にも神が存在し、それらは人を助け、殺す。俺たちの一族に神は存在しなかった。神ではなく確かな存在として恵みをくれる杖の子らが信仰の対象だった。
杖の子らは俺たちに恩恵を与える存在で尊ぶべきものとされていた。俺も森を出なければその考えは変わらなかったかもしれない。
マテラとともに森を出た日もこんな風に雲も空も高い冬至の夜だった。
葉を散らした木々の隙間から射す月明かりが森を明るくする。
「早く行くよ。サナギ」
マテラはいつも以上に上機嫌で森の東側に向かって走っていた。俺もその後ろについて走った。落ち葉を踏むたびに湿った匂いがして清潔な感じのする夜だった。
「マテラはもう帰らない気?」
「そんなわけないよ。二、三日で戻るよ。お父様にも伝えてある。少し、森の奥に行ってくるって」
「よく許してくれたね」
「僕は優秀だからね。お父様も信頼してくださっているんだ」
マテラは微笑んだ。
地面は落ち葉でいっぱいだったから滑りやすかったが支障は無かった。ただ、マテラが走るたびに落ち葉が舞い上がる光景を俺はよく覚えている。
ふいにマテラの肩に杖の子らが付着していることに気がついた。鹿を食い潰したのと同じ色の彼らだ。
「どうして、杖の子らを?」
走りながら言うとマテラは笑った。
「用心のためだよ。外にはどんなことがあるかわからないからね」
俺はマテラの言葉に不安を感じた。
「外はそんなに怖いところ?」
「怖くはないよ。外の世界は素晴らしいんだから。ただ、用心をして悪いことはないからね」
「そうかな」
マテラは力強く「そうだよ」と頷いた。
それから俺たちは夜通し、外の世界を目指して走っていった。時々イチイの木の下で休みもしたがそれ以外の時間はほとんど走って移動した。夜明け前にはどうにか森を抜けることができた。
森から出て遠い東の地平線に暁を見たとき俺は不思議な気分になった。ここは本当に同じ世界なのだろうか。その光は明るく輝いて、地上を照らしていた。やはり地面には杖の子らが無数に集まっていたのだがそれらを照らす太陽の力強さに驚いた。
マテラも思うことは同じようでその太陽をまじまじと眺めてこちらに振り向いた。
「やっぱり、凄いね」
マテラが笑うのを見て俺も嬉しくなった。
夜通し走ったにも関わらず俺とマテラは目の前に広がる草原を思う存分走り回った。あまり嗅いだことのない草の匂いがして、所々に花が咲いている。
「サナギ! 冬なのに綺麗な花が咲いている」
俺は頷いた。
「森では見かけない花だ」
マテラも頷いて、再び走り出した。
そして、懐から地図を取り出した。近くにテーブルのように広い石があったので二人してその前に肘をついて地図を覗き込んだ。
「今がこの辺りだから、南に行けば、街があるはずだ」
マテラが言って、俺が頷いた。
「東から出たのは正解だったね。思ったよりも早く森を抜け出せた」
「でもその代わり、少し遠回りになってしまうから、ここからもう少し走らなければならないよ」
マテラも俺もそれほど疲れは感じなかっていなかった。
「大丈夫、まだ全然まいってない」
「フフッ僕もだよ」
そこから俺たちは街を目指して走った。途中多少の寄り道もした。見たこともない建物や風車もあった。寝床になりそうな藁束をいっぱい積んである畑もあった。でも不思議と人間とは出会わなかった。
それが一番運の悪かったことだと今では思う。
俺たちが地図を見ながら来た道のりはとても楽しいものだった。
結果として俺たちは街に辿り着けなかった。地図で街のあるはずの場所には小さな村しかなかった。もちろん、子どもが描いた地図に正確さなんて少しもなくそこが本当に目的地かもわかるはずがない。しかし、俺たちにはそこが目的地だと言う確信を持っていた。それは根拠のない自信だった。初めて人間の住む場所に足を運ぶという好奇心が俺たちの目を曇らせていたのだ。
そして、俺たちの理想もその村で霧散してしまう。
村に入って最初に出会ったのは牛を引いて歩く老人だった。腰の曲がったその老人の顔には杖の子らが無数に付着していた。赤や青の彼らは人間の顔の上で動き回っている。
「どうして、あの人は顔にあんなに杖の子らを付けているんだろう?」
「変わった人なのかもしれないね」
マテラは落ち着いてその光景を見ていた。
しかし、村に入ると何人もの人間が行き交っていた。どの人間も身体中に杖の子らを付着させていた。
「どうなっているの? マテラ?」
マテラは落胆したように項垂れた。
「見えてないのかもしれないね。ここの人たちには見えてないのかもしれない」
二人で話していると一人の村の男がこちらに近づいてくるのが見えた。
「なんだお前ら?」
男は前歯が数本なく唾を飛ばしながら言った。
俺はその人間の姿が恐ろしくて足が動かなくなった。
「森から来たんですけれど、ここはなんというところですか?」
マテラは毅然としてその男を恐れていないように見えた。
「ここはコーチンだが……今、森からって言ったか?」
男の顔が急に歪み始めた。
「お前ら、森の人間なのか?」
「はい」
マテラが答える。
男は急に持っていた鞄を振り回し始めて、
「出て行け! お前らがくるとこじゃない! 早く出て行け! 悪魔が!」
男の叫び声が耳を裂いた。鞄が俺の脇腹に当たって呻くとマテラが叫んだ。
「何をするんですか!」
「うるさい! 早く出て行け!」
周りにいた人々も少しずつ集まってきている。男は怒鳴りちらし周りの人間もそれに合わせて声を上げた。
俺はとても恐ろしくなった。外の人間はとても恐ろしい存在なのだと思った。マテラはずっと毅然としていたが実際はどう思っていたのだろうか。
俺たちは逃げるように村を出た。
後ろを振り向きながら逃げる。
村から離れた草原で追ってこないことを確認し俺たちは地面に座り込んだ。
「あれは一体何? 人間なの?」
そう言ってマテラは地面に膝をついて俯いた。
「あんなの人間じゃないよね? サナギ?」
俺は首を振った。今にも泣きそうになりながら、
「わからないよ」
と小さく呟いた。
「あんなのは違う。外の人間はもっと優しく、恋とか愛とかそんなのに溢れているものなのに、あんなのは違うに決まってる」
マテラは一人でずっと地面ばかり見ていた。
僕は後ろを気にした。誰も来ないことを確認する。誰も追ってきていないことに安堵した。
俺たちの希望や夢は一瞬にして壊れてしまった。
「森へ帰ろう」
俺が呟くとマテラも頷いた。
しかし、立ち上がると足が震えて上手く歩けなかった。どうしてかと思ったが、あれだけの距離を移動してきたのだから疲労が溜まっているのは当然のことだった。
俺たちはどこともわからない土地でへたり込み身動きすることも億劫になってしまった。
地面に横たわっていると冷たい風が頬を撫ぜていった。昼間なのに空を雲が覆って暗かった。
「どうしてこんなところに来てしまったんだろうね」
マテラは自嘲するように笑っていた。
「どうして掟があるのかわかった」
俺が呟くとマテラも頷いた。
すると誰かがこちらを覗き込んでいるのが見えた。
「おやおや、こんなところで子どもが寝ていちゃ、風邪を引いてしまうよ」
横になっている俺たちの顔を覗き込むように老婆が立っていた。その顔にはいろいろな色の杖の子らがついていたのだが不思議と醜いとは思わなかった。
マテラは警戒して起き上がった。俺は横になったままだった。
「誰?」
マテラは立ち上がって老婆を見つめた。
老婆はその問いには答えず、マテラの側まで行くと手を出した。
マテラはぶたれると思って強く目を瞑ったのだが、その手は優しくマテラの頬を撫でた。
「ほら、こんなに冷えてしまって、可哀想に」
老婆は優しくマテラの頭を撫で俺たちに手を差し出した。
「すごく疲れているみたいね。うちで休んで行きなさい」
そう言って彼女は村とは反対の方角に歩き始めた。
俺もマテラも互いに顔を見合わせてから頷き老婆の後を追った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます