サナギ第2話
彼女と出会ったのは黄土色の雨が降る日のことだった。
彼女の姿は異常だった。不自然というより他にない。俺にとっては未知の存在であり、人間であることすら疑わしい。
彼女は向かいの路地で膝を抱えて座り込んでいた。少し俯いてこちらを見ている。彼女の大きな瞳の色は赤色で短く切りそろえられた白い髪が肩のあたりで揺れている。
俺は路地の暗がりでひとり黄色い煉瓦の壁にもたれかかりながら空を見つめていた。この街に蔓延している人を喰らうものを少しでも減らすために『白い杖の子ら』を地面に根付かせようとしていた時だった。
彼女のその姿を見て他のことがどうでもよくなるほど驚いた。ここから見えるあの紫色の時計台も緑色の向かいの路地の壁もどうでもいいほどに見慣れたものだったからなおさらだ。
彼女の髪は老婆のように真っ白だった。瞳は血の色を透かしたようだ。臙脂のカーディガンはとても新鮮で白いシャツは美しかった。肌は不安になるほどに白い。
彼女はぐったりとして力なく息をする。
俺は急いで彼女のいる向かいの路地に移動した。震える彼女の肩に自分上着を掛けた。
彼女は目を丸くしてこちらを見つめ、口を開いた。
「あなたはどうしてこんなところにいるのですか?」
彼女の声は雀の鳴き声のように小さかった。
「君こそ」
彼女は俯いて目を伏せた。瞳に地面の黄色や紫色が反射している。
「何となくですかね。家にはもう誰もいないし、それに病気なんて私には関係ないので」
俺はしゃがみこんで彼女の顔を覗き込んだ。彼女はとても小さくか弱く見えた。俺はこんな人間を故郷でも見たことがなかった。彼女は普通の人間でない。彼女が一族に近しい存在だと感じた。
「俺も、同じようなものだ。でも、雨だ。身体が冷えるから外に出るべきじゃない。だから、家に帰りなさい」
彼女は頷かなかった。苦しそうな顔で再びこちらを見た。
「大丈夫です。ひとりですから……心配する人もいませんし」
この少女が町の人間なのかそれとも俺と同じで外から来た人間なのかわからなかった。ただ一つ言えるのはとても寂しそうだったということ。家族と死別したのかもしれない。今のこの街では珍しくもない
俺は彼女が一族に関係する者なのか、それだけを確かめたかった。だから、一つだけ訊いた。
「君にはあの時計台が何色に見える?」
時計台を指差すと彼女はその時計台をぼんやりした瞳で見つめて言った。
「灰色に見えます」
少しだけ期待していたことがある。一族は滅んだ。しかし、自分と同じ者が他にもいるのではないかといつも心のどこかで思っている。この少女ならもしかしたらと思ったのだ。だから期待した分落胆も大きかった。
俺は、「そうか」と呟いた。
彼女にはあの時計台が灰色に見える。俺には紫色に見えるあの時計台が彼女の目には灰色に見える。俺の見る世界と他の人間が見る世界が違うことはわかっているがどうして違うのかは俺にはわからない。だが一つ言えることは見るものが違うということは思考も異なるということだ。
だから、俺がそれ以上話すことはなかった。彼女は同族ではないのだ。期待も裏切られた。
人間にとって赤や青、原色に近しい色は彩りといい、白や黒に近い色は暗晦という。人間は彩りを好むというが、俺にはそれがわからなかった。昔、人間の見える世界について訊いたことがある。しかし、俺にとって彩りはいたるところにぶち撒かれているようなもので暗い色の方が珍しい。俺の見ることのできる無彩色は夜空くらいのものだった。
だから、赤色の地面に黄土色の雨が弾けて混ざり合っていくのが嫌いだ。その彩色の原因、『杖の子ら』は常に世界を覆う。俺の目に人間の見る世界が映ることはない。いや、俺にとってはこれが本当の世界の姿で人間たちの認識が間違っているのかもしれない。
そんなくだらないことを考えている時も彼女はこちらをじっと見つめていた。
「あなたの名前はなんですか?」
ただ、俺にとって彼女の姿だけは他の人間とは異なるように見える。故郷の人間と外の人間とでは姿が違う。そして、目の前の少女は故郷の人間と近しい色をしていたのは事実だ。肌は赤みを帯びていた。瞳は光が差して明るく紅い。細部は違っているが、俺の知る一族の肌の色をしている。
「あの、聞こえてますか? 名前は?」
彼女はなぜか俺の名前を訊く。
「サナギだ」
彼女は少しだけ笑っていた。
「変わった名前ですね」
彼女は嬉しそうで、雨なのにとても楽しそうに見えた。冷たい雨が俺は嫌いだった。雨の日、杖の子らは踊るように動き回っている。
少女の顔には好奇心が覗いている。
「瞳がとても綺麗な紫色をしています」
俺は色眼鏡をかけ忘れていることに気づいた。不用心にもほどがある。
俺は誤魔化すように、
「そうかい?」
と言った。
でも、そんな不安は杞憂だった。彼女は相変わらず顔に微笑みを浮かべている。
「君の名前は?」
「ナキです」
この辺りでは聞かない響きの名前だった。一族に近しい名前の響きだった。
本当に彼女は俺たちに似ている。だから、あえて言う。
「君こそ変わった名前だ」
彼女はますます嬉しそうに笑う。
二人して、様々な色が混ざった空を眺めた。黄土色や紫色、それ以外にもあらゆる色が混ざり合っている。杖の子らは水の中にも多く潜んでいる。だから、雨の日の空はおかしな色をしている。限りなく黒に近い虹の色のようだ。
俺の故郷について憶えていることは少ない。それに俺が故郷の森を出たのが十歳の冬だったから、それ以降のことは伝聞でしか知らなかった。
あの森は広大で普通の人間には俺たちの故郷を見つけることはできないはずだった。一族は杖の子らの生息域森の位置関係を把握できた。だから、俺たちがあの森で迷うことはなかった。
鬱蒼と生えたカバノキやアカマツ、ところどころに巨大なセイヨウイチイが住処を覆い隠すように屹立している。その光景は今でも鮮明に憶えている。森の中では空などほとんど見ることができない。しかし、古木の巨大な切り株がある場所だけは昼下がりになると陽の光がわずかに差し込む。幼い頃の俺はいつもそこにいて親友のマテラと森の外について多くのことを話した。
「サナギ、君は知っているかな? 世界はこの森が五千個あっても足りないぐらいに広いんだ」
マテラは族長の娘で幼い頃から俺よりも度胸があって、そして何より強い女だった。
「そんなことどうやってわかるんだ?」
「お父様が話すんだ。お父様は古い本をたくさん持っているし、そこには外の世界について多くのことが記されているんだよ」
マテラは父について話す時いつも自信に満ちていた。俺は親のことを知らなかったから彼女の気持ちがわからなかった。彼女には族長である父の他にも母と幼い弟のナミザがいた。特に羨ましいなどとは思わなかったが。
「世界はこの森とは違った色?」
「全く違う色をしているはずだよ。この森にいる杖の子らは限られているけれど、外の世界にはもっと多くの杖の子らが存在するはずなんだ」
マテラは空を見上げて言う。杖の子らは外の人間からはバクテリアやアーキアなどと呼ばれる存在だ。
「でも、外の杖の子らは俺たちの言うことを聞いてくれる? もし聞いてくれなかったら……」
「そんなことはないと思うけれど」
俺たちは外の世界に対する希望ばかり抱いていた。
「それなら、いいな。外の世界へ行ってみたい」
「そうだよ。僕も行くべきだと思うね。掟で決められているからって知らない。僕はいつか外の世界に出て行くと決めているから、その時は二人でここを出て行こう」
その頃の記憶は夢のように淡く消えてしまいそうなほど儚い。だが、今でも忘れていない。
結論から言えば外の世界に希望などどこにもなかったのだがあの頃の俺はマテラの言うことが全て真実のように感じていた。だから外の世界は美しく理想的な場所であると確信していたのだろう。
俺もマテラも外の世界に憧れていたが、それこそが間違いだったと今では思う。
生物にはそれぞれに適した住処があってそこを離れることは好ましくない。環境が変化しない限りは自らの住処から出ることを極力避けるべきなのだ。しかし、幼い俺たちにはそれがわからなかった。
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