FILE : 5-2―― 象の親子②

―― 二頭は舎を出ようとしないまま眠りについた。

 少しでも食事をとったことで極限状態から開放され、安心したのだろう。

「今なら撫でられるかな。行ってみようぜ」

 鷹邑はアドニスとともに、象のもとまで歩み寄る。二頭は寄り添い合って寝息をたて、近づいてきた二人に気がつく素振りは見せなかった。

 足音を殺して近づき、恐る恐る、手を差し伸べる。


「……あぁ、そうか」


 象の横腹の肌に指先が触れた。その瞬間。

 分厚い皮と、筋肉を伝う拍動を感じた、その瞬間。

 鷹邑の記憶は、涙となって溢れた。

「本当に、変わったんだな。世界は」

 アドニスは鷹邑のふくらはぎを甘噛みしたり、周囲をうろついて小さく吠えてみたりする。けれど、嗚咽をあげ、その場に膝をついて泣く鷹邑を慰めることはできなかった。

「会いたい。会いたいなぁ」

 鼻をすすり、涙を拭く。

「やっぱり、皆に会いたい」

 温厚なのだろう。親の象はうっすらとまぶたを持ち上げていたが、立ち上がることもなければ、鷹邑を攻撃することもしなかった。

 崩れ落ちた鷹邑は、そこで長く、長く泣いた。

――じきに夜がきた。

 象はゾンビに襲われることこそないが、野放しになった別の動物に襲われないとも限らない。特に、脱走したであろう夜行性の動物など、恐ろしい敵はうようよいる。

「(けど、コイツらを育ててやる余裕も手段も無い)」

 しばらく頭を抱えるも、策は浮かばなかった。

「仕方ない。生きてたらどっかでまた会おう」

 鷹邑は、今日一晩をこの舎で過ごすことにして、翌朝に発とうと決めた。

「ごめんな、アドニス。お前の友達はできそうにねえや」

「くぅん」

 二人は舎の中の、シャッター脇を沿って壁際にあった、飼育用具などを保管する物置小屋で眠ることにした。打ちっぱなしで冷たいコンクリートの床だったが、今の鷹邑にはどうでもよく思えた。

――明朝。

 鷹邑は便意を催して、舎の隅で大小どちらの用も足した。起きていた象は知らん顔だったが、アドニスは、戻ってきた鷹邑から寝ぼけながらも距離をとった。

「逃げんな、クソが」

 鷹邑も笑って悪態を垂れながら、再び眠ろうとした。

 その矢先のことだった。

「シャッターの音だ」

 鷹邑は、念のため内側から舎のシャッターを下ろしていた。誰か来たら分かるようにするためだ。物置の扉を少し開け、隙間から様子を見ると、そのシャッターが持ち上がってきている。白んだ明朝の光が、確実に中に入ってきていた。

 マガジンを外して銃の残弾を確かめつつ、起きたアドニスとともに小屋を出る。

 音を殺して、壁際の鉄柱の陰に隠れ、シャッターから死角になる場所で待機した。

「(相手は人間か。何の目的だ? 放飼場にゾウが出てなかったから気づいたか? )」

 入口から声がする。全ての動物が目を覚ましそうな、鶏に似た甲高い男の声。

「ここから生き残りの臭いがするなァ」

 広い空間に反響し、声にエコーがかかる。

「男と犬の臭いだなァ」 

 語尾が泥のように尾を引いている。

「ここは俺の狩り場なんだァ。動物は一日一頭、人間なら見つけ次第殺すって決めてル」

 一発、拳銃より大きな銃声がした。象が目を覚まし、放飼場へ連れ立って逃げていく。

「(あれは……猟銃か)」

「今日は象一頭の予定だった……でもイイ朝だからなァ」

 足音。歩きだしたようだ。スニーカーのゴム音がする。

 遠くから容姿を認める。髪はセットされていないボサボサの茶髪で、衣服はグレーのカーゴパンツに赤のパーカー。高校生だろうか。

「気分が良いから、そうだなァ……」

 男は放飼場に向かいながら、高らかに叫びあげた。

「決めたァ」

 男は外の象に狙いを定めながら歩いていく。

「今日どっちも殺そォ」

「やめろ! 」

「お、出てきたなァ。表の邪魔くさい車ははお前の? 」

 思わず鷹邑は陰から飛び出してしまった。彼は持ち前の正義感を呪ったが、アドレナリンが恐怖を上回る。

「(まだ大丈夫だ。五十メートルはある。弾は当たらない)」

 対人戦はゾンビ相手よりも激しい恐怖を伴う。鷹邑の額には汗の雫。アドニスも分かっているのか、自ら突っ込んでいくことも、吠えることもしない。

「おっサーん! 殺してやるからコっち来いよォ! 」

「断る! 」

「なら象殺すぞォ! 」

 象を殺させずに、自分たちも生き残る。かつ、相手のことは無力化するのが至上命題。

「やめてくれ! 分かったから! 」

「聞き分けがいいなァ! ならあと十歩こっち来い! 」

「(これが、シャビの言っていたアンモラルって奴か)」

 新世界の生んだ倫理の無い怪物。それまでルールや社会に縛られていた鬱屈した人間が、狂気と武器を手にし、変貌した成れの果て。

「(拳銃もこの距離じゃ当たらん。どうする、どうすればいい)」

 先に立ち向かったのは。

「行くな! アドニス! 」

 警察犬のジャーマンシェパード・アドニス。

「はッ! 犬から殺すわッ! 」

 警察犬における犬種ジャーマンシェパードの最高時速は約四十五キロ。その中でもアドニスは警察犬指折りの快脚。最高時速は五十キロ。何十メートルも先からその速度で走ってくるアドニスに猟銃を命中させることは至難の業。

 加えて。

「あぁもうクソッ! 俺も行く! 」

 拳銃を構えた鷹邑が威嚇発砲しつつ突撃を仕掛ける。拳銃による攻撃への恐怖と、急速に接近してくるアドニスの両方に気を配ることは、いくら発狂した人間であっても不可能。

「死ねェッ! 当たれェッ! 」

 恐怖で腰が引けた状態では、本来当たるものも当たらない。そして。

 パォォオオンッッ‼

 背後から強烈に鳴きあげる象の声、それは放飼場から聞こえたものだったが、あまりの声量に、男は象が真後ろにいると錯覚した。

 アドニスが五十メートルを接近するまで、銃を回避するため蛇行して走ることを考慮しても約七秒。七秒の間に同時に起きた恐怖の連続で、男は四発撃って全てを外し、持ち手をアドニスに噛み砕かれる。

「あがァァアッ⁉ 」

 追いついた鷹邑が手放した猟銃を蹴り飛ばし、仰向けに押し倒すと額に銃口を当てる。

「アドニス、よし」

 アドニスが牙を離すと、男は虚ろな顔で鷹邑を見上げた。

「なんだ、有名人じゃン……」

 ここに医師はいない。手に負った傷は出血量からして致命傷。

 男は引きつった笑みを浮かべる。明らかな虚勢だ。乱れた茶髪が汗で、汚らしく額に張りついている。

「サインくれよ。へへ」

「黙れ。お前は高校生か? 」

「うん、だから許し―― 」

「ごめんな」

 鷹邑は食い気味に引き金を引いた。

――正面玄関に停めておいたキャンピングカーの運転席で煙草を吸う鷹邑。

やるせなさと、動悸と、深い悲しみとが、まだ心でわだかまっている。

 ため息は止まない。アドニスは何事もなかったかのように大人しくしている。

「……次は避難所巡りかな。どっかしらで生存者に聞き込みせにゃ」

 エンジンをかけ、シートベルトを差し込んだ時に、開けていた窓から鳴き声が聞こえてくる。

 ォォオオン……ォォオオン……。

 さっきの象たちが道路の向こうから、鳴きながら歩いてくる。どうやら舎を出たらしい。

「またなぁ! 元気でなぁ! 」

 そう窓から手を振ってハンドルを切る。アドニスも嬉しそうに吠える。

「わんっ! わぅっわうっ! 」

「よし、さぁ行こう! 」

 キャンピングカーは、鼻を高々持ち上げ、まるで別れの挨拶のように振ってくれる二頭の象を尻目に動物園を後にした。

 次は生存者を探すため、避難所に指定された学校を周ることになる。





―― 次回へ続く。

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