№39 ハッピーバレンタイン
ハルでさえこれなのだ、きっと影子はバレンタインのバの字も覚えていないだろう。チョコなど期待するだけ無駄だ。
そうは思っていても、どうしても期待してしまう。なにせ、母親以外からチョコをもらうことなどめったにないことなのだから。
万が一、もしかしたら、影子がチョコを用意してくれているかもしれない。だとしたら、急いで帰らねば。自然とハルの歩調が速くなった。
家に帰りつき、自室の扉を開ける。できるだけ、平静を装って。
「ただい……」
「おかえり、ダーリン♡」
「…………」
「……おい、なんかコメントしろ、コメント」
そこには、大きなリボンが特徴的な黒のミニワンピース姿の影子の姿があった。それはまるで、チョコの入ったプレゼントボックスのような……
予想外のリアクションを取られた影子は、きまり悪そうにつぶやいた。
「せっかく『チョコより甘いアタシをどーぞ♡』ってしてやったのによ……」
「……いや、気持ちはうれしいんだけど……まさか、そのノリをこの令和の時代にやるひとがいるとは思わなくて……」
倫城先輩とのやり取りが思い返させる。ベッタベタなベタ展開だ。いにしえのレディースコミックでもなければこんなやり取りしないだろう。
「んだよ! アタシが勝手にスベったみたいに言うな! 冗談だよ、冗談!!」
なぜか逆ギレした影子は、一瞬で元のセーラー服姿に戻った。
そして、どっかりと腰を下ろしてそこら中に散らばっている箱から次々とチョコを口に運んでいく。
どうも、いつもの影子らしからぬ様子だが……
ふと、ハルは影子から漂うアルコールのにおいに気付いた。
「酒くさい……? 影子、君、お酒なんて飲んだのか!?」
『影』とはいえ、便宜上は二十歳未満の学生だ。飲酒喫煙などもってのほか。健全に育ったハルとしては、アルコールの味など知るのはまだまだ先だと思っていた。
チョコをつまみながら頬を少し赤らめる影子は、にひ、とだらしなく笑い、
「酒なんて飲んでねえよ……あ、でも、これ酒入ってんのかな?」
横からチョコを奪うと、たしかにそれはウイスキーボンボンだった。
まさかこの程度のアルコールで酔っ払えるとは、影子はとんだ下戸らしい。さっきの悪ふざけもこのウイスキーボンボンが原因だったようだ。
「最近は便利な世の中だなあ。ネットで注文すりゃあ、なんでもきっちり指定日に届くんだからなあ」
「……支払いはどうしたの……?」
「んんー?」
酔っ払いにはその言葉は届かなかったようだ。謎の金策によって大量のチョコを購入した影子はご満悦だ。まあ、その機嫌のよさに免じて深くは突っ込まないでおこう。
ともかく、影子はバレンタインを覚えていてくれたのだ。それがうれしくて、ハルは荷物を置いてにこにこしながら影子の隣に腰を下ろした。
「僕ももらおうかな」
「ん」
影子がチョコをくわえたままの顔でうなずく。
……一向に食べる気配がない。このままではチョコがとけてしまう。
フリスビーを加えた大型犬のような姿に、ハルは疑問符を浮かべながら問いかけた。
「……なにやってんの?」
すると影子は、チョコをくわえたまま顔をより赤くし、
「聞くなバカ! 口移しで食わせてやろうって待ち構えてんだよ! 察しの悪ぃ男だな!」
「……ああ……」
そういう趣向か。気付かなかった自分がヤボだった。
目を閉じて『待て』のポーズの影子のくちびるから、チョコをいただく。ついでに少しだけ口づけを落とし、ハルはこの世で最も甘美なチョコを味わった。
「……甘いね」
「……ん、甘ぇ」
ふたりとも顔を赤くして、ひとごとのように感想を述べている。ハルとしても初の体験だったので、どうコメントしていいかわからなかった。が、仕掛けた側の影子までこうなるのは納得がいかない。
なので、意趣返しとして自分もチョコレートをくわえて見せた。しかも、あえて溶けやすい生チョコを。見る間にハルのくちびる全体にチョコが広がっていく。
影子は目を閉じて、ハルのくちびるにかぶりつくようなキスをした。チョコの残滓を隅々まで舐め取って、飲み下す。
「……ん、あっま」
「……おいしいね」
照れくさそうに笑うハルにつられて、影子もまた、くすぐったげな笑みを浮かべた。
「次、これ……ん」
今度は影子がまたチョコをくわえ、それをハルがくちびるごと食す。そして次はハルがチョコをくわえ……その繰り返しを、何度か。
チョコの味などわからなくて、ただ影子のくちびるの味だけはしっかりと頭に刻みつけた。甘く、切ない恋の味だ。
部屋にあったチョコをすべて平らげるまで、ふたりはこの甘美な遊びをしばらく続けた。
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