第4話

 ■


 突然、一人の看守が牢屋に入ってきた。彼は厳粛な表情でイシルを見て口を開く。


「殿下、白獅子に討伐隊が差し向けられました。近く、かの魔獣を打ち果たすでしょう」


 討伐隊は幼少の頃から徹底的に鍛え抜き、戦士として仕上げたものだけで構成された対魔獣の特別な部隊であり、さらにいえば彼らは皆孤児であった。魔獣により親を殺された者達ばかりだ。

 魔獣への憎悪という昏い炎が、彼らという剣をより鋭く鍛え上げている。そんな彼らに掛かっては、マルドゥークもただでは済まないだろうとは思っていた。だからせめて無事に逃げ延びてほしいと願っていた。


 イシルは指先まで蒼褪めて立ち尽くしていた。

 大切な友人であるマルドゥークが居なくなるかもしれないのだ。

 まして討伐隊の隊長はあの英雄タリオンである。

 かつて魔族が押し寄せてきた時、魔将と呼ばれる非常に強力な戦士を退けたエルフェンの英雄。

 賢いとはいえ一魔獣が敵う相手ではない事はイシルにも分かっていた。


 彼女は看守を睨みつけた。この衛兵が友人を殺めようとしているわけではない事は彼女にも分かる。しかし彼女はもはや自身の感情を制御できなかったし、彼女自身も制御しようとは思っていなかった。


「あなたは…あなた達はマルドゥークを、私の友人を殺そうとしているのよ!」


 熱雷を孕んだ視線が看守を射貫く。

 看守はイシルをまっすぐ見て言った。


「王国と殿下を守るために必要なことだったのです。魔獣は恐ろしい存在で…それは殿下もご理解頂けているはずです。昨年、幼子が王都へ入り込んできた大蛇の魔獣にかどわかされた事をお忘れではありますまい」


 イシルは俯く。


 王国には結界が張られているが、それは獣除けの因果を含めた御呪い程度の物だというのは彼女も知っている。

 勿論王都を護る兵たちもいるが、それでも毎年少なくない数の王国民が犠牲となっている。王都の外ではなく、王都の中で殺される者もいるのだ。


 だから魔獣を狩るという理屈は彼女にも分かる。

 分かるが、それでもイシルは看守に何かを言ってやりたかった。

 看守の精神の鎧に致命的な罅を加えるような、酷い暴言を。


 しかし結局それは出来なかった。

 イシルは思い出したのだ。

 看守の親もまた魔獣に殺されていた事を。


 イシルは看守に何も言わずに背を向け、格子から見える青い空を見つめて"どこかへ行きたいな"と思った。


 世界が余りにやるせなさすぎたからだ。


 ■


 その頃、森では討伐隊が集まって帰還の算段を立てていた。


「犠牲は出たが、あれほどの魔獣を相手にした事を考えれば犠牲は少ないほうだ。犠牲者の遺体を集め、王都へ連れ帰ろう。無事な者は怪我人に手を貸してやれ」


 タリオンの言葉に、皆特に反論することもなく頷く。

 だが、そこまで言ったタリオン自身の顔色が非常に悪い事には皆が苦言を呈したが。


「分かっている、済まない。だが無理をしなければいけなかったんだ。真正面から撃ち合いなんてしてみろ、今頃この場の半分は死体になっているぞ」


「そうかもしれませんけれど、それはそれですよ隊長」


 隊員の一人がどんな事にも反論できる魔法の批判を飛ばす。

 これは敵わんと苦笑を浮かべるタリオンだったが、不意に真顔になり、森の奥…マルドゥークが逃げた先に視線を注いだ。

 タリオンの目はこれ以上ないほど見開かれ、冷や汗が浮かんでいる。


「どうしましたか、隊長っ…!?」


 その様子を不審に思い、シエラが事情を尋ねようとしたが、彼女もまた異変に気付いた。


「総員、戦闘態勢ッ!!」


 タリオンが怒号し、剣を引き抜いた。


 隊員達の目の前で木々の青々とした葉が茶褐色に枯れていく。

 異様な悪臭が立ち込めてくる。

 何か良くないものが近づいてきている事をその場の誰もが感じ取っていた。


 世界そのものが軋むような圧迫感が刻一刻と強くなっていく。

 本来ならば退却を選ぶ所だが、とタリオンは歯嚙みした。

 重傷者も居り、素早い逃走はできないだろう。

 であるなら迎え撃つしかない。

 中途半端に逃げて、後背を襲われるのが一番不味いからだ。


 やがて"それ"がやってきた。


 ザザザ、と下草が揺れる音がしたかと思えば、全身を黒く染めた獅子がゆっくりと森の奥から姿を表す。


 黒獅子の足元の草は茶褐色に変色し、それだけではなく周辺の木々も急速に水分を奪われていくかのように萎れていく。


 タリオンはマルドゥークから黒い霧の様なものが放射され、それに触れた植物も含むあらゆる生命体が枯死していく事に気付いた。

 エルフェンの大戦士の目が険しくマルドゥークを睨み据える。


「全員いつでも盾を出せるようにしておけ、衝撃波を飛ばしてくるぞ!…だが、奴はもういくつか芸を身に着けている可能性もある。ぬかるなよ」


 タリオンは軋む体を叱咤し、剣を構えた。

 一撃必殺の大魔法はもはや使えない、いや、使うにせよここで出す手札ではない。彼は剣を使わせても並々ならない事は言うまでもないが、自身の握る一振りの長剣が酷く頼りない思いを否定することは出来なかった。


 マルドゥークはがぱりと口を開け、口角を引きつらせる。

 まるで嘲笑っているような表情は、討伐隊の面々の精神の弦を酷く乱雑に掻きむしった。弦が切れて衝動に任せて襲い掛かればどうなるか…きっと碌な事がないというのはこの場の全員が心得ている事だ。


 開かれた口からは鋭い牙が覗くが、それよりも口内から発された黒い霧が問題だった。

 霧はマルドゥークの体表から放射されているが、口内から放出されたそれは勢い、量ともに尋常なものではない。


 黒霧が触れた草木は枯れ、腐り、爛れ死ぬ。鳥や虫、小動物の類も例外ではない。


 周囲の生命が枯れていくという現象はマルドゥーク自身の内面の枯渇を象徴している。そして腐れて爛れ死ぬ生物は、彼が周囲へ向ける侮蔑の意思をあらわしていた。

 本当に尊い、大切なモノを餌に自身をつり出し、罠に嵌めた者達への心の底からの軽蔑が腐敗の権能の根源である。


 それは彼の心の中にある生命力、喜び、希望が失われ、憎悪によって置き換えられたという事実を強く示唆していた。


 そんなあらゆる生命を枯死させる致命の黒霧が凄まじい討伐隊を呑み込んだかと思えば、黒霧が竜を巻き…その中心に討伐隊が居た。誰も死んではいない。


 隊の中心にシエラが立っており、片手を天に翳している。

 完璧に制御された風が渦巻き、黒霧を散らしているのだ。

 彼女は隊でもっとも優れた風術師であり、風に乗って飛行することすら出来る。


 100歳前後の若輩でここまで風を操る事ができるものは、少なくとも王国には王女イシル以外には誰もいない。

 英雄タリオンの年の離れた妹という重圧にも負けずに日々研鑽を積んだ結果だった。


(しかし長くは持たない)


 タリオンは素早く回転する気流の壁に目を走らせ、状況が非常に良くない事を確認した。

 "空気の流れ"というものは無から生み出されるものではなく、当然周辺の空気を利用して作られる現象である。

 この場合、その周辺の空気が問題だった。


 黒霧がふんだんに拡散された周辺の空気は、マルドゥークの制御下にあるといっても過言ではないからだ。


 他者の制御下にあるものを無理くりに操作しようとすれば、魔力の綱引きが始まる。彼我の魔力が相克し、対消滅すればいい方で、差があった場合は一方的に浸食されてしまう。


 そう、今のシエラの様に。

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