最終話:穢れた指先
革張りの高級鞄に銀行から下ろした現金を詰め込む。
商会ギルドが経営する銀行の窓口は俺とアイリの顔見知りで、俺の正体も薄々知っているのだろう。
貧乏人丸出しの安い綿服に身を包んだ俺が大金を手にしても、笑顔で見送ってくれた。
馬車はもうすぐ出る。
俺はうんざりするほどの大金を運びながら、こんなに重たい思いをするのなら、『金がある』というのもそれほど幸福ではないのかもしれないと思った。
重すぎる。
俺には、重い。
「よう」
声をかけると、シエルはビクッと震えた。
あの迷宮試験を受けた時の、A級剣士の面影はない。
今のシエルはくたびれた旅装に身を包み、顔をスカーフで隠し、『雨が降るから』という言い訳じみた防水頭巾を頭から深く被っていた。
空はずいぶん綺麗に晴れていた。
これから雨が降ると分かるのなら、シエルには天気予報士の才がある。
「持ってきたぞ」
馬車の待ち人が座るベンチに腰掛けたシエルの足元に、鞄を放る。ほかに待ち人はいない。
シエルはそれをしばらく見つめた後、手にとって膝の上に持ち上げた。
「ありがとう、ございます……」
「こちらこそ、ありがとう。あんたは役目を果たしてくれた」
「……私は、何も」
シエルは顔を伏せ、ぎゅっと鞄の持ち手を掴んだ。
「私は、あなたに……『ジャルムを頼れ』と言われただけ、で……」
「そう。そして、頼ってくれたら……ジャルムが死ねば金を払うと言った」
「そんなの、信じていませんでした。あの人は、勝手に私を見つけて、勝手に……」
「勝手に死んだ、と?」
俺は耐え切れずに頬が緩むのを感じた。
笑いが止まらない。
そうだよな。
お前にとって、『誰か』の価値なんてそんなもんだよな。
シエル。
「俺の取引を信じていなかったのなら、なんでまだ、馬車を待っている?
もう何日も前から、馬車はここを発っているじゃないか。
お前は俺が金を持ってくるのを待っていた。
違うのか?」
「……それは」
「お前は、両天秤にかけたのさ。
ジャルムの言う通りに動いて、迷宮試験を突破し、剣士として士官できればそれでいい。
どこかでジャルムが死んで、酒場で話しかけてきた怪しい絵描きから、現金が手に入るならそれでもいい。
だから、ジャルム側として剣も必死に練習したし、……最後の瞬間、わざと転んでジャルムをおびき寄せたんだ」
「ち、違うっ!」
シエルは立ち上がり、顔を真赤にして叫んだ。
その歪んだ形相が、どんな表情なのか、俺には分からない。
怒りなのか、屈辱なのか、悲しみなのか。
憎しみなのか。
俺には、分からなかった。
「あ、あなたは……見ていたわけでもないのに、そんな……」
「見ていたさ。俺は『ダンジョン管理人』だ」
シエルの目が驚愕に見開かれる。
そして、小さく呟いた「あ」が、彼女が全てを悟ったことを俺に知らせた。
「だから……あの人に死んで欲しかった、んですね……」
「ああ。ダンジョンを攻略させないのが俺の役目だ。
だから見ていた。お前がわざとコケたのも、ジャルムが飛び出すのも。
……ジャルムが決して遅れを取るはずがない、たかがA級サイクロプスに殴り殺されたのも。
見ていたよ」
「……どうやって、やったんですか。あの人があんな魔物にやられるわけ、ないのに……あんな、あんな……」
「あいつは本当に、あんたを守ろうとしたんだよ」
どこかで繁殖期を迎えた鳥がチィチィと鳴くのが聞こえた。平和だなと思う。
「あんたを守りながら、自分が手を出したせいで試験が失格したと確定した時、あいつは途方に暮れたんだ。
その一瞬、あいつは『黒剣のジャルム』ではなくなった。
ただの困惑した弱い男に成り下がった。
だから、たかがサイクロプスだと侮った俺の魔物にやられたのさ。
あれは、外見はA級サイクロプスでも、中身はS級モンスターと同等のスペックがある魔物だったから」
そう、そのために俺は研究を重ねた。
ジャルムを出し抜くために大勢の冒険者を殺して実験した。
たった一瞬、やつが油断するなら。
それは『誰かを守ろうとした時』だと思ったから。
「……人でなし」
小さく吐き捨てたシエルを、俺は嘲笑する。
「人でなし? よく言えたもんだな。
お前が一言でも俺の存在を匂わせていれば、ジャルムはすぐに俺を探し出して殺し、この街のダンジョンコアを抜き取り、別の街でお前の行先をどうすればいいかゆっくり考えたはずだ。
お前が黙っていたせいで、あいつは死んだんだよ」
「違う! あなたが、あなたが殺したんだ!」
「そうだよ!」
俺はシエルの胸ぐらを掴み、ねじり上げた。息ができなくなったシエルが苦痛に呻いた。
「そうだ、俺が殺した! あいつを、『黒剣のジャルム』を、永遠に何も歌い上げることなんかできない暗黒に突き落とした!
俺がそうしたかったと思うのか!
俺が、あいつを他の方法で止められないかと考えなかったと思うのか!
何もせず、他人任せにして、流れに身を任せ、最後の最後にジャルムではなく俺を選んだのはてめぇだ!
貴様こそ本物の魔女だ!
俺も、ジャルムも、てめぇも、
全員まとめて地獄行きなんだよ!」
やめて……と小さく呻き泣く女から、俺は手を離した。シエルは激しく咳き込む。
心の赴くままに怒鳴った後の、あの嫌な喉のかすれを感じながら、俺は背を向けた。
それから二度と、シエルの姿を見ることはなかった。
◯
製本業者は一級の腕利きを使う、とアイリが言って、俺の原稿を持っていった。
俺はもう、自分の本が製本されたかどうかに興味が無くなってはいたが、それでもアイリが持ってきた『自分の作品』を手に取った時は、何か痺れるような感覚があった。
まだ俺にも、そんな気持ちが残っていたらしい。
軽くめくってから、アイリに手渡すと、パラパラと読み始めた。
「トカゲ人間の絵本か。何かモチーフでもあるのか?」
「別に。ただ、もう人間を描きたくなかっただけですよ」
「愛だの恋だの、男だの女だの、もううんざりというわけか」
「あんたに何が分かるんです」
「分かりはしないさ。それでも、想像する自由くらいはくれよ」
アイリは以前より俺のアトリエに入り浸ることが多くなった。
ダンジョン管理人として就任早々、S級冒険者によるダンジョン攻略を防いだ俺の仕事はほぼ無くなった。
ジャルムの死により、『S級冒険者をも退けたダンジョン』として迷宮の価値が上がり、高ランクの冒険者が街を訪れるようになったが、大抵は金を渡せば簡単に転ぶ。
ジャルムのように何が何でも自分の思い通りにしなければ気が済まないような冒険者は、そうそういない。
だから、あれから俺はゆっくり創作できる時間を得た。
現実世界にいた頃も、こっちの世界に来てからも。
俺が望んだ時間だった。
それを『幸福』と呼ぶには、あまりに多くの血を流してしまったが。
「面白いな、お前の本」
さっさと帰れと追い出したが、玄関口でアイリがまだ喋る。
「それはどうも」
「描き続けろよ」
傷で塞がったアイリの目の奥で、わずかに光が瞬いた。
「いなくなったやつらの分まで、描けよ」
「……邪魔なんで早く出てってください」
ハッハッハ、と豪快に笑ったアイリが去っていった。
一人になる。
この世界では高級品の真っ白なキャンバスを引き寄せる。
絵具壺の蓋をあけて、指を突っ込む。
俺の指は品質の悪い油を吸いすぎて、もう色が落ちない。
真っ黒な、腐乱死体のような指。
俺はそれを使って、鮮やかな色彩を真っ白に打つ。
そうとも。
言われなくても、俺はやる。
END
穢れた指先;ダンジョンマスターの見る夢 顎男 @gakuo004
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