初出勤ですよ!
からん、からん
「おはようございます!」
あたしの実家からこのお店までは鈍行電車で二駅隣り。快速は止まらない。
昨日、即時採用が決まったあたしは駅前の牛丼店で、お祝いに生卵とお味噌汁を付けた。なんとちんけな懐事情だろうか。
そもそもあたしは大学を辞めて以来、家事手伝いという建前のプー太郎。親と姉からお小遣いをもらって暮らしていた。
姉はあたしと五歳違い。あたしが二十歳なのだから二十五歳のはず。結婚の”け”の字もないし、彼氏が居たということもまったく聞かない。あたしが知らないだけかもしれないけど……弟もそんな話は知らないと言っていた。
そんなあたしの就職先が幸先よく決まったというのに、家族は反応は悪い。
大学みたいに辞めないようにしなさい、と両親には口うるさく言われ。姉と弟には、辛くても少しぐらい我慢しなさいと諭される始末。
あたしが大学を辞めたのは、お父さんが会社をリストラされて家計が火の車に陥りそうになっていたからなんだけど……。それを口にするとお父さんがやたら凹むわ、お母さんは泣くし、ならなんでお前は働かないのかと責められるので、今まで声を大にして主張することはなかった。
そりゃそうだよ。あたしにも比較的優しく、よくできた弟は高校生の身でありながら進学を一切望まず、就職活動に精を出しているのだもの。
空気を慎重に読むことに長けたあたしは、そんなことはもう言わない。両親と姉に泣かれた時に、二度と口にしないと誓ったのだ。
「おはよう。更衣室はこっちだ。付いてきて」
「はい」
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「ここが今日から女子更衣室。ロッカーはどれでも適当に使ってね。それで今日はこれを着てもらいたい」
結構な広さの厨房を抜けた先の一部屋。建物としたらたぶん民家の部分に入り込んでいるんだろうけど、スチール製のロッカーが幾つも並んでいる。
「私が昔使ってツナギ。ペンキとか鉄錆びとか付着してて申し訳ないんだけど、洗濯しても落ちないんだよ」
「あの、これ、どうやって着るんですか?」
「まずファスナーを二つとも降ろして、ズボンの要領で足を突っ込むでしょ。あぁ、シャツは着たままでいいよ。それで袖を通したらファスナーを一つ摘まんで引き上げる。男だったら下のファスナーの上げ下げでトイレが楽なんだけど、女の子の場合はちょっと大変かもね。まあ今日だけだから我慢してほしい。着替え終わったら、ロッカーのカギを締めてね。あとこれが女子更衣室の鍵。これも締めて、鍵は佐藤さんが持っておいて。財布やスマホ等の貴重品はロッカーに入れておいてね。出先で紛失するとまず見つからないからさ」
今日から女子更衣室。あたしのために一部屋潰して更衣室にしてくれたってこと?
ツナギって初めて着るけど、なんか面白い。トイレの時はやっぱり全部脱がないとダメよね。ん~。
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「着替え終わりました!」
「うん、意外に似合うじゃないか」
「お姉さんが新しく入った人? おいらは
着替え終わり、厨房を通り抜けて店舗部分へとあたしは戻って来た。
そこには初めて会う、筋肉質な男の子が店長と何やら話しているようだったが、あたしが来たことでこちらに顔を向けた。
「ご兄弟なんですか?」
「いや、そう言えば名乗ってなかったね。これは失敬。私は……俺は
「あっ、なるほど。似てない兄弟だなぁって思いました!」
「そら似てないさ。レオはうちの従業員一号で、こんなガチムチマッチョだけどドイツ系日本人の二世。所謂ドイツ人の母親と日本人の父親のハーフだ。歳はええと十八だったか?」
「ちげえよ! 二十歳だって何度言わせんだよ。現役大学生だっつの! マジで好い加減覚えろよ。どんだけ付き合いが長いと思ってんだよ」
うわぁ、ハーフの子とお話しするのなんて初めての経験だわ。
しかもあたしの同い年の、現役大学生。地味な日本人女子のあたしとの、この差よ。悲しくなってくるわ。
「で、こんな格好させてるってことは仕入れに連れて行くんだろ? おいらも準備してくる」
「俺は戸締りを確認するから、佐藤さんも一緒に案内を頼む。佐藤さん、スニーカーを持って行ってね」
橘くんに案内されるまま、あたしは付いていく。
先程着替えた女子更衣室を手前を通り抜け、完全に民家のリビングらしき場所にでた。
「リビングとダイニングの際に地下室の入り口があるんだ。これ、仕組みがややこしくてさ。あとで登録してもらうといいよ」
「あの、あたしは佐藤伊織といいます。歳は二十歳です、よろしくお願いします」
「あ、ああ、こちらこそ。おいら下で準備するからここで少し待ってて」
電子音に続き大きな機械が動くような音が聴こえる。大方、橘くんが何かの操作をしたのだろう。地下室があるという話だったし。
橘くんが姿を消してから少しして、店長がリビングルームに現れた。
「佐藤さん、お待たせ。じゃ、行こうか」
「地下室があるお家ってすごいですね」
「まあ色々とね。事情はこれから佐藤さんにも共有するけど、覚悟は宜しいかな?」
「はい、よろしくお願いします!」
覚悟と問われてあたしは何のことだかさっぱりだけど、それでもお店を辞めることはできない。あたしが家族へと向けるちっぽけな意地のためにも。
だから、はっきりと大きな声で応えたつもりだ。
「やはり君は良いね」
「あ、ありがとうございます」
「レオ、初心者キット持ったか?」
「持ったてば、だから早く開けてくれよ」
地下に降りて店長が開けた扉の先は、本当に真っ暗闇で橘くんの声は聞こえてもどこにいるのか見当も付かない。あたしはすぐ傍にいる店長の背中が闇の中でも薄っすらと視えているため、躓いたり転んだりすることなくいられた。
「では早速、あすかろんアーミル支店へご案内申し上げます」
店長は低い声で丁寧に言った。
途端、真っ暗闇を晴らすかのような強い光によって、大きな背中が克明に浮かび上がった。あたしは目が眩みそうになって、慌てて店長の背中にしがみ付いた。背後から抱き付くように、顔を押し付けてしまった。
店長は橘くんよりも背が高い。一見すると細身に見えるのだけど、意外にも筋肉質でゴツゴツとした背中は十二分に逞しいものだった。
あっいけない、リップクリームが新居さんの背中についちゃった!
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「い~やっほぅ! 先行ってるぜ?」
「レオは鎧戸を開けておけ。佐藤さん、大丈夫かい? 初めはびっくりするだろうけど、俺もレオも傍にいるから安心するといい。さぁ、行こう」
振り向いた店長は左の掌を上に向けて、にっこりと微笑んだ。
ほんとこの人は笑顔が良く似合う。あたしそう思いつつも、右手を店長の掌に重ねたのだった。
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