第3話

手を念入りに洗った。


ペニーロイヤルミントの毒性がそこまで強いとは思っていない。ただ、わけのわからないところで遭難したような状況だ。体調不良などを引き起こすわけにはいかなかった。


砂場に軽く穴を開け、そこに砂利を敷き詰めて水を誘導するための筋道を作って小さな水溜めを作る。水がたまると採取したクルミの半分を殻のままそこに浸す。2〜3時間もすれば殻がやわらかくなるだろう。後は焚き火で乾煎して、殻に隙間ができたらアーミーナイフのマイナスドライバーでこじ開ければいい。


それを待つ間に頭の中を整理することにした。


ここが日本であるかどうかや、なぜこの場にいるのかはまだ考える必要はない。


それよりも、ここにとどまるべきか移動すべきかを決める必要があった。


安全を考えると、ここにとどまるのは悪手かもしれない。ただ、無闇に移動して山中で獣に襲われる可能性を考慮すると、地の利が少しでもあった方が対抗策はあるはずだ。


しかし、移動しなければいつまでもサバイバルを続けることになる。


チラッと周囲に視線をはわす。


スマートウォッチはGPSを搭載しているが、単体では現在地を知ることができない。何気に受信感度を確認する。


GPSやCellularが受信していれば表示されるはずの信号強度は0だった。


Cellularとはモバイル通信のことだ。山中ならつながらないこともあるだろう。しかし、今どきGPSがつながらない場所などあろうはずがない。


嫌な予感がしたが、とりあえずはこれからどうするかだ。


この場にいること自体が既に非現実的なことである。今更慌てても何も変わらないだろう。それよりも生き延びるために行動を起こすことが最優先だ。そしてどこか人の住んでいる地域を探し出し、助けを求めるか当面の生活拠点とする必要があった。


この時点で俺は甘い考えを捨てていた。


日本だから誰かが助けてくれる。


自分は死なない。


既に日本かどうかすらわからない。それに、人は簡単に死ぬ。


それを黙って享受するかは本人しだいである。


状況は異なるが、震災にあって街が崩壊したり、他国から侵略されて命の危険に合うことは現実的にありえる時代だ。


俺はその流れに身を任せて理不尽に命を散らすのを受け入れる気はなかった。


無力なら無力なりに知識という武器を持ち、非常時に発揮できる実践力を持たなければならない。


幸か不幸か今のところはその生き方があったからこそ、この状況で焦らずに考えることができていた。


服が乾いたのを確認して、立ち上がろうとしたところで何かの視線に気がついた。


人とは違う何か。


ある程度の予想はしていたが、いきなり厄介な相手に見つかったものだと思った。


猪なら何も起こらずに終わるかもしれない。猪は警戒心が強く臆病だといわれている。何らかの理由で興奮状態にあるか、至近距離でいきなり出くわした場合以外はあまり襲われる心配はない。


しかし、熊の場合はいきなり食料と見なして襲ってくる可能性があった。熊が人を襲うのは戯れるか、いきなり出くわした相手に敵意を感じるか、食べるためかの3パターンだといわれている。それでも2〜3歳くらいの精神的に未成熟な若い熊か、子を連れた母熊以外はあまり人を襲うことはないらしい。4歳以上の熊は単独で人を襲う可能性が低いことが統計としても出ている。


確率の問題だ。


猪か熊か。


熊だったら人を襲う低確率を引いて、不運に見舞われないことを祈った。


視線を感じた方に首を動かす。


恐怖からか首の動きがぎこちなかった。


「··················。」


んん?


ヤバいものを見た。


距離感から考えると3メートル近い巨体、それに茶色い毛。


ゆったりと動きながらこちらを見ている。


なぜここにヒグマがいる?


本州には生息していないはずだ。それに獣道の幅も、もっと小柄な生物が通った跡しかなかった。


いや、そんなことよりもどうするかだ。


距離は70〜80メートル。


焦らないようにゆっくりと深呼吸した。


膝が震えそうになるが、何とか立ち上がって大きく手を振った。


熊はこちらを人だと認識すると基本的に立ち去るという。急激な動きは敵だと認識させる可能性があるため、可能な限りゆったりと大きな動作で両手を振り続けた。


それでも向かって来る場合は捕食される可能性が高いらしい。


ヒグマは巨体だが、その動きは速い。突進されたら逃げるのは無理だろう。これまでに計測されたヒグマの走るスピードは、最高で時速48キロメートルだと聞く。


本気で襲われたら回避は不可能だ。


ちらっと焚き火に入れていた木を見る。


あれで抗戦してどれくらいもつだろうか。炭化した先端は300℃以上になるが、より興奮状態にさせるだけかもしれない。



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