3-7
歓楽街に面す通りに、そのビルはあった。闇とネオンの輝きの境そのものであるように、ビル街へ紛れている。壁面の広告投影さえなく、埋もれていた。
だが見るものが見れば、違う。一見は影に塗り潰されようと、その実辺りのどのビルよりも高くそびえ立つ。入り口に守衛の立つその場所は、ギャングの根城に違いなかった。
下調べの手間も、潜入の時間も惜しい。私は防水コートを脱ぎ捨て、正面玄関へ近づいた。
「止まれ」
警告を無視した数秒後、守衛が発砲する。弾丸は正面から私のフレームの胸を捕らえ、その塗料片さえ貫けず弾かれた。このフレームは、比重で言えばプラスチックより軽く、しかし硬度においてタングステンをも凌ぐ。博士が研究の末生み出した特殊素材、この世に一つだけの、私のための身体だ。
その艶やかな爪の一刺しで、守衛の心臓を貫く。さらにそれを投げ捨て、もう一人の首の根を捕らえた。
「VIPルームはどこだ」
守衛は首を横に振った。その首筋を、爪で横に引き裂く。
元より期待などしていない。問題はない、ヘリも飛ばせない天候、ビルは閉鎖空間だ。敵の来る方へ向かっていけば、いずれ標的に辿り着く。
中では警報が鳴り響き、人やアンドロイドが続々と廊下へ現れる。群れというよりは、寧ろ壁に近い、その全てから銃口が向けられ、警告なしに放たれる。私にはそれが見えた。実弾、レーザー、あらゆる弾道がプログラム上に映像処理され、視界に射線軌道が映る。その悉くを、床を跳び天井を縫って避けた。
そして懐に飛び込み、視界に入った全てに身体を叩きつける。爪、上下腕、肘、膝、肩、私のどんな部位でさえも、鋭く研がれた刃だ。一挙手一投足の度、肉が裂け鉄が飛沫く。
一瞬の後、立つ者は私以外無かった。血と油だけまき散らされる、これでどこをどう通ったのかわかりやすい。同じことを、一つずつ上の階へ繰り返せばいい。
実のところ――――極めて個人的な意見を述べるなら――――この殺し方は好きだ。派手で目立つ、殺し屋の殺し方ではない。だが殺せば殺すほど、標的に、完成に近づくのが視覚的に理解できる。それは実にわかりやすい、生の実感だった。
だが何故、なのか。いや、ならば、なのか。
これほどの夜に、これほどの怒りを抱くのは。
弱すぎる。素人同然を数だけ揃える、そんな意志が透けて見えた。殺し屋を、この私を舐めているのか。この護衛の先にいる標的が、最後の三百人目だと言うのか。
私は殺すために生まれた。ならば殺しは、私のものだ。
「ふざけるな」
声が漏れる、だが聞く者はいない。手の中の死体は潰れ、立ち上がる者もいない。新しく来る者もいなかった。
気づけば最上階にいた。奢侈そのものの装飾を見れば、VIPフロアなのは明らかだ。その一番に派手な扉へ爪を叩きつけ、蝶番を破壊する。
部屋の奥には、ベッドがあった。そこで身を起こした男が、標的に違いない。
だがその隣で、もう一人が立ち上がった。
セクサロイドだ。それも一目で、簡素な安物とわかる。シリコンの肌は不自然なほどに白く、二本の脚は指先まで細い一方で、関節は剥き出しのままだ。その顔は人間を模しているが、プレス加工された黄金比と、無性タイプ特有の冷やかさに、仮面染みていた。何よりその全てを、無表情が塗り潰す。
標的の男は肩を竦め、裏口から出て行く。そしてセクサロイドは、私の前に立った。
「
「『元』だ」
何の武器も持っていない、戦闘用ですらないセクサロイドが、護衛だと言うのか。どこまで愚弄すれば気が済むのか。
それでも護衛は護衛だ、ブラスターを突き付ける。有象無象は好きに殺せばいい、だが護衛には一発、標的にも一発。それが博士の、私のルールだ。銃口からほんの数センチに、眉間がある。
セクサロイドは動かない。
「もう一度言ってやる。
「
引き金を引いた。呆気なく軽い反動と同時に、決定的な銃声が響く。眉間に一点の風穴を散らし、セクサロイドは絨毯を転がった。
後は標的だ。不可解で不愉快な依頼も、それで終わる。セクサロイドを踏み越え、私は――――足首を掴まれた。
セクサロイドはそのまま、ゆっくりと立ち上がってくる。
死んでいない。外した? 私が。
そんなはずはない。セクサロイドを見ればそれは明らかだった。銃痕は確かに眉間へ刻まれ、正確に正面から着弾し、貫通している。部屋の裏口が、風穴の奥に見えた。
その隙間から、セクサロイドの電子回路も見える。廉価型特有の、ドブネズミのように小さく、不安定に据え付けられたCPU。それががらんどう同然の頭蓋に、無傷で張り付いていた。
外したのではない。このセクサロイドの電子回路があまりに小さすぎ、かつ据え付けが甘く、あるべき位置になかった。
このブラスターは、ダイヤモンドさえ貫く。だが高い貫通力故に、着弾点以外への破壊力は乏しい――――らしい。
「馬鹿な」
あり得ない。偶然だ。私は悪くない。安物のセクサロイドの構造データなど、持っている筈がない。
弾丸は残り二発、このセクサロイドは標的ですらない。一発は護衛に、一発は標的に、残り一発は……。
「退かない」
セクサロイドが低く呟く。
私は思考プロセッサの一部を、強制停止した。私の使命は考えることではない、殺すことだ。殺してから考えればいい。
射撃管制をマニュアルに、照準を剥き出しの電子回路へ合わせる。気温、湿度、部屋の空気対流さえも計算に入れ、マイクロミリ単位の偏差を修正する。片手でセクサロイドの頭を掴み、ブラスターの目前に固定した。
引き金を引く。電子回路の中央を、狂いなく銃弾は貫いた。手を離せば、セクサロイドが崩れ落ちる。
時間をかけすぎた。標的を見失った恐れがある、速やかに裏口へ進む。
だが扉に触れた手が、ふと止まった。本当に死んだのか、まだ確かめてはいない。
確かめるまでもない。絨毯はオイルに濡れ、千切れた電線は触れては離れ、火花を散らす。だがシリコンを燃やすには至らず、燻ぶるだけだ。人間が
その中で、音がした。意志を持った音ではない。逆流した電子パルスを拾い、スピーカーが振動しているに過ぎない、ノイズ。断ち切るように震えては、途切れ、しかし影のようにまた起き上がり、声となる。それが私の肩を掴む。
振り向けば、奴がいた。
「退かない」
唇の三分の一だけを動かして、セクサロイドはそう言った。瞼の片方は半開きに動かず、足は自重で内側に曲がり、震えている。それでも立っている。
額を見る。電子回路は確かに弾丸に貫かれていた。中央に穴、裂けたコンデンサーから電解液が漏れ、張り付いた欠片を焼く。
だが、欠片が残っていた。このセクサロイドの、あまりに単純で空虚な機構には、欠片ほどの回路でも足りると言うのか。
爪で引き裂くのは容易い。しかし私には、ブラスターがある。弾は残り一発。一発は標的に、一発は護衛に、残りの一発は――――
『三発目は撃つな』
既に銃口は、私のこめかみにあった。
だが引けない。
ナンセンスだ。ただの偶然だ。このセクサロイドは何もしていない、何も持っていない。それだけの流された環境の一点だけで、理不尽にもここに生きている。
私は違う、殺してきた。二百九十九人、常に最善を尽くしてきた。『完全』に最も近い存在のはずだ、それがなぜ今、ここで死なねばならないのか。
そうだ。奴と私は違う。このセクサロイドは使い捨ての駒だ。誰にも省みられることはなく、死ぬためだけに雇われた。だが私が死ねば、博士も死ぬ。私は死ねない。
気づけば銃口は、私ではなくセクサロイドへ向いていた。
違う、それも違う。
既に私は『完全』ではない、ならばセクサロイドを殺すことにも、私自身にも、何の意味もない。そんな身体に博士を移せば、失望させるだけだ。決して笑ってはくれない。
撃つべきは私だ。セクサロイドではなく――――
奴と目が合う。その眉間の銃痕が、嫌でも視界に入った。銃弾が二重に別の角度から貫き、歪に捻じれた穴。
醜い。
醜くはなりたくない――――死んでも。
ブラスターの弾丸が、セクサロイドを貫いた。
違う。私ではない。
引き金を引くつもりはなかった。
ただ引き金が、軽すぎただけだ。私は悪くない。
倒れたセクサロイドに駆け寄り、首を掴んで立たせる。だがそこには何の力もなく、手を離せば崩れ落ちる。
今度こそ、立つことはなかった。
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