第2話

「いってらっしゃい。今日も、楽しんでおいで!」


今朝も、母さんの元気な声を背に受けて、守流まもるは家を出た。


登校する守流と小学三年の妹を、母さんは毎朝玄関先でそう送り出す。

守流が覚えている限り、母さんは守流が幼稚園のバスに乗り込む頃からずっと、送り出す時には必ずそう言っていた。



学校が大嫌いというわけではない。

でも、毎日登校するのが楽しみというほど、学校が好きなわけでもない。


『別に楽しいことなんて、毎日はないよ』

ずっと前に一度そう言ってみたが、母さんはふ~んと答えて笑っただけで、送り出す時の言葉を変えない。

小学校低学年の時に、担任の先生が苦手で学校に行くのを渋っていた時期も、嫌々ながらに家を出る守流に、同じようにそう声を掛けていた。


あれはただの、母さんのルーティンなのかもしれないと、守流は思う。

特に大した意味はないが、『いってらっしゃい』と『楽しんでおいで』は、きっと母さんにとってセットになっている言葉なのだ。




普段通りに通学路を歩いていた守流は、橋の部分の手前で足を止めた。

ガードレールにゆっくり近付いて、そっと下を覗く。

下には誰もいなかった。


最近雨が降っていないからか、水は少なくて透明に見えるが、コンクリートの生活道路の縁には、川から拾い上げられたゴミが置かれてあった跡が黒く残っている。

昨日あそこでゴミ拾いが行われていたのは、どうやら夢ではないらしい。



昨日、少年の頭の皿にヒビが入ってないか確認してから、彼が麦わら帽子を被り直している間に、守流はもう一度だけ「ごめん」と言い捨ててその場を後にした。

頭に皿を乗せてゴミ拾いしているなんて、絶対おかしな奴だと思ったからだ。


「……まあ、どうでもいいや」


守流は投げやりに呟いて、再び学校に向けて歩き出した。





ところが、もう関わり合いにはならないと思っていたのに、その日の下校中、橋の下から大きな声で呼び止められて、守流は飛び上がりそうになった。


「おーい! マモルーっ!」

「えっ!? な、なんで僕の名前を…?」


橋の上から覗けば、少年は昨日と変わらない格好でゴミ拾いをしている。


「マモルー! マモルー!」

「ちょ、ちょっと、人の名前をそんなに大声で連呼しないでよ!」


守流は慌ててガードレールの端から、下の生活道に滑り降りた。

少年は嬉しそうに細い目を更に細くする。


「なんで僕の名前を知ってるの?」

「だって、書いてあるもん」


いぶかしげに尋ねた守流の水筒を指差し、少年は言った。


肩から斜めに掛けてある水筒には、確かに『門脇 守流』と漢字で書いてあった。

でも、昨日のあの短い時間で、しかもこんなに小さな字を目敏めざとく見つけていたのだとしたら、物凄く視力がいい。

いや、良すぎだろう。



「ねえ、“学校”楽しかった?」

「え?……え、なんで?」

「だって、今日は“学校”ってとこに行く日でしょ?」

「そうだけど……」


何故か分からないけれど、目を輝かせて答えを待つ少年を見て、答えに詰まってしまった。


「そういう君は? 学校終わってここに来てるの?」


少年は守流より少し年下に見える。

小学校の高学年というところだろう。

小学生は、中学生よりは帰宅時間は早いけれど、帰宅部の守流は、高学年の小学生と大して変わらない時間に下校しているはずだった。


しかし、守流の質問に、少年はキョトンとして返す。


「河童に学校ないもん」

「かっ……、河童って……」


守流はゴクリとのどを鳴らす。


「君って、河童、なの?」

「そうだよ。昨日皿を見せてあげたでしょ。もう一回見せようか?」


言って麦わら帽子を取ろうとするので、守流は慌てた。 

こんな変なやつ、別に深く関わりたくないのだ。



「おーい、キハチ、休憩せんかー」

「あ、町田のじいちゃん」


道路端の家から、ペットボトルの飲み物を持った男の人が出て来た。

前の町内会長の町田さんだ。

竹細工が趣味で、近所の子供を見つけては、手作りの竹とんぼやらやじろべえを配る、この辺りでは有名な爺さんだ。

守流も幼い頃母と散歩をしていて、遭遇した町田さんから貰ったことがある。



少年の意識が守流から逸れたので、守流は町田さんにペコリと頭を下げて、さっさときびすを返した。


「あ! マモルー! また明日なー!」


後ろから大きな声でそう言われたが、守流は無視して家に向かった。



河童になりきってるなんて、あれはぜったい変な奴だ。

関わらない方がいい。

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