フォーチュンイクエーション
ねえ、「弱い」の反対って、何だと思う? 私はずっと「強い」だと思っていたの。でも、そもそも「弱い」とか「強い」ってどういうことか、少しわからなくなってしまって。
私は、私が望む強い女になれているのかしら。
私の母、藤咲花華は、弱い女だ。男に依存して、自立することもできず、支配されることに喜びを感じる、か弱い存在。前の父から私ともども暴力をふるわれていた時も、めそめそと泣くばかりで私を助けてくれることなんてなかった。
「ごめんね、美花ちゃん、弱いママでごめんね」
それどころか、父親の機嫌を損ねないよう、父親が見ていないところで私に縋るように謝ってくるのだ。助けることはできないけれど、私に嫌われることすら、良しとしない。弱い癖になんて我が儘だろう。
しかし、幼い私は、謝られるたびに母の涙を拭って
「大丈夫だよ」
と笑いかけた。そうすると母は漸く涙が止まるのだった。その姿を見て、
「弱い母を私が守ってあげないと」
と思い、何度も母に手を上げる父の前に立ちふさがった。そしてその度、父から酷く打たれて蹴られて、ボロボロになりながら、
「強くなりたい」
と願ったものだ。
結局、母の大学の同級生に助けてもらい、無事両親は離婚した。彼、東風薫は頭が良いけれど、少し変わった男だった。どこか皮肉めいているというか、飄々としているというか。母とは付き合ったことはないらしいが、本人曰わくとっても親密な関係らしい。閑話休題。
そんな彼が心身ともに尽力してくれたおかげで、母と私は五体満足であの暴力男と離れることができたのだった。母は何度も東風にお礼を言って、東風は母にお礼を言われるのを嬉しそうにしていた。その姿を見て、
「ああ、この人は母さんのことが好きなんだな」
と子供の私でもわかるくらいだった。そして心の中で、この人なら母を、母と私を幸せにしてくれるのではないかと期待して。
暫くすると、母から
「新しいお父さんよ」
とニコニコしながら、見たことない男を紹介された。てっきり東風と再婚するのかと思っていた私は、口にはしなかったが、母のことを少し軽蔑した。
だって、明らかに母のことを好きな東風を利用するだけして、別の男と結婚したいと言ってきたのだ。東風の気持ちに気が付いていないのならあまりに鈍感だし、わかっている上で気が付かない振りをしているならあまりに性質が悪い。
新しい父候補の男は、母よりも年下で、どこか潔癖なイメージを抱く男だった。
初めて会ったとき、
「突然で驚いたかな、美花ちゃん。でも怖がらないでほしい、僕は前のお父さんみたいに花華さんや、君に絶対暴力をふるわないから」
なんて、微笑みながら言われたが、「胡散臭い」とどこかこの男を拒絶する自分がいた。けれど、母の嬉しそうな顔を歪めたくない一心で、
「うれしい」
と無理矢理に笑顔を作って、新しい父親を受け入れた。
二番目の父親は宣言通り、私にも母にも一切暴力をふるわなかった。それどころか、本当に母のことが大好きなようで、いつでもどこでも「花華さん、花華さん」と母にすり寄っていた。
私が中学生になってから東風に教えてもらったが、元々母の大学時代の後輩だった彼は、当時から母にベタ惚れだったらしい。そんな自分のマドンナが暴力を受けていることが許せず、東風にも尽力するよう頼んで、最後に自分が母をかっさらう算段だったようだ。
「もう俺なんて骨折り損のくたびれもうけってやつだよ」
と、芝居がかった口調で言う東風に、
「やっぱり、東風さんも母さんのこと好きだったの?」
と問い掛ければ、
「勝手に過去形にしないでくれる?」
と茶化すように返された。
二番目の父は母のことを過去も、そして現在も好きだった。だからこそ、彼にとって私は、大好きな花華さんと、そんな花華さんを苦しめたクソ野郎の血が混じった、愛憎をミックスした存在だったのだろう。その結果、彼は私に対して、母がいる前では普通に振る舞うが、母がいない所では私の存在を、一切ないものとして扱った。
初めは本当にショックだった。まだ小学生だった私は、そんな理不尽を受け入れられる程成熟もしていないし、かと言って対抗する術も持たず、ただただ傷ついた。母に言っても、母の前では普通な所為で信じてもらえなかった。
私は、「泣いてしまったら負けだ」と何度無視されても、笑いながら父に話し掛けた。けれど、一度として返事はなかった。そのうち、
「そっちがその気ならこっちだって」
と、今度は徹底的に父を無視した。二人の時はお互いに無視し合うので何も起こらないが、向こうは母がいる時は普通に父親として接してくるのだ。幼い私は、その二面性を殊更「卑怯だ」と思い、彼を蔑んだ。そして、母がいようがいまいが彼を無視し続けてやろうと思い実践した。それに異を唱えたのは母だった。
「美花ちゃん、新しいお父さんとギクシャクしちゃうのはわかるわ。でもまるっきり無視をしては彼も傷付いてしまうの、わかるでしょう?」
この台詞を聞いた私は、ギリリと音が鳴るくらい奥歯を噛み締めた。
わかるわ、母さん。だって先にそんな酷いことをされたのは、私だったのよ。
そんな心の声は漏れることはなかった。泣きながら訴えてきた母をこれ以上泣かせたくなかったのと、この人に何を言っても助けてくれることはないと、思い出したからだ。
それから私は父と同じように振る舞った。母の前だけ、娘として接するように。私たち家族は、三人揃うと平凡に幸せな家族に見えた筈だ。
けれど、元々あった「強くなりたい、強い女になりたい」という気持ちが病的に加速したと思う。
そして、自己暗示をかけるように「強くなりたい」と毎日言い聞かせたら、心身ともに同年代の同性とは比べようがないくらい「強い女」になれた気がしていた。
皮肉なことに、幼少から痛めつけられていた身体は回復する度、頑丈になっていき、常に自分の存在を認めない人間がいる状況は心を硬く丈夫にしていった。私を肉体的に、精神的に追い詰めた男達のおかげで、私は強くなれたのだ。
満足だった。しかし、強くなればなるほど、弱い母のことが嫌いになっていった。さらに、母のように「弱い女」として振る舞う女性も嫌うようになっていた。
中学でも、高校でも、会社でも。勿論、家でも。一切弱音は吐かなかった。弱音を吐く暇があるなら、問題解決の方法を考えて、実践して、駄目ならまた考えた。
「助けて」
という言葉を使うのは恥だとまで思っていた。自己解決能力のない弱い女を、母を、心から軽蔑するようになっていたのだ。その結果、
「女の癖に生意気だ」
と学生時代は同級生の男子に疎まれたり、会社では上司に煙たがられたり、
「君は強いから」
と恋人から振られることも多かったが、私にとってそれは悲しいことではなく、寧ろ誇らしいことだった。私が強いから、皆恐れているのね。私は恐れられる程、強い存在なのね、と。
そうやって、自分ひとりで戦い続けた私に待っていたのは、孤独だった。
「藤咲主任のやり方は独り善がりなんです、私たちついていけません」
そう会社のプロジェクトチームの女の子に言われ、なるべく冷静に
「どうしてそう思うの?」
と聞けば、彼女はうるうると目に涙の膜をはりながら、
「皆が皆、藤咲主任みたいに強いわけじゃないんです!」
と、自分の案を却下した時の、私の言い方が酷すぎると訴えられた。彼女の後ろには、「頑張って」と言わんばかりの後輩が立ち並び、全員、彼女に同意だという顔でこちらを見詰めていた。
これが一昨日の出来事だった。そして、彼女らを馬鹿馬鹿しいと一蹴した私が、そのプロジェクトから外されたのが昨日で、あまりの怒りに有給を消化したのが本日。
納得できるわけがない。今まで、弱音を吐くことなく会社に身を捧げてきた私と、「私にはできません」とたびたび途中で仕事を投げ出したり、諦めたりしてきたあの子達を天秤にかけて、あの子達が守られるなんて。
怒りに任せて会社を休んだものの、やりたいこともなければ、愚痴に付き合ってくれる友達もいない。急激な虚しさに襲われ、当てもなく外を歩いていた。家にいると、惨めな気持ちに押し潰されそうだった。
「あれ、美花ちゃん? どうしたの、そんな死にそうな顔でフラフラしてさ。また振られちゃったの?」
声を掛けてきたのは、母の友人以上恋人未満の東風薫だった。気付けば彼の暮らす隣街まで来ていたようだ。彼に誘われるまま、早い時間から近所の居酒屋に向かった。酒はそんなに強くないけど、やけ酒も悪くないかと思ったのだ。
飲み始めはいつも通り、愚痴など吐いてたまるかと、外を彷徨い歩いていた理由を聞かれても、のらりくらりと躱していた。しかし、酔いが進むにつれ、言いようのない虚しさと怒りを堪えきれなくなってしまった。そして漏らしてしまったのだ。
「私は、強い女になれているのかしら」
と。
一度噴出した怒りは、酒の所為で止まらなくなった。会社での出来事、今までの母や父達との出来事。「弱い」存在への嫌悪感、「強い」存在への憧憬。東風は黙ってそれを聞いていた。そして殆どを吐きだし終え、呂律も怪しくなり始めた私に言ったのだ。
「母さん、あんたも義父も大好きな花華さんはね、弱い人なの。弱くて狡い人なのよ」
「俺、君の母さん、藤崎花華のこと、狡い女と思っても、弱い女だと思ったことはないよ。あいつほど、強い女は見たことないね」
私は耳を疑った。母が強い? そんなわけがあるか。子供の陰に隠れて泣いていた女が。私が拭ってあげないと涙も止められない女が。
「母が強い? 反対でしょ、あの人は弱い人よ、だから私はあの人みたいにならないように強くなりたいの」
「お子様だなあ、美花ちゃんは。可哀想に、花華の所為で、身体だけ成長して中身は子供のままにされちまったんだなあ」
しみじみと、心底哀れむような声色でそう言われ、反射的に不満な声が漏れた。
「どういう意味?」
そのまま不満を隠さずに問えば、悪戯を思い付いた子供のような顔で、
「弱いの反対はね、『いわよ』だよ」
と笑った。益々意味がわからない。わかるのは、この男が嫌に機嫌が良いということと、その機嫌が良くなるのに反比例して自分が苛立っているということだけだ。
「『てぶくろ』の反対は? ろくぶてーってね。だから『弱い』の反対は『いわよ』」
「はあ?」
「ああ、『弱くない』も『弱い』の反対だね」
「何を言ってるの?」
私が言ったのは、母が強い女とはどういうことかということだ。「弱い」の反対が何、なんて問題にしていないし、仮に「弱い」の反対が「いわよ」や「弱くない」だとして、それが何なの。「強い」だって、間違いなく「弱い」の反対でしょう。
「そう、君の言うとおり、『強い』は確かに『弱い』の反対だ。でもそれだけじゃない。僕が言った『いわよ』も『弱くない』も『弱い』の反対の言葉だろ。そもそも『強い』も『弱い』も色んな意味合いで使われるしね。あまりに君の考えは単純で、その考えに固執し過ぎなんだよ。『弱い』存在になりたくない、だから『強い』存在になりたい。大人になるにつれて、それはそんな簡単な、1足す1は2になる、みたいなものではなくなるんだ。じゃんけんでさ、すべてのものに勝てる手がないみたいに、すべてのものに『強い』存在なんてありはしない。
君の母さんが、力が弱くても、頭まで弱い女じゃないのはわかってるだろ? でないと俺や今の親父さんを使って、暴力夫から逃げ切ることなんてできなかったはずだ。
君にとって大切なことは、なぜ『弱い』存在になりたくないのかということだよ。そのことを、きちんと見詰めるべきだ」
「それは」
先ほどまでのふざけた様子はなりを潜め、真剣な眼差しで吐き足された口上に思わず言い澱んだ。そんな私に構うことなく、彼は続ける。私の聞きたくない話を、高説を垂れられる。
「考えたくないなら無理矢理答えを教えてあげよう。君は『弱い』母に幸せになってもらいたくないんだ、いや彼女が強い女で、一人でも幸せになれると困るんだ。そうでないと、自分が苦しみ抜いて母を守ってあげたことが無駄になるから」
「やめて」
「やめない。幼い君が抱いた方程式はこうだ。弱い母は幸せではない、ならば、強くなれば幸せになれる、だったんだろう。子供の考える、単純な理想だ。君はその理想にしがみついて生きてきたんだろ、そうするしか幸せになれないと思って。でもいい加減、よく目を凝らして見てごらんよ。君の言う、弱い女の藤咲花華は、本当に幸せじゃないのか」
鈍器で殴打され続けたように、頭がくらくらする程痛い。ぎゅっと目を瞑って、痛みに耐えようとした。母が弱くないということより、母が幸せだということが受け入れられない。いや、違う。母が、私がいなくても幸せだったということが受け入れられないのだ。
酔いが回っているのか、段々周りの喧騒も、東風の声も聞こえなくなり、意識が遠退いていった。
目の前が真っ暗になって、夢を見ているような感覚だった。そこにはうずくまって泣いている子供がいた。その子供に近付けば、身体中傷だらけで、ぶつぶつと何か呟いている。
「強くなりたい、強くなりたい。弱いから、母さんは弱いから、私が守ってあげなくちゃ。私が強くなって、母さんを守ってあげなくちゃ。私が強くなって、母さんを守れるようになったら、母さんも、私も不幸じゃなくなるはずだ。幸せになれるはずだ」
ああ、この可哀想な子供は、私だ。藤咲美花だ。
「ごめんね、私」
そっと頭を撫でながら、子供に話し掛けた。
「そんなに、耐えて強くなろうと頑張ってくれたのに。私、結局、幸せじゃないみたいなの」
身体も、心も、痛みや苦しみを耐えれば強くなれると思った。でも強くなれたと思えば思うほど、益々幸せが逃げていくようだった。私が幸せから逃げているようだった。
私は、強くなりたいんじゃなくて、
「幸せに、なりたかったのよね」
「うん」
「幸せになる為には、強くなるしかないと思っていたのよね」
「うん」
「でも、幸せになれたら、別に強くなくたって良かったのよね」
「うん」
子供は漸く泣き止んで、私の言葉に力強く頷いた。
「ごめんね、私。大事なことをわかっていなかったみたい」
「いいよ、今から、幸せになってくれたら」
子供はにっこり笑って、消えてしまった。
目を覚ますと、居酒屋ではなく自分のではないベッドに横たわっていた。
「起きた? びっくりしたよ、突然寝ちまったから。とりあえず俺の部屋に連れてきたんだよ」
東風がベッドに座ったら、ぎしり、と軋んだ音がした。
「悪かった、ちょっと追い詰め過ぎた」
彼はそう言って私の頭を撫でた。私を見詰める彼の目は、いつも私に向けられるものではなかった。これは、私が憎くて憎くて堪らなかった、弱い女に向けられる目だ。
「ねえ、東風さん。私、幸せになりたい。あなたなら幸せになる方法、知っているんでしょう」
私を、助けて。
そう言った声も、自分のものとは思えない、か細い声だった。
「いいね、やっと俺の惚れた、藤咲花華みたいな強かな女の顔になったな」
横たわる身体を、壊れ物に触れるように優しく抱き締められた瞬間、私は弱い女になってしまった。
でも。自分が弱い女になることを許した私は、漸く母ではなく、自分の幸せの為に生きていける気がした。
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