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やることがない、というのは面倒なものだ。何かやらなくてはと焦るし、何にもない自分が愚かに思えてくる。
ずっと家にいたのでは何も前進しない。とにかく出かけようと靴を履いたものの、これといって行くあてもなく、向かうのはまろう堂だった。
「本を見せてもらう約束まだだし」
何を言われたわけでもないのに、言い訳がましくつぶやいてしまう。見せてもらうも何も、あれは商品なのだから、まろう堂の客なら誰でも遠慮なく見ることができるのだけど。
それでも沙代子は、天草さんに許可をもらったことが、客ではない、特別な存在と認められたような気がしてうれしかったのだ。
まろう堂の扉を開けると、天草さんがテーブルの上のティーカップを片付けているところだった。
広くない店内を見渡して、こちらに気づいて笑顔を見せる彼に声をかける。
「お客さん、誰もいないの?」
「今はね。ついさっき、全員帰られたよ。カウンター座る?」
「うん。本、見せてほしくて」
「そうだったね。本棚の前の席、どうぞ」
本棚の中がよく見えるカウンター席に着くと、天草さんはメニュー表を差し出してくれる。
「ご注文は何になさいますか?」
あらたまった接客をおかしく思いながら、おすすめメニューに目をとめる。先日、来店したときはなかったメニューだ。
「フレッシュカモミールがいただけるんですね。天草農園さんのカモミール?」
「そう。今の時期しかないから、おすすめだよ」
「じゃあ、それにします」
すぐさま決めると、ほほえましげに見つめてくる天草さんに、沙代子はほんの少しどきりとした。ちょっとよそ行きのスマイルを見せる彼は、絶対女性客に人気だろう。
「あっ、それと、レモンタルトください。デザートはどこのものを扱ってるの?」
動揺を隠すように、矢継ぎ早に尋ねる。
「デザートは全部、母の手作り。ずっと祖母が作ってたんだけど、今は母が」
「お母さんがお一人で? 大変だよね?」
「カフェでお出しする分しか作らないから。葵さんの方が母よりずっと美味しいケーキ作るんじゃないかな?」
「そんな謙遜しないで。ここのケーキ、すっごく美味しいから」
「ありがとう。でも俺は、葵さんのケーキを食べてみたいな」
「あ……、どうかな」
困って、あいまいに返事してしまった。社交辞令だってわかってるんだから、今はもうケーキを作ってないなんて白状する必要はないのに。
「ここに越してきたのは、近くで出店するって決めたから?」
沙代子の戸惑いに気づかない様子で、天草さんはそう尋ねてきた。
「……ううん。独立はあきらめたの」
隠してたって仕方ない。ぽつりとつぶやくと、彼は眉根を寄せる。
「どうして?」
「父が亡くなったから……」
それだけじゃないけれど、沙代子は口をつぐむ。一緒にパティスリーを開くつもりだった恋人と別れたからなんて言えるはずもない。
「だからって、あきらめなくてもいいと思うよ」
「協力してくれる人がいないと難しいから」
力なく言うと、天草さんは困り顔で黙り込んだ。
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