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 沙代子はまほろば書房をあとにすると、自宅へと向かった。


 早朝に家を出たのは、なるべく人に会わないようにするためだったが、帰ってくる頃にはゴミ出しに出てくるご近所さんの何人かと鉢合わせしてしまった。


 気を張って世間話する気力はなかったが、沙代子に興味津々のご婦人たちの心証を悪くしない程度には、明るいあいさつで詮索を回避した。ようやくひときわ目立つ洋館の丸窓が見えるところまでやってきたときだった。


「あれっ? 葵さん」


 後ろから声をかけられた。振り返ると、天草さんが手を振っている。


「天草さんっ、どうしたの?」

「葵さんこそ、朝早いね。ジョギング? いま、葵さんちへ行くところだったんだ」


 あきらかにジョギングするような身なりじゃない沙代子をからかって、彼は百貨店の紙袋を持ち上げてみせる。


「借りてた鍋、返そうと思って」

「あっ、わざわざ? またカフェに行ったときに返してもらえばいいって思ってたの」


 紙袋を両手で受け取って、中をのぞき込む。ビーフシチューを分けた赤い小鍋が入っている。


「おいしかったよ。葵さんって、パティシエなんだよね? 料理上手なパティシエだね」


 当てた俺の勘はすごいでしょ、と天草さんはほこらしげに笑う。


 そういえば、まろう堂の客として出会ったとき、パティシエなのかと尋ねられたんだった。


「よくわかったね」

「初めて来店した日、覚えてる? ハーブティーよりケーキを熱心に見てたんだ。何かメモってたし、二つも食べていったから」

「えっ! そうだっけ?」

「そうだよ」


 とぼける沙代子を見て、天草さんはにやにやしている。


 まろう堂のケーキは、ハーブティーに負けず劣らず、見た目も味も絶品だ。勉強のつもりでふたつ食べたことは認めるけれど、それをはっきり認識されてたと知るのは恥ずかしい。


「そ、それより、私がパティシエだって、父に聞いたの?」


 わざとらしく、沙代子は話をそらした。天草さんもいつまでもからかうような性格じゃないらしい。


「そろそろ独立を考えてるみたいだって聞いたよ」

「そんな話まで?」


 少々あきれてしまう。全部筒抜けみたい。


「城下町でも、古本屋の跡地でも、娘が気に入る場所ならどこにでも店を建ててやるつもりだって言ってた。愛されてるなぁーって羨ましく思ってたよ」

「古本屋の……跡地?」


 そんな風に父は独立を応援しようとしてくれていたのだと、むずがゆい気持ちになりながらも、引っかかりを覚えてそう尋ねた。


「うん、聞いてなかった?」

「全然。あっ、さっきね、まほろば書房に行ってきたの。お店が空っぽでびっくりしちゃった」

「本当に何も知らないんだね」


 今度は天草さんがあきれる番だ。日頃から仲の良い親子のように想像していたのかもしれない。困ったときだけ父を頼る娘だったなんて知られたら、ますますあきれられてしまうかもしれない。


「天草さんは何か知ってるの?」

「知ってるもなにも、まほろば書房を閉店したのは、まろう堂をオープンさせたからだよ」

「どういうこと? もっと詳しく教えて」

「話したよね。天草農園のカフェを城下町に移転させたって話。移転の話があるって聞きつけた銀一さんが、資金援助を申し出てくれたんだよ」


 沙代子の目が大きく見開く。さっきから驚いてばかりだ。


「資金援助って、唐突すぎない?」

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