宝珠山戦⑧:天敵

(今、私、何された……?)

 鈴音の問いは、何が起こったか理解しているからこそ出て来た疑問だ。鍔迫り合いが単なる時間稼ぎ策だと思っていたら、引き技で一本を取られた。流れるように見事で、精錬された、文句の付けようのない打突だった。

 一本を取られた事実と、相手の力量を計りかねていた事実をかみ砕くのに、自問するくらいの時間が必要だっただけだ。

(考えを改めて、切り替えよう。相手は、時間稼ぎをしにきているわけじゃない。私を倒しに来ている)

 切り替えるとは言ったが、鈴音の頭の中には「倒しに来ているのに、なぜ鍔迫り合いなのか?」という新しい疑問が沸き起こってしまう。言ってしまえば剣道――特に学生剣道に於いて、鍔迫り合いは重要じゃない。互いに正面から構えて打ち合う瞬間にこそ駆け引きが発生するとしても、鍔競り合いはそこに行きつくための過程でしかない。

 けれど目の前の剣士――朝は、まるで鍔迫り合いばかりを極めてきたかのような練度だった。一方で、最初に見せた打ち込みは並程度。あまり、技を磨いているとは言えない。

(そんなこと……ある?)

 何を思えば、鍔迫り合いを極めようと思うのか。もっと得点圏に近い、間合いの攻防を捨ててまで。その心が、鈴音には想像がつかない。

 彼女の読み自体は間違っていない。朝はまさしく鍔迫り合いにだけ特化した剣道を学び、磨き上げ、体得した異質な剣士だった。しかし、その理由は実に単純明快なものだった。

(撫子さんといい、八乙女穂波といい、構えさせたら手の付けられない剣士が多すぎる……ほんと、才能ってやつはヤになります)

 竹刀の握りを確かめながら、朝は開始線で鈴音に向き直る。

(才能のない私には、地位と富くらいしか残されてないというのに……だから、真正面から立ち向かうことはやめました。構えさせさえしなければ、撫子さんも、八乙女穂波も、須和黒江すらも怖くない……多少は)

 後ろ向きだからこそ見つけた活路がそこにはあった。児玉朝は、清水撫子という環境が生んだ、ひとつの突然変異だ。

 宝珠山の陣で、面を外して顔の汗をぬぐった撫子が、据えた視線で試合を見つめる。

「朝は、部長を除けば稽古で最も私と打ち合った相手です」

「私は他の部員たちのことも見ていたから、除かなくたって最も撫子の稽古についていったのが彼女だろう」

 入れ替わりに面をつけ終えた千菊が、はめたコテを握ったり開いたりしながら答える。

「正直、頼りなさげな印象だったが、よくついてきてくれたものだ。普段から向上心もそれほど感じられなかったというのに」

「だとしたら、それは部長の目が節穴だったということでしょう」

「言うじゃあないか」

「彼女は負けず嫌い……というよりは、自分を脅かすものが嫌いなんですよ。安寧を壊されるのが、何よりも――」

「二本目!」

 仕切り直しの直後、朝は再び不用意な打ち込みで鈴音の懐へと飛び込んだ。一度目は不用意に見えたこの打ち込みも、改めて見れば受け止められるけど打ち返せない、絶妙な「起点」として作用している。

 かといって、ぼーっとしていればメンを取られてしまう以上、鈴音は受け止めざるを得ない。だがしかし、鍔迫り合いに持ち込まれれば、また成すがままに食われてしまう。それを理解して、受け止めた直後に大きく後ろに下がる。試合場の縁ギリギリまで、朝に懐で組まれる前に全力で。

(おっと)

 流石の全力退避に、体当たるつもりだった朝はつんのめりそうになりながら踏みとどまる。

(一本で対策を取りますか……まあ、ですよね)

 離れて構え直した鈴音に、朝は大胆に間合いを詰める。場外際の攻防は鈴音の得意とするところだが、右へ左へ、立ち位置を振っていくにつれて、次第に四角いコートの隅へと追い込まれていってしまう。

(器用ですね……後ろにも目があるよう。ですが、これで捕まえました)

 機を見計らって朝が打ち込む。もう下がるところのない鈴音は、苦渋の判断で受け止めるしかない。体当たる朝を、全身で受け止めた。

 鍔競り合いに入ってすぐ、鈴音はくるりと身を翻してコートの隅から脱出した。朝も場外に逃がすつもりはさらさらなく、鈴音の望み通り試合場の中央へと戻って来る。

(組んでさえしまえば、どこで戦うかは重要ではありません。あとは毒が回るのを待つだけ)

 彼女が表現する〝毒〟とは、もちろん比喩である。しかし、鍔競り合いが長引けば長引くほど、対戦相手の意識を確かに蝕んでいく。

(なんだろう、この感覚……ずっと観察されているような)

 鈴音の脳裏で、どこかで似たような相手と戦ったことがあるような気がした。いいや、どこかで、ではない。つい昨日、死力を尽くして戦い、そして負けた相手――

(やっぱり、部長の縮地に似てる)

 もちろん、厳密に言えば全く違う。先ほどの一撃は、技の起こりも終わりも、全てしっかりと目で捉えていた。捉えていたのに、一歩も動くことができない。いわば、虚を突かれたような感覚。

(部長みたいに、呼吸を盗むわけじゃない。代わりに何を盗んでる……?)

 やはり、観察されているのだと思った。朝の瞳は――いや、そもそも〝見ている〟ものかどうかも分からないが、技が決まる機会を見計らっているのは、鈴音の目からしても確かなことだった。

 対戦相手が警戒を強めたような気配を、朝もまた敏感に感じ取る。

(流石に決勝リーグの選手は優秀ですねぇ……ほんとヤになります)

 心の中で悪態はついても、彼女の表情に焦りはない。気取られたからといって〝毒〟をどうこうすることはできないと、彼女自身が良く理解しているからだ。

 絡め取り、疲弊させ、毒が回ったところで仕留める。朝はこの技ひとつで、宝珠山高校の副将というポジションを任されているのだ。

(ヒトの習性は変えられない。だからこそ万人を蝕む〝毒〟となる)

 朝が読んでいるのは腕だった。厳密には、組み合った腕を通して伝わる、相手の体重移動。それこそ、社交ダンスと要領は変わらない。相手が後ろへ体重をかければ自分は前へ、前へ体重をかければ自分は後ろへ。そして、彼女にとって大切なのは後者。

 相手が朝を押し出そうと前に体重をかける、その直前にこそ毒は回る。

(ここ――)

 小手から伝わるほんの僅かな振動を察知して、朝は鈴音の腕を跳ね除ける。最初に一本を取った時と同じこと。その瞬間に朝は捕食する――そのはずだった。

(……え?)

 鈴音の身体は先ほどのように開かず、がっちりと、鍔迫り合いで組み合ったまま朝に張り付いていた。

 朝の〝毒〟は、タイミングの問題だ。噛み合わないこともある。しかし、今のは完璧だったはず。〝毒〟の餌食になれば、誰もが成すすべなく、無防備に身体を開いてしまうはずなのに、鈴音は堪えた。

(どう……やって)

 朝の頭の中は、予想外の事態に対してすっかり混乱してしまっていた。なんで。どうして。この技にだけは、絶対の自信があったのに。

 その混乱を、鈴音は見逃さない。ふらついた朝の身体を、今度こそドンと押しやり、鋭い引きメンを叩きこむ。

「メンあり!」

 鈴音は、心の中で「よし」とガッツポーズをとる。

(結局、相手の技の理屈はよく分かんないし、ぶっつけだったけど、たぶんうまくいった)

 うまくいったのに、頭の中は「?」だらけなので、手ごたえらしい手ごたえがない。それでも対抗手段になるのなら、今はぶっつけ本番でもやるしかない。

(それでいい。鈴音のアイソレーション……不完全だけど効果が出てる)

 コート上の鈴音に比べて、外から全てを見てる黒江は、事の次第をある程度理解している。朝の〝毒〟の正体にも、ある程度の当たりはついていた。

(鈴音も考えているだろうけど、相手が呼吸を読むという点は部長と同じ。だからこそ対策も同じ……アイソレーションが刺さる)

 鈴音のアイソレーションは、身体の動きを部位単位で分離して、相手の認識を騙す、いわばフェイント。打ったように見せかけて打たず、動いたように見せかけて動かず。それらを引き起こしているのは、恵まれた体幹によって引き起こされる、重心移動のフェイントだ。

 朝の〝毒〟は強力だ。しかし、相性――相手が悪かった。


 捕食者である彼女にとって、鈴音は唯一無二の天敵だった。

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