宝珠山戦⑦:捕食者

 拍手が止んだ後も、会場はどよめきに包まれていた。

 目の前で放たれた見事な一本に対する興奮が半分。

 一般の目から見れば、人知を超えた妙技に対する不安が半分だ。

「女子の公式戦で突きが決まるの、久々に見た」

「今、ほんとに決まったのか? 全然見えなかったけど」

「審判が上げたし、決まったんだろ」

 観客の反応は、おおむねこの通りだった。

 もっとも、コートを囲む宝珠山やあこや南の選手陣も、感想は大して変わらない。

 目の前で起きたことを理解はしても、認識が追いつかずに、半開きの口でコートを見つめるほかなかった。

(今の突き……今までで、一番疾かった)

 鈴音は、ようやく息を飲み込みながら、自分の中で状況をかみ砕く。

 正直な話をすれば、穴が開くほどに試合に集中していた鈴音でさえ、穂波のツキが決まった瞬間を完璧に捉えたとは言い難い。交通事故に出くわしてしまった時に、視覚とその理解とに、大きなタイムラグが生じるのと似たような感覚。

 穂波の〝縮地カッコカリ〟は、対戦相手に対してのみ、時間の流れを誤認させるようなものだが、今のは試合を見ていたすべての人間に対して似たような認識を与えていた。

 〝縮地カッコカリ〟が、相手の呼吸を盗む技なのだとしたら、観客すべての呼吸を同時に盗むなんてことは不可能だ。つまり、単純なフィジカルとしての疾さのみで、撫子の鉄壁の防御を上回り、打ち砕いたということ。

 開始線に戻った穂波は、一本取り返したことに安堵したように、大きな息を吐く。

 一方の撫子は、浅く小刻みな呼吸を繰り返して、どこか目の焦点が定まっていない様子だった。

「勝負!」

 三本目が始まると同時に、撫子は大きく間合いを引き下げてから、下段の構えを取る、より明確に、円の境界線を判断するためには、できるだけ広い間合いが必要だ。当然、穂波はそれに対して、ぐいぐいと攻め込むように距離を詰めていく。

 距離を詰められるたび、撫子の呼吸が荒くなる。暑さなんてかけらも感じていないのに、面の中は大粒の汗が流れ落ちていた。

(撫子のやつ……)

 彼女の変化をつぶさに感じ取ったのは、遠巻きに見守っていた千菊だけだ。ほかの宝珠山の面々は、それこそ仏にでもすがる勢いで手を合わせて、撫子の勝利に賭けていた。

 攻撃の主導権は、完全に穂波の方にあった。〝縮地カッコカリ〟こそ発動するような兆しは見えなかったが、鋭い一本一本の打ち込みを相手に、撫子は「大きな円」の守りで、力づくで防ぎ続けた。

 これから先、一本も自らの領域の内へは入らせないと、結界でも張っているかのよう。しかしそれは一方で、自らも結界の外へ出ることはなく、完全な防御一辺倒になっていることと同じだった。

「やめっ! 引き分け!」

 審判の判決が出た瞬間に、会場中を大きな溜息が包んだ。結果に不服があるわけではなく。どちらともつかない勝負にようやく決着がついて、気張っていた気持ちを緩めるような、そんな溜息だった。

「大会全勝の八乙女穂波に引き分けとか、流石すぎます。撫子さん」

「何を言っているのですか。勝利を得られないのであれば、エースの名折れというもの」

 すでに試合を終えた新田と、先方の笹原は、言い方は別にしろ撫子の健闘を労った。

 一方で、すれ違いにコートへ向かった児玉朝だけは、撫子の表情が暗く落ち込んでいるのを確かに目撃した。

「撫子さん?」

 声を掛けようかと迷ったが、迷っているうちに撫子は陣に戻ってしまった。

 今、友人として何か声をかけるべきであったか。いやしかし、たいていの場合、そういう気遣いは、機嫌を損ねられる種にもなる。

 日頃の行いという言葉があるが、まさしく良心と、撫子の日頃の行いとの間の葛藤で、結果として朝は声をかける言葉を飲み込んだ。

(チームが勝っていることは変わらない。だとしたら私の仕事は、このまま大将へと繋ぐことですよねぇ)

 正直なところ、闘うのは非常に億劫だった。

 疲れるから面倒だ。

 期待をかけられるから面倒だ。

 期待に応えるために頑張らなければならないのが面倒だ。

 でも、無様な試合をして、帰ってから怒られるのが何よりも面倒だ。

 朝は、自分を納得させるように大きく頷いて、コートへと向き直る。


 対岸では、納刀した穂波がコートの外へと出て、鈴音とすれ違うところだった。

「すみません、約束……守れなくって」

「約束って……ああ!」

 かつて、穂波は鈴音を元気づけるように言ってくれた言葉だ。

 自分は必ず勝つから、鈴音は負けてもプラマイゼロだから、のびのびと全力を出してくれればいい。

 その約束が、穂波の「引き分け」によってバトンタッチされたのならどうだろう。

 それはもう単純に、鈴音の試合結果がチームの勝敗に大きくかかわってくるってだけのことだ。

「大丈夫です」

 鈴音は、自信たっぷりに答える。

「我孫子先輩が私を指名してくれた意味を、ここで証明してみせます」

 強い言葉は、不安の表れだ。しかし、己を奮い立たせるウォークライであることも変わらない。

 穂波は、ニコリとほほ笑んで、鈴音に拳を差し出す。

 鈴音は、力強く自分の拳をそれに合わせた。

「託します」

「はい」

 気持ちを新たにコートへ向き直ると、対岸の朝と目があった。

 実際は、この距離じゃ面金に遮られて視線の動きなんてよく見えないが、互いに見られているという意識はあった。

(はじめから、部長の活躍に甘えるつもりなんてない)

 竹刀をぎゅっと握りしめると、硬くしなやかな竹の感触が、ほどよい圧力で応えた。張り詰めた弦が、指に食い込むように抵抗する。

(勝って試合をイーブンに戻す。私の仕事は、ただそれだけだ)

 決意とともに、場外線を越えてコート上へと足を踏み入れる。

 秋保鈴音、あこや南高校団体戦メンバーとして、初の出陣だった。


 ――副将戦。


 赤、宝珠山。児玉。

 白、あこや南。秋保。



「はじめっ!」

 主審の号令と同時に、朝が鈴音に飛び掛かった。間合いの駆け引きも何もない、不用意で、直線的なメン。

 多少は虚を突かれたものの、鈴音は簡単に受け止めて、そのまま鍔ぜり合いにもつれ込む。

(まるで考えなしのメンだ。勢いもないし、決めるつもりがない……防がれるのが前提の打ち込み)

 鈴音は、目と鼻の先で、初めて相手の顔をまじまじと見つめる。ややのっぺりとした日本人顔の美人。どこか頼りなさそうというか、困り顔に近い雰囲気で、撫子に比べれば奥ゆかしさにも似た親近感を覚える。

 そんな顔立ちのせいか、あまり闘志らしい闘志を感じられない。鈴音の脳裏に過ったのは、次鋒戦である竜胆の対戦相手、尚子のことだ。明らかに経験で劣るであろう尚子は、竜胆に対して反則スレスレの時間潰しで、からがら引き分けをもぎ取った。選手層に薄い宝珠山高校の団体戦メンバーであれば、初心者が試合に出なければならないのも致し方ないだろう。それを個々人で理解したうえで、自らに求められる仕事と立ち回りを心得ている。

 全員が勝つ気概を持ったあこや南高校の団体戦メンバーと違い、個ではなく群として、抜群の結束力がある。

(この人も、そういうタイプの選手? わずかなリードを保ったまま、大将へ繋ぐような)

 だとしたら、気の抜けた打ち込みも、そこから流れるように入った鍔ぜり合いも、容易に説明がつく。間合いの攻防をするよりも、鍔ぜり合いはより単純で、より効果的な時間潰し行為だ。

(早く離れなきゃ……!)

 多少無理矢理にでも、離れて構えなおしたい。鈴音はその一心で後ろへ飛びのくが――離れられない。

 まるで社交ダンスでも踊るかのように、朝はぴったりと鈴音の動きに歩幅を揃えて、鍔競り合いから離さない。鈴音が右へ左へ揺さぶりをかけても、息ひとつ乱すことなく、ピッタリと絡みつく。

 なんだ、この人――流石の鈴音も戸惑いを隠せず、しかし鍔迫り合いから解放されることもなく、朝のなすがままにされている。

(いや、それでも、ここまであからさまな時間稼ぎなら、流石に反則に――)

 それを油断と呼ぶならば、鈴音は完全に児玉朝という剣士の術中に取り込まれていた。朝の鍔迫り合いは、例えるならば蛇だ。獲物を締め付け、動きを封じ、少しずつ骨を砕いて、飲み込みやすくするための捕食行為。

 突然、鈴音の手元が不用意に浮いた。自分でも浮かされたことに気づかないくらい、自然に、力を籠められた意識すらなく、身構えた身体を〝開かされていた〟。

 認識した時には、既に遅く。朝の〝引きコテ〟が、鈴音の腕に鋭く突き刺さる。

「コテあり!」

 三本の旗が文句なしに上がる中で、朝は大きな――それは大きな溜息をひとつ吐く。

(ふぅ……まずはひとつ)

 面がなければ、額の汗のひとつでも拭おうものだが、残念なことに彼女はまだ汗のひとつもかいていない。ただただ、温まってきた身体に身をゆだねて、次の一本に集中するばかりだ。

(私の仕事は繋ぐこと……宝珠山の勝利を確実なものにして、大将へ)

 頼りない表情の向こうで、児玉朝は、さも当たり前のように勝利を信じて疑わなかった。それは自らが捕食者であり、生態系の頂に近いところに居るのだと、生まれながらに、そして無自覚に、理解している証であった。

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