私の夏、みんなの夏

* * *




 主審の判定が出た後のことを、私はいまいちよく覚えていない。開始線に戻って竹刀を収めて、コート外に下がりながら一礼。ついでに上座にも一礼。ぼーっとしていても身体が勝手にこなしてしまうくらいにルーティン化された一連の動きだったが、正直ちゃんとこなしたかどうかも怪しい。少なくとも、礼を損じることはしていないと思うけど。

 コートを出ると、チームメイトたちが拍手で出迎えてくれたような気がする。たぶん、愛想笑いくらいは返したと思う。別に仲間の好意を邪険にしていたわけじゃなくって、頭の中が真っ白で、チカチカして、疲れて、何も考えられなくって、それでの愛想笑い。人間って限界まで疲れると笑っちゃうんだね。そんなことを思い返したのも、ずっと後になってからのことだった。

「お疲れ様です」

 少し遅れて、部長が陣に戻って来る。彼女は防具もはずさず真っ先に私のところへ来ると、小さく頭を下げた。

「ありがとうございました」

「こ、こちらこそ。ありがとうございました」

 釣られるように頭を下げる。口を開いて見れば、案外喋れるもんだ。つい今しがたの試合のことが、ぶわっと脳裏に蘇っては、矢継ぎ早に口先から零れ落ちる。

「何ていうか私、何もできなくって、良いとこなんてひとっつもなくて、最初から最後まで先輩に振り回されっぱなしで、体力も限界いっぱいでへとへとで……とにかく、完敗でした」

 なんかいろいろ思ったことはあったけど、最後のひとことにすべてが集約されていた。最後の最後に部長を迎え撃とうとした出鼻メンは、今の私にできる最大限のひと太刀。ベストショット。絶対に決まるって確信をもっての一撃だった。

 それを上回られてしまったのなら、ぐうの音も出ない。完敗だ。これ以上ないくらいに、ハッキリとした決着。もはや悔しさなんてものも――

「何もできなかったなんて言わないでください。最後の片手メンを引き出してくれたのは秋保さんです。一か八かの勝負に出なければ勝てなかった、その覚悟と勇気を」

 部長の言葉に私はそれ以上何も言えなくなる。負けた自分を卑下するのは簡単だけど、これ以上口にしたら部長のことも馬鹿にしたようになってしまう。それに、真っすぐ私を見上げる彼女の瞳があまりに綺麗で、透き通っていたものだから、開きかけの口を噤んで、つい目を逸らしてしまった。

「部長って、結構恥ずかしい台詞そのまま言いますね……」

「私は、そういう台詞をそのまま言える人です」

 そう言って彼女は、ニコリと笑った。庭先に咲くタンポポみたいに、小さくて可愛らしい笑顔だった。

「あ……あと、面を外したらお手洗いに行ってくると良いですよ」

「え?」

 何が、どういうこと?

 泣きそうならトイレにでも行けってことかな……いやいや、部長はそんな当てつけみたいなことを言う人じゃない。考えても仕方がないので、とりあえず面を外してみると、チームメイトたちが私の顔を見てぎょっとした。

「り、鈴音ちゃん……血の涙を流すほど悔しくって……」

 突然、竜胆ちゃんが感極まった様子で涙ぐんだ。なになになに。どうしたの。

 慌てて目じりをなぞると、指先が真っ黒な汗で濡れていた。ひぃっ、なにこれ。

「あっ、リキッド!?」

 そう言えば、安孫子先輩に軽くアイメイクしてもらってたんだっけ。普段メイクなんてしないから、すっかり忘れてた。一、二試合なら持つって話だったけど、二試合たっぷり延長まで戦い抜いたら、流石にこうなっちゃうか……てか、部長が言ってたのも、このことか。

「ご、ごめん。ちょっとトイレ行ってくる……!」

「あ、まって! メイク落とし貸したげる!」

 私は手ぬぐいを被って顔を隠しつつトイレに走った。何て恥ずかしい。もう、試合の余韻とか全部吹き飛んじゃったよ。てか竜胆ちゃん、メイク崩れって気づいてるんじゃん……大げさなやつめ。


 トイレの洗面台でメイクを落として、ついでに冷水で顔を洗う。汗だくだった顔がすっきりすると、胸の内の熱も冷めて、騒がしかった気持ちがしんと落ち着いてくる。

 負けたんだ、私は。

 インターハイまであと一歩のところだったのに。これが高校剣道の頂。かくも高い、雲の上までそびえる巨大な壁。

「鈴音」

 背後からかけられた声に、びくりと肩を揺らす。凛とした声から誰がいるのか分かっているのに、いや、分かっているからこそ、恐る恐る振り返った。

 竜胆ちゃんの隣に、いつの間にか黒江が立っていた。道着姿の竜胆ちゃんに並ぶセーラー服姿の黒江は、部活のうえでは見慣れた光景だが、こと大会と言う場に於いては、やっぱり場違いだなと思った。

「……黒江」

 絞り出すように彼女の名を口にする。準決勝のコートを離れてから、意図的に黒江を視界から遠ざけていた。とても顔を見られるような精神状態じゃない。私を全国に押し上げるためにって、あれだけ力を貸してくれたのに、私は応えられなかった。

「ごめん、私……約束守れなかったね」

「約束?」

「黒江に勝つまで負けないって」

 宝珠山での試合の前に、私を鼓舞してくれた黒江に対して、私はそう約束した。返す言葉っていうか、清水さんと戦うための精一杯の強がりだったけど、志は片時も忘れたことがない。

「それを言うなら、リーグ戦で負けまくってるけど」

「それとこれとは違うの! てかリーグ戦は、上段もカウンター剣道も全部半端だったって言うか……今回はその、全部出し切ったのに負けちゃったから」

 それが一番の心残りだった。私が敗けるだけならいい。だけど、カウンター剣道で負けたんだ。黒江の剣道で。


 その事実がたまらなく――悔しい。


 気づくと涙がこぼれていた。メイク崩れの真っ黒い汗じゃない。冷水で締まった頬を伝う熱い軌跡。本物の涙。

「鈴音ちゃ――」

 駆け寄ろうとした竜胆ちゃんを、黒江がそっと押し止める。静かに首を横に振って見せた彼女は、泣きたいなら泣けばいいと無言で背中を押してくれるかのようだった。冷静に押し込めていた気持ちが、枷が外れたようにあふれ出す。

「うああああぁぁぁぁぁ!!!!」


 ……悔しい。


 悔しい!


 悔しい!!


 悔しい!!!


 負けるつもりでコートに立ってたわけじゃない。分が悪い勝負だとは覚悟していたけど、私は勝つために戦ったんだ。部長を越えて、全国へ行って、黒江との約束を果たすために。


 勝ちたかった!

 

 勝ちたかった!!

 

 勝ちたかった!!!


 叫びたい気持ちの代わりに、腹の底から喉を揺るがす嗚咽がとめどなくあふれ出す。止められない。止めるつもりもない。

 負けるってこんなに悔しいことだったんだ。負けることが当たり前になって、勝敗に一喜一憂することもなくなって、心がひどく冷め切ったような気分になっていたのは、いったい何時からだろう。

 少なくとも中三の夏、私が一度は剣道から足を洗う覚悟を決めた最後の地区総体での敗北で、私は一滴を涙を流さなかった。


 ああ、当然のように負けた。

 やっぱり、私はこの程度の剣士だったんだ。

 負けて当たり前。

 全国なんて夢のまた夢。

 黒江に勝つなんて目標は、勘違いも甚だしい思い上がり。

 勝手にライバル視して、勝手に舞い上がって、運命とか感じちゃったりして。

 だけど、現実はまるっきり違って。

 その違いに押しつぶされそうになって。


 むしろ、ほっとした。

 もう、解放されて良いんだと。


 勝つことを期待しなくていいし、負けることを恐れなくていい。

 もしも勝ってしまったら、僅かな希望に縋ってしまいそうだから。

 負けたことで、スッパリと剣道から離れられた。

 あの日、地元の友人たちに見守られて負けた私は、清々しいまでの笑顔だった。


 ああそうだ、思い出した。

 黒江に負けて、悔しくて悔しくて泣いた中一の夏。

 私の原動力は、最初からこれだったじゃないか。

 そして今、私は何も変わっていない。悔しさも、黒江を倒すという目標も、何もかも。こんな結果で納得できるか。黒江に勝つってことは、日本中すべての剣士に勝つってことだ。だって黒江は〝日本一の女〟で女王なんだから。

 部長にだって、その先に待つ全国の剣豪たちにだって、勝たなきゃいけなかった。勝ちたかった。勝って証明したかった。


 ――私が、黒江の隣に立つのにふさわしい剣士だって。


「今のままじゃ、まだ、黒江と戦えない……もっと、強くなりたい! 私……黒江を倒して、日本一……強く!」

 涙を拭うのも忘れて、真っすぐに黒江を見つめる。眉間と頬にぐっと力をこめて、目蓋が閉じないように力いっぱい見開いた。表情が乏しい彼女の些細な反応も見逃さないように。

「私も約束した」

 黒江は相変わらずの無機質な表情と声色で、だけど芯のあるハッキリとした声色で応えてくれる。

「あなたを強くする」

「でも、それまでに……もっと沢山、負けちゃうかもしれない」

「その結果、誰よりも強くなるのなら、今日の敗北だって必要だった」

「黒江、もしかして最初から負けると思ってた?」

 悪戯心で尋ねると、彼女は首を横に振る。

「私はいつでも、鈴音が勝つことを信じている」

 たったそれだけ。

 彼女の放ったその言葉だけで、悔しさも、むしゃくしゃしていた気持ちも、すべてがふき取んでしまった。春一番の心地よい風が吹き抜けたみたいに、ざぁっと、胸の奥の嫌な気持ちがすべて。


 私は自分が勝つことを信じている。

 彼女も私が勝つことを信じてくれる。


 だから私も黒江を信じる。どんなに不利な戦いでも、常に私が勝つための手段を考えて、自信いっぱいに送り出してくれる彼女を――


「ちょっと待ったぁー!」

 不意に、竜胆ちゃんの声が割って入る。彼女は歌舞伎の見世みたいな格好で、むっと眉をつりあげる。

「そう言う話なら聞き捨てならないよ! あたしだって目指してるもん、日本一!」

「うん、そうだね」

 相変わらずの彼女のペースに、吹き出して笑ってしまった。頬を濡らすのは泣いた涙なんだか、笑った涙なんだか分からなくなったころにようやく目元を拭うと、涙はすっかり止まっていた。


 それから決勝に進んだ八乙女部長は、対岸ブロックから勝ち上がった左沢産業高校の外山さんを下し、見事に個人戦の優勝を飾った。悔しさと羨ましさはあるけれど、同じくらい彼女の躍進を祝福する気持ちもあった。

 部長が勝ち続ける限り、ギリギリまで食らいついた秋保鈴音と言う剣士がいたことが証明される。私の夏は終わってしまったけれど、私たちの夏はまだ終わらない。


「なーに、ひとり黄昏た顔してんの」

 二日目の全日程が終了して、控室で締めの円陣を組んでいると、私の背後からその人がひょっこり現れた。声を聞いただけで誰だか分って、慌てて振り返った……けど、同時に絶句してしまった。

「安孫子先輩……それ」

「あはは、見ての通りで」

 安孫子先輩が頬を掻きながら苦笑する。その腕には大きな松葉杖を携え、怪我をした足先は、ギプスと包帯でぐるぐるに固められていた。

 脇に挟んだ杖に体重を預けながら、彼女は部員たちを拝むように両手を合わせた。

「みんな、ごめん! 全治一ヶ月!」

「ええー!?」

 戸惑いの声をあげたのは私だけじゃない。副部長、しかもレギュラーの退場は、少なからず私たちを動揺させた。痛ましい姿ももちろんだけど、何よりも明日の心配だ。流石に全治一ヶ月では、大会三日目である団体戦決勝リーグの出場はどうあがいても無理筋だ。

 怪我の心配、大会の心配、そして先輩の心の心配――そんな不安を吹き飛ばすように、彼女はあっけらかんとして笑った。

「この程度で済んで運が良かったって、心底思うよ」

「え?」

「だって、インターハイに間に合うじゃん」

 先輩は、笑いながらポンと私の肩を叩く。

「ということで、明日は任した」

 まか……す……って。

「え、ええっ!? 私ですか!?」

「もちろん。穂波とあんだけの試合しといて、他に誰がいるのさ」

「し、試合見てたんですか? 居なかったんじゃ」

「日葵がビデオ通話繋いでくれてたの。文明の利器だね」

 安孫子先輩の言葉に、日葵先輩がバツが悪そうにはにかみながらスマホを掲げる。見てくれたのは嬉しいけど、だけど……ええー。

 いやいや、あくまで先輩が勝手に言ってるだけだ。オーダーの決定権が顧問にあるのなら、ここは鑓水先生の判断を第一に伺うべき。縋る思いで彼女の方を振り返るが、先生は腑に落ちた様子で頷いた。

「容体を聞いた時点でそのつもりだった。絶好調の八乙女を除けば、一番調子が良いのはお前だからな」

 うう、評価してくれるのは素直に嬉しい。だけど既に気持ちは秋に向けて修行モードに入っていたところだったのに、明日明日、また全国の切符をかけて県上位の猛者たちとしのぎを削るだなんて。


 でも……考えようによっては、大きなチャンスでもある。一年の私にはまだまだ足りない、高校剣道という世界をこの身で体験し、直に剣を交えることができる。

 何より、試合に出られること自体が嬉しいのに変わりはない。私に期待をかけてくれた、あこや南の名を背負って――いや、このコバルトブルーの胴に抱えて戦うことも。

「と言うことで、いい、よね?」

 念を押すように安孫子先輩が尋ねた。

 私は、精一杯の決意を込めて頷く。

「はい!」


 私たちの夏はまだ終わっていない。


 そして私の夏も、まだ終わらない。

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