雲の上

「やめっ!」

 意識と感覚が会場の熱気に溶け込んでいきそうになる中で、鈴音は主審の一声にはっとする。遅れて、コート外の計時係が、タイムアップを告げる黄色の旗を掲げているのが視界に入った。

 彼女は、ほとんどベタ足のたどたどしい歩みで開始線まで這うように戻る。

「延長二回目……流石に鈴音ちゃん、流石にきついよ。前の試合もいっぱいいっぱいだったのに」

 試合を見守る竜胆の声が不安で震える。他のチームメイトたちも同じことを思っていたが、悪戯にあおるよりは無言を肯定の意味として返した。対する穂波も、一回目の延長に比べれば流石に息が上がっている。しかし同じくらい真っすぐ鈴音を見据える瞳が、まだまだ余力を残している状態を示していた。

(がんばれ、鈴音ちゃん)

 この際、同期のよしみによる贔屓で構わないと、竜胆は心の内で強く願う。

 その鈴音はというと、試合再開までのインターバルをめいいっぱいに使って、少しでも体調が回復するようにと、全力で休憩にあたっていた。インターバルの時間は具体的に定められてはいないが、得てして十数秒程度と決して長くはない。それでも、互いに示し合わせたように構えるまで。はたまた主審に構えることを促されるまでは、身体と気持ちを落ち着けることに集中できる。

 立ったまま全身を脱力し、目蓋をゆるく閉じて視界をカットする。視覚情報を社団して少しでも脳みそに余裕を持たせる一方で、鈴音は今一度、身の回りの音に集中していた。

 自分の激しく荒い呼吸が聞こえる。

 相手の深く鋭い呼吸が聞こえる。

 身体がきしむ音。

 防具がきしむ音。

 握りしめた竹刀の、竹同士がこすれる音。

 音に集中してから、鈴音の中で試合の見え方が変わったような気がした。どう変わったかと言われると、自身の言葉で説明することはできなかったが、コート上での互いの一挙手一投足が鮮明な情報として自分の中に入ってくるような気がした。

 そう、気がするだけ――だが、とっくに考えるだけのエネルギーを失った頭では無意識に、かつ本能的に身を委ねる以外の選択肢が無かった。いや、そもそも考えようとしていない。鈴音はとっくに立っているのがやっとの状態で、意識なんてとうの昔に手放している。

 穂波は、焦点の合わない瞳でなおも自身を捉えようとする彼女の姿に、底知れぬおぞ気を覚える。高校剣道に三年もの間身をやつして来た彼女は、その感覚に覚えがあった。もはや進退窮まった、高校三年の夏に望む剣士たちが纏うような覇気。若干一年生の彼女が放つ似たような空気に、飲み込まれるわけにはいかないと、自らを奮い立たせる。

 しかして、どちらともなく竹刀を構えて切っ先を交える。それを続闘の意志だと判断して、主審が小さく頷いた。

「はじめっ!」

 試合が再開すると、どちらからともなく後ずさる。間合いを広く取ることは警戒の現れのようにも見えるが、このふたりの場合は全く逆のことだ。二度目の延長戦ともなると、とっくに様子見や警戒のフェイズは超えている。望むべきは一秒でも早い決着だ。一撃一撃に必殺の魂を込めるために、それぞれが最も力を発揮できる距離を測った。これは、そういう間合いだ。

 しんと静まり返ったコートの中で、一対一の我慢比べ。下手に動けば仕留められる。動けない。身じろぎひとつが、徒競走のピストルの音に変わる。

 一度動き出せば、決着の瞬間まで止まらない。足の指先で地面を手繰るように、ジリジリと距離を詰める。剣道の間合いは、目に見えない球状のフィールドのように捉えていい。境界線に踏み入ったら切り伏せる。いかに相手の間合いを躱して自分の得意な間合いで勝負するのかが、いわゆる間合いの駆け引きとなるわけだが、互いのベスト間合いが近しい者同士であれば勝負は一触即発となる。

 残された体力的にも、鈴音はもうそう何度も技を放てない。相手の動きに耳を傾け、間合いに入った瞬間を穂波よりも先に察知して仕掛けたい。だが、集中する彼女の耳に届いたのは、焦れったいすり足の音ではなく、ギシリと床を踏み抜く力強い襲撃音だった。

(まだ間合いの外なのに……!?)

 鈴音よりもさらに遠い間合いから、瞬く間に穂波が跳ぶ。否、〝飛ぶ〟と言っても差支えはない。小さな身体というハンデをものともせず、相手が見上げるような巨人ならば空から攻めれば良いとでも言うかのように。それまでの荒々しい飛び込みとは対照的な、体重を感じさせない軽やかな踏み込み。

 完全に虚を突かれた。しかしそれは、鈴音が単に迎撃姿勢に入っていなかっただけどいうこと。察知さえできれば守ることはできる。そもそも穂波にとっても間合いの外から放った強引な一手だ。決まるとは思ってない。言わばこれは、一か八かの牽制打である。一瞬の気も抜けない状況で、鈴音の〝予想外〟を突いて心を揺さぶるための。

 そして効果は絶大だった。迎撃よりも守りを選ばされた鈴音は、間合いの攻防に於いて完全に後手に回ってしまった。ペースを取り戻すべく、穂波の勢いを受け流すように引き技を放つ。距離を離しつつ、穂波の追撃を抑え込む、こちらも牽制の一手だった。

 しかし、穂波も一度掴んだペースをそうやすやすと手放しはしない。読んでいたかのように軽々と防ぐと、返しのメンで鈴音を懐の距離から離さない。一連の痛打でコート端まで追いやられた鈴音は、仕方なく鍔迫り合いになだれ込んだ。

 拳と拳、竹刀と竹刀が交差するゼロ距離の攻防。正直なところ、鈴音はあまり鍔迫り合いが得意ではない。正面からの打ち合いに特化した稽古を続けてきたこともあり、十年近い剣道生活の中でもなお、自身で認める程度に練度不足だった。だから、なあなあのタイミングで無理矢理間合いを切って距離を取りがちだが、今この局面で〝なあなあ〟な行動はマズい。

 再び守りに徹して相手の出方を伺っても良かったが、これ以上後手に回ることも避けたかった。コート際から逃れるように回り込んでから、守られる前提で引き技を放つ。守らせることで相手の構えを少しでも崩す。勝負はここからだ。

 鈴音は、距離を詰めるために間合いを詰める穂波に狙いを定めた。追いつめられる前に迎撃する。先ほど穂波は、強引に間合いの外から飛び込んできたが、同じことは鈴音にもできる。後の守りを考えずに片手メンを打ち切るつもりでめいいっぱい伸ばせば、威力を下げずにもう少しだけ遠くまで。

 技を放った鈴音に、穂波はかすかに目を見開いた。意趣返しをされたことよりも、単純に鈴音の間合いを計り損ねたことに対する驚きだった。どうにか踏みとどまり、喉元まで迫る鈴音の切っ先をギリギリのところで受け止める。とても迎撃できるような姿勢ではないが、鈴音もまた同じことだ。限界まで伸ばした片手メンと、大きく開いた身体は、追撃の手を鈍らせる。

 穂波は、飛び込んできた鈴音を受け止めずに、いなすように受け流す。すれ違うように側面に回り込んで距離を取った。そこからは早かった。早くしなければならなかった。

 鈴音が十分に構え直す前に、穂波は一気に間合いを詰める。勝負を決めるつもりだった。ふたりの間合いがほとんど同じなのは、鈴音が上段の使い手であるからこそだ。構え直す暇を与えなければ、間合いの優位は穂波に一気に傾く。

 鈴音が振り返った瞬間を目掛けて穂波は飛んだ。構える間もなく、背後からの奇襲で、鈴音は一歩も動けない――はずだった。鈴音は、竹刀を置き去りにして、身体だけで穂波に振り返る。迫る相手に無防備な身体を晒す形になるが、構えていては穂波の剣速に勝てない。そう、鈴音は彼女の追撃を読んでいた。いや、穂波なら必ず追撃を仕掛けてくると確信していた。勇ましく床板を踏みしめる足音が「そうだ」と伝えてくれた。

 置き去りにした竹刀をそのまま振り上げる。脇構えから上段へ移行するように、流れるような動きだ。まさか迎撃されるとは思っていなかった穂波だったが、躊躇することなく鈴音の懐へ飛び込む。足を止めるよりは深くまで入り込んでしまった方が、上段の一撃を掻い潜れると判断した。先に穂波は、同様の手法で鈴音の太刀を凌いだのだから当然の判断だった。

 対する鈴音は、ほとんどと言って良いほど踏み込まなかった。上段の利点であるリーチを捨てて、技の速さと正確さに意識の全てを集中する。強みを失うことになっても問題はない。なぜなら規格外の脚力を持った相手が、ものすごい勢いで距離を詰めてくれるのだから。自分はそれに合わせて、ただただ相手より疾くメンを当てさえすればいい。

 部内のリーグ戦で、竜胆の速度を逆手に取って放った出コテ。相手の勢いを利用して、こちらは軽く、速く、当てるだけで必殺の一撃を演出する技。

(カウンター剣道が自分に合うのか、ずっと半信半疑だった。黒江は信じてくれていたけど、それでも……)

 鈴音と穂波の実力差は歴然である。だからこそ、穂波の突破力を利用したこの技の威力は、普段の数倍にも跳ね上がる。相手の実力を認め、自分の力不足を認め。それでも勝ちたければ使えるものは全て使う。

(今ならハッキリと分かる。合う合わないの問題じゃない。私には必要な技なんだ。雲の上への挑戦者である私には)

 迫る穂波に竹刀を合わせる。力を籠める必要は無い。打ち崩す必要もない。手首のスナップで触れさえすればいい。それが最速の一手。これまでの剣速がイーブンだとしたら、速度にだけ特化すれば鈴音の方が僅かに勝る。


 これで決まる――そう確信を得た瞬間だった。


 スパンと鋭い打突音が響く。竹刀が防具の表面を打ち据える小気味の良い音。鈴音の技が決まったのか。いや違う。彼女はまだ技を放っていない。

 正確には、まだ技を放つ間合いではなかった。踏み込まないのだから、穂波が間合いに入って来るのを待つほかない。だから、まだ遠い……そのはずだった。

 そのはずなのに、鈴音の頭頂にミシリと穂波の竹刀が叩き込まれていた。

(うそ、なんで――)

 問うより先に、鈴音は目の前の穂波の姿で答えを知る。

 普段の穂波の打突なら、届くはずの無い間合い。日々の地道な稽古の積み重ねを差し置いて、突然間合いを押し広げるような手段はない。

 ないはずだが、穂波はその十数センチの距離を飛び越えた。左手一本で、竹刀を力いっぱいに伸ばすことで。

(片手メン……中段から……はは、やっぱすごいや、この人)

 文句のつけようもなく、鈴音は目を閉じて項垂れた。割れんばかりの歓声が響き渡る中で、主審が放つ「メンあり」の一声が、やけに大きく頭の中で響いていた。

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