勝負の二分

 ここまで両者ともに決め手に欠ける状況で、試合時間はとうに二分を越えていた。剣道の試合においては、試合の残り時間がデジタルタイマーなどで選手一同に視覚化されることはない。コート脇で応援する仲間たちが自前のストップウォッチを片手にざっくりした時間を計ることはできるが、計時係のストップウォッチとはどうしてもズレが発生してしまうので、コンマ秒単位の整合性を取るのは不可能だし、そもそもコート上の選手に伝える手段がない。

 そのため基本的に試合中は、自信の勘を頼りに残り時間を計らなければない。

 高校にあがったばかりの鈴音は、まだ高校標準の四分という試合時間に身体が慣れていない。しかし中学標準の三分の感覚は身体に沁みついているので、今が「中学の頃なら試合終盤の頃合い」であることは推測することはできた。

(そろそろ、仕掛けてかないとまずいな)

 鈴音の額からは、とっくに大粒の汗があふれていた。滴る雫が目蓋を滑り、まつげにせき止められては、瞬きの度にきらりと光り、落ちる。本来なら体力的にまだまだ余裕があるはずだったが、直前の船越戦での消耗が響いているのは明白だった。

 しかし、一日に何戦も強いられる以上は、疲労の蓄積とセルフコントロールも含めての大会だ。毎度ギリギリの戦いを強いられてしまうのは、ひとえに自身の力不足のせいと言っても良い。

 鈴音は、深く息を吐いた。疲労を、熱い呼気に交えてまとめて吐き出すように。それから新しい空気をめいいっぱいに身体に取り込んで、竹刀を頭上高く掲げた。

 穂波が、警戒するように僅かに身体を強張らせる。ここにきて、鈴音が上段の構えを取ったのだ。

 戸惑いが見える穂波に、鈴音は容赦なく片手メンを打ちこむ。無論、容易に防がれてしまうが、すぐに距離を取ってもう一度打ち込む。また防がれる。鈴音とて、決まると思って打っているわけではない。これは確認。いわば素振りのようなもの。

(もうちょっと手前……かな。うん)

 再び構え直しながら、鈴音は握りを確認するように左の手のひらに力を籠める。竹刀の合わせ目がギシリときしむ感覚。以前に比べたら握力も鍛えられたものだ。

(上段で打ち合うつもりですか? それに乗るのはやぶさかではありませんが……)

 穂波の戸惑いは、ひとえに鈴音の意図を計りかねていたからである。推測したところで意味のない話ではあるが、彼女のように試合中にころころ構えを変える選手と戦うのは、これまでの人生で経験のないことだった。みなそれぞれに得意な剣道があり、その得意な展開に持って行くために試合開始から全力疾走というのが、一般的な剣士の試合運びとなる。対して鈴音のスタイルは変幻自在……というより、摩訶不思議だ。

 穂波は、一歩間合いを詰め寄りながら、正眼に構えた切っ先を外側へと軽く開く。平正眼。上段相手に解禁される「左コテ」に狙いを定めつつ試合の駆け引きを行う、沢産戦で使った戦術だ。

 鈴音が僅かに息を飲む。その実、平正眼と真っ向勝負をするのは初めてのこと。未体験のプレッシャーは、清水の下段と戦った時のようだ。

 挑発するように、穂波がぐいぐいと間合いを詰めた。元々上段は、他の構えに比べて間合いが広い分、逆に近い間合いを苦手とする。それを分かっているからこそ穂波は前へ攻め込むし、鈴音は隙を付いて間合いを切ろうとする。

 じれったい読み合いが続く中で、穂波が先に動いた。鈴音が下がったのに合わせて距離を詰め寄り、最短距離で左コテを狙う。鈴音は、竹刀の柄の部分で受け止めると、そのままさらに飛び退いて引きメンで応戦する。穂波もこれを受けきり、さらに追撃の一手に出る。再び悠長に構え直す時間を与えない、攻めの剣道だ。

 しかし、鈴音もそのことは百も承知だった。引き下がった足元をぐっと踏みしめて、おきあがり小法師のように力のベクトルを前に揺り返す。反動で速度と勢いを増した一刀。清水戦の決着を担った一撃だった。

(まずい……っ!?)

 穂波の視界には、恐ろしい距離を鈴音が一気に駆け抜けてきたように見えた。縮地とは違う、単純なフィジカルの問題。既に追撃姿勢に入っていた穂波だったが、相手の竹刀の方が疾いと感覚的に理解する。

 打ち負ける――冷静な思考とは裏腹に、脳裏にそのことが過るより早く、身体の方が動いていた。

 蹴り出す軸足に、いつも以上の力を籠める。普段なら間合いを詰めるのに必要な分だけ、過不足なく放出する力の枷を解き放ち、ありったけ爆発させる。もはや、打ち込むなんて考えていない。できるだけ疾く、できるだけ深く、鈴音の懐に飛び込む。彼女の竹刀が届くよりも先に――

「……っ!?」

 鈴音の息が詰まった。完璧なタイミングで放った一撃のはずだったのに、相手が、それを上回る速度で突っ込んで来たのだ。振り下ろした竹刀は根元の部分が面金に当たって弾かれ、開いた身体にモロに穂波の体当たりを喰らう形になる。

 流石に身体がよろけるが、態勢を立て直そうと焦りが滲む前に、鋭い笛の音がコートに響き渡った。

「やめっ!」

 主審の掛け声に、鈴音も穂波も、棒立ちになって互いに見つめ合う。息を弾ませながら、やがてどちらからともなく開始線に向かって踵を返した。

(今のは、決めなきゃいけなかった……)

 千載一遇のチャンスを逃した口惜しさに鈴音はぐっと奥歯を噛みしめる。技を放った瞬間に獲ったと思った。思ったのに、穂波が相打ち勝負を捨ててまで突っ込んでくるだなんて。結果として、鈴音が間合いを見誤った結果になった。穂波にとっては九死に一生を得た形だ。

 とにもかくにも呼吸を整えるべく、鈴音は大きく深呼吸をする。穂波相手なら、呼吸が乱れていることが一番怖い。対する穂波の方は、額に汗こそかいているものの呼吸は落ち着いて平常心だった。

「鈴音ちゃん、大丈夫かな。さっきの試合も体力ギリギリだったし」

 コート脇で竜胆が、落ち着かない様子でおろおろと視線を右往左往させていた。隣に座る黒江は、言葉をかけてあげるでもなく、じっとコート上のふたりを見つめている。

(部長が勝負を避けたのは、相打ち勝負なら負けると悟ったからこそ……鈴音の判断は間違っていない。ただ、部長の危機察知能力が長けていただけのこと)

 しかし、最大の機会を逃した事実も変わらない。半ば奇襲の策に二度目はない。鈴音が勝つためには、次なる一手が必要になる。

(今の鈴音じゃ、アンチカウンター剣道を本当の意味で使いこなすことはできない。船越鳴希戦の時のように、偶発的に発揮されるのを願うか……あるいは)


 ――だからこそ、他に見えるものがあるなら知りたい。


(部長にはきっと、部長にしか見えない世界がある。もしも、鈴音にしか見えない世界があるのなら――)

 膝の上で握りしめた拳に、じんわりと汗が滲む。それは、竹刀を握りしめる鈴音の手のひらも同じだった。

(あれ、避けられちゃうんだ。流石だなぁ)

 決め手を躱されておきながら、鈴音の戦意はまだ落ち込んでいない。むしろワクワクしている。この汗は、そういう汗だ。

 だが、手も詰まっている。

(正直、体力もキッツイし……あと二分が勝負かな)

 延長戦は二分刻みで、個人戦であれば決着がつくまで何ラウンドでも繰り返される。ただ、鈴音とて自分の身体のことは自分が一番良く分かっているつもりだ。

(延長戦を繰り返すよりは、全力で二分一本勝負。ここでもう一度、勝機を掴む)

 自分に言い聞かせるようにして竹刀を構える。穂波もまた、細く長い息を吐き出しなががら真っすぐに姿勢を正す。ここから先は一本先取した方が勝利となる。僅かな気のゆるみ、僅かな気の迷いが敗北に繋がることは、彼女も同じことだ。

(もとから侮っていたわけではありませんが、決め手に欠けるのは私も同じ……どうにか打ち崩さなければ)

 未だ五里霧中の鈴音と違い、穂波の覚悟はとっくに決まっている。唯一決まりかけた連撃中の縮地。あの一撃なら、延長戦ですり減った集中力の虚を突くことができる。攻めて攻めて攻め立て、その中の〝直感〟をつかみ取る。

(この二分が勝負です)

 それ以上は、穂波自身の〝直感〟センサーが持つか分からない。奇しくも両者とも、至った結論は同じだった。全国への切符をかけた、覚悟と覚悟。意地と意地の勝負。

「延長戦――はじめっ!」

 その火蓋が切られる。

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