初心忘るべからず

(完璧なタイミングだと思ったのに防がれた……?)

 居心地の悪さを振り払うように、穂波は大げさに距離を取って大勢を建て直す。鈴音の追撃が無かったのが幸いだろうか。

 仲間たちが付けた名前ではあるが、穂波自身〝縮地カッコカリ〟というものに対しては懐疑的だった。なにぶん本人は、普通に構えて普通に打っているだけのことだ。叫べば発動するような、ヒーローものの必殺技とは訳が違う。

 強いて言えば「今だ!」という直感的なタイミングの計り方ががあるくらいだが、それも意識して狙いに行けば他の試合展開がガタガタになってしまうので、激しい打ち合いの刹那での、いわゆる〝ゾーン〟的なものに入った際の出来事でしかない。

 しかし、合宿での須和黒江との一日十本の計三〇本全力勝負をきっかけに、〝直感〟を覚える機会が増えたのは間違いない。全国レベル――いや、名実共に日本一の剣士と戦い続けることで、穂波の眠っていたセンスを叩き起こされたような。むしろ、無理矢理引きずり出されたような。

 リーグ戦で、黒江から縮地を完璧に返された時もそうだ。あの時穂波は、「この技にはまだ上がある」と口にした。だがこの時、穂波自身も何が「上」なのか具体的なことは何も分かっていなかった。今だってそう。おそらく〝直感〟の正体を自分自身が理解できたときに、ようやく形になるものだろう。

 そして――先ほど鈴音に防がれた一撃は、確かに〝直感〟に従ったものだった。それでも防がれた。穂波にとっては初めての経験だった。


 気持ちを切り替えて技の応酬が再開する。鈴音は相変わらず防戦が主体になるが、先ほどまでと違うのは、虎視眈々とカウンターの機会を狙っていることだ。

(――今っ!)

 再び穂波の脳裏に〝直感〟が走り、力いっぱいに鈴音の懐へ飛び込む。そもそも穂波の打ち込み自体が弾丸、いや砲弾のようなものだ。気を抜けば吹き飛んでしまいそうな破壊力を受け止めるのにふさわしく、鈴音は全力で竹刀を引いて、相手の切っ先を受け止める。どんなに姿勢が不格好になっても、一本――致命傷になるよりはマシだ。

(また、受け止められた)

 二度繰り返されれば穂波も受け入れざるを得なかった。

 鈴音には、縮地が効かない。

 対策を立てられてしまったか。だったら、何をどう対策したのか。疑問は尽きないが、自分自身が技の原理を理解していない以上、考えるだけ無駄なことだった。

 それは鈴音にとっても同じことだ。理屈は分からないが、全力で頑張れば防げる。この場で理解できるのはそれだけなので、思うところがあるとすれば「黒江、すげー」くらいのものだった。

(防げるなら縮地は捨てる。一本取られないことだけ考えて……他の技でカウンターを狙う)

 がむしゃらに戦うだけだった小中のころとは違う。高校になってから鈴音は、試合の組み立て方を考えられるようになった。ある意味で、須和黒江という最大の壁を前に、一度「諦める」ことを覚えたからかもしれない。理由もなく、ただ真正面からぶつかるようなことはしない。今持っている技術で、どうやったら目の前の強敵を倒せるのか。

 それを考える。

 試合を組み立てる。

(先生が言ってた、沢山武器を持てってのも、こういうことなのかな)

 もっとも、鈴音の持つ武器のほとんどは、高校に入ってから使い方を覚えたものだ。まだまだ未熟も未熟。だからこそ、ひとつひとつのチャンスを大事にしなければならない。がむしゃらに技を放つだけでは勝てないなら、少ない機会を逃さずに技を放つべきだ。

(やっぱり……初心忘るべからずってことだね)

 繰り返すが鈴音の技はまだ未熟だ。カウンター剣道ひとつとっても、相手の動きに合わせて数多に分岐する応じ技のレパートリーを、黒江のように変幻自在に使いこなすことはできない。

 しかし、地道な基礎稽古で会得した穂波のプレースタイルには、これまで戦ってきた剣士達のような目立った隙や、弱点らしい弱点はない。縮地に頼らなくても、すべての技が高水準という、どちらかと言えば沢産が欲するタイプの剣士だ。

 だが鈴音も少ない経験の中で、似たような剣士と戦い、勝ったことがある。宝珠山高校の清水撫子だ。彼女は、下段の使い手というユニークポイントこそあるものの、根本的なところは基本に忠実で隙のない、お手本のような〝美しい剣道〟の使い手だった。

 彼女相手に大金星を挙げられたのは、運を味方につけたところが大きい。相手が何を放って来くるかに関わらず、たとえ読みを外して空ぶったとしても、これだと決めた技で応じる。


 すなわち、ギャンブル剣道。


(とは言え、私もあの時の私じゃない。完全なギャンブルじゃなくって、多少は欲しい技を引き出す術も身につけてる)

 その場合は、ギャンブルではなく何になるのだろうか。

 メンタリズム剣道?

 それともイカサマ剣道?

 そんな世迷い言を瞬時に考えて、またすぐ捨てられる程度には、心も身体も程よく弛緩している。柔能く剛を制す、は柔道でよく使われる言葉だが、実際はあらゆるスポーツに共通して言えることだ。弛緩からの緊張。人間は、その瞬間にパワーを発揮することができる。

(秋保さん、入部したてのころに比べたら、ずいぶん楽しそうに剣道をするようになりましたね)

 脳みそフル回転な鈴音の様子を、穂波はどこか微笑ましく見つめる。彼女にとって鈴音の最初の印象は、どこか遠慮がちで自信がない、だけど走り出したくてうずうずしている、希望と危うさが同居しているような新入生だった。もっとも、それだけなら大抵の新入生がそうだし、二年前の穂波も同じようなものであった。

 鈴音との初顔合わせで穂波は、期待も込めつつ、地稽古で彼女をボコボコにした。その後、鈴音がひどく落ち込んでいたのが、まだまだ記憶に新しい。リーグ戦の時もそうだ。初戦で当たることになって、その時まだ鈴音がスランプだったのを差し引いても、決して良いとは言えない試合内容で、成すすべなく穂波に敗北した。その時も鈴音は酷く落ち込んでいた。

 人は、自分の予想に反した出来事に直面した時に落ち込むものだ。つまり鈴音は、意識してるとしてないとに関わらず、穂波に勝つつもりで戦いに臨んでいたということ。

 初対面かつ部長という肩書を持つ相手に、無意識にそう思える新人はそうそういない。それこそ全国レベルの実力を持っているか、虚栄か謎の自信によるものか。鈴音はそのどちらでもない。むしろ自信が無い方だ。それでも「勝つために挑むことは当たり前だし、そのことで一喜一憂できる」というある意味で純粋無垢なメンタルは才能だ。いわば天性の闘争本能。

 そして今、その闘争本能に結果がついてくるようになった。鈴音は今、剣道が楽しくて仕方がないのである。

(そういうあなただから、先輩とか後輩とか、そう言うのは抜きで……ひとりの剣士として全力で倒す)

 縮地から飛び込んだ体当たりで鈴音の姿勢が崩れる。

(今……!)

 姿勢の乱れは、そのまま呼吸の乱れに繋がるものだ。穂波の〝直感〟が反応しないわけがない。踏み込んだ右足にぐっと力を溜めて、解き放つように後ろに飛びのく。引き技だ。

 完全に虚を突かれた鈴音は、咄嗟に竹刀を振り上げようとするが間に合わない。為すすべ無く迫る穂波の竹刀に、せめてもの抵抗で頭を大きく横に振る。ギリギリのところで、切っ先はメンではなく肩の方に吸い込まれた。

(あっぶな! そうだ、縮地って飛び込みだけじゃないんだった!)

 沢産戦で見せた引き技の縮地。むしろあの時見て、知っていなければ避けられなかっただろう。

(呼吸に関係するんだったら……そりゃ飛び込み以外でも発動するよね)

 気を抜いていたわけではなかったが、鈴音は改めて戦っている相手が誰なのかと言うことを認識した。勝利には至らなかったとはいえ、黒江と互角に打ち合う剣士だ。常に自分の一歩先を行くと思わなければ、やがてその差で置いていかれてしまう。

 鈴音は、食らいつくように引いた穂波の後を追う。かといって立て直しも何もあったものではない。とにかく間合いの内に入ってプレッシャーをかけるのが精一杯だった。

 牽制のように浅めにコテを放つが、穂波は竹刀を翻して防ぎ、返しの刃で追撃のメンを放った。流れるような防御から攻撃への移行には粗雑さなど微塵もなく、まるで舞踏のようだ。どうにか防ぎきる鈴音だったものの、試合の主導権を完全に相手に握られている感覚だけが身に沁みる。

(やっぱ、部長相手に出し抜くのは無理だね)

 文字通り小手先の技術でどうにかなる相手ではない。もっと大勢を決める仕掛けをしなければ、このままずるずる相手のペースで押し込まれるだけだ。妙案があるわけではなかったが、こうして小さな可能性をひとつずつ潰していくことで、残った手札が浮き彫りになっていく。

(結局、一か八かかぁ)

 心の中で愚痴った言葉ほど、気持ちの方は沈んでいない。部長と鈴音とで実力差があることは歴然なのだから、埋める手段として運否天賦に頼るのは、決して悪い賭けではない。勝てば全国という正念場ならなおさらだ。

(よーし、一丁やってやりますか)

 鈴音を突き動かすのは、「あの部長に勝ってみたい」という、ただそれだけの純粋な思いだった。

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