縮地、破れたり

「さて……まず顧問としては喜ばしいことだ」

 準決勝の開始を前に、鑓水先生は私と部長を交互に見比べて告げる。

「少なくとも、私の知る限りであこや南の選手が公式戦で戦ったことは無い。そもそも同校の選手は別々のブロックに振られるからな。ベストフォー以上に複数人残らない限りは、実現しない対戦カードだ。それを私が見てる世代で実現できたことは、顧問冥利に尽きる」

「鑓水先生って、そんなに長くここで顧問やってるんですか?」

「あ?」

 恐れを知らない竜胆ちゃんの質問に、先生の目つきが一瞬、殺し屋のように鋭くなった。みんなゾクリと悪寒で身体を震わせる中で、当事者の竜胆ちゃんはあっけらかんとして首をかしげる。

「……今年で六年目になる」

 一瞬見せた形相を抑えて、先生は明後日の方向を見上げながら答えた。竜胆ちゃんが「おっ」と目を丸くして食いつく。

「じゃあ、前の全国大会メンバーの時も? 先生、実はめっちゃやり手!? 名コーチ!?」

「やれるだけのことを尽くして、部員が応えてくれただけだ。規格外のヤツが居たのもあったが」

「そんな彼女たちに負けないよう稽古を積んできました。だから、先生をもう一度全国へ連れて行くことができます」

 そう語る部長の声色に、緊張は感じられなかった。

 個人戦は二位までにインターハイ出場のチケットが送られる。つまりベストフォーで私たちが鉢合わせた時点で、どちらかのインターハイ出場は確実なものとなったわけだ。

 先生が、短いため息をつく。

「馬鹿を言え、今は個人戦だ。私の事よりも、部のことよりも、自分のことだけを考えろ。それくらい貪欲になってこそ、インターハイでも爪痕を残せる」

「あ……すみません」

 口にした手前、部長はバツが悪そうに頭を下げた。その頭を、先生がわしゃわしゃと強引に撫でつける。

「お前は部長だ、胸を張って前だけ見てろ。お前たちは、そういうチーム作りをしたんだろう」

 誰が応えるわけでもなく、おそらくみんなが心の中で頷き返した。いきなり撫でられた部長は、いくらか戸惑った様子でぼさぼさになったショートヘアを、さっと手櫛で整える。そいういう仕草は、見た目相応に子供っぽいな。微笑ましくて、思わず笑みがこぼれる。

「気を抜いて、後輩に足元を掬われるんじゃないぞ。鈴音も、先輩だ何だ面倒なことは考えないで自分が勝つことだけに集中しろ」

「は、はいっ」

 いきなり話を振られて、私は緩んでいた表情を今一度引き締めた。その様子を見て、先生は満足げに頷く。

「今、この場で私が興味があるのは、お前たちのどちらが県代表に相応しいのかということだ。答えは結果で示せ。以上だ」

「はい!」

 最後の返事は、部長とふたり、自然と声が揃っていた。心の底では、同じ部の一員だということに変わりはない。だからこの戦いは、互いを仲間として尊重し合ったうえでの腕試しなんだ。




「秋保さん」

 面をつけ終えたころに声をかけられて、見上げると、既に準備を終えた部長がそこに立っていた。私は、慌てて小手をはめて立ち上がろうとするけれど、部長がジェスチャーで「そのままで」と示す。

「繰り返しになってしまうかもしれませんが、先輩後輩関係なく、互いの力を尽くしましょう」

「はい、よろしくお願いします」

 私は、自分のペースで準備を終えてから竹刀片手に立ち上がる。面と向かって立って並ぶと、やっぱり部長は小さい。頭がちょうど私の胸のあたりで、今年中学生になった親戚の従妹くらいだ。

 だからと言って、侮るという気持ちは毛頭ない。今でも頭の中では、どうやって戦ったら良いのか、あれこれ考えてばっかりだ。五里霧中で出口は見えず。

 すると、トンと胴越しに、お腹の辺りに優しく触れられる感触があった。部長が、手のひらで優しく胴の表面を撫でていた。コバルトブルーの、揃いのレギュラー胴。チームの証。

「先生もそうですけど……これをもう一度全国の舞台へ連れて行くことが、私の目標でした」

 部長が、どこか嬉しそうに目を細めながら言う。

「ここには、歴代のあこや南高校剣道部メンバーの夢が詰まっています。現役生として、その夢の頂に私たちは立っています」

「はい」

 お腹のあたりに、じんわりと熱を感じた。胴の裏に刻まれた数多の寄せ書きから、私の中に伝わって来る熱だ。つい数ヶ月前に山形へやってきた私には、この想いを抱えるのは荷が重い。それでも、このベストフォーという場所までまで歩いてきたのは私だから、どんなに重くても、負けずに胸を張っていたい。

 思わず背中を丸めそうになっても、背筋を叩いてくれる友達がいる。仲間がいる。そして、歩き方を教えてくれた黒江がいる。

「彼女たちに恥じない戦いをしましょう」

「はいっ!」

 彼女たちに恥じない戦いをしよう。歴代の想いは抱えきれなくても、せめて入学からこれまでに知り合った皆に恥じない戦いを。私を信じて、私に賭けてくれた黒江に恥じない戦いを。

 振り返ると、当然のように彼女の姿がそこにあった。相変わらず憂いを帯びて、どこか大人っぽい切れ長の眼。その瞳の輝きに私は応えたい。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 たったそれだけのやり取りに勇気と力を貰った。ずっと勝ちたいと、越えたいと思っていた目標だったのに、今ではもう隣に居なくてはならない存在だと身に染みる。いいや、そもそも勝手にライバル視を始めた時から既に、秋保鈴音という剣士は、須和黒江とい剣士のおかげで成り立っていた。

 心の霧は今だ晴れない。この霧の濃さ、広がりは、そのまま八乙女部長という存在の大きさだ。道はどっちに続いているのか分からない。だけど、歩き続ければ、いつかは霧の外へと出ることができる。大事なのは真っすぐ進むこと。途中で道を曲げないこと。この方向で良いんだと自信を持つこと。


 歩みを進めた先に、求めてやまない光があると信じて。




* * *




「――はじめっ!」

 試合開始の合図と共に鈴音は、するすると二歩分ほど間合いを開いた。鈴音にとって、穂波の脅威は〝縮地カッコカリ〟ばかりではない。黒江曰く、その礎である強靭な体幹と鍛え抜かれた足腰から繰り出される、爆発的な踏み込みがある。竜胆が使う〝静と動〟――彼女のあり余る力を溜めて、溜めて、溜めて、爆発させるロケットスタートのような必殺の踏み込み――にも似た一級品の技を、さも当たり前のように放ってくる。それは穂波の特異性でもなんでもなく、長年、毎日毎日、地道に積み重ねてきた足腰の基礎稽古の賜物であった。

 そんな穂波が得意とする間合いは、一般の剣士に比べて抜群に広い。構えは基本に忠実な正眼ながら、上段の片手打ちにも匹敵するほどの距離から、有効打を放つことができる。そこへ上段ではなく中段で挑むことにした鈴音は、普通に考えたら距離を取らずに、自分の間合いである近い距離で戦うべきだ。それでも間合いを開けたのは、ひとえに〝縮地カッコカリ〟を打ち崩すためである。

(部長の縮地は、初動だけはハッキリと見える。そのあと消えたみたいに、気づいたら打たれてるってパターンがほとんど。だから距離さえあれば、対処はできる……はず)

 打ち崩す自信があるわけでもないが、そもそもカウンター剣道とアンチカウンター剣道を組み合わせるなんて運用の仕方自体がつい先ほど聞かされたばかりだ。果たして穂波相手に有効なのか。そもそも、組み合わせて運用なんてできるのか(黒江は、船越戦でできていたと言っていたが)。すべてにおいて半信半疑の状態を打破するためにも、序盤は〝見〟に回ろうと決めたのだ。

 そんな鈴音の心中を知ってか知らずか、穂波はいつもと変わらない強気の攻めで応戦する。竹刀の先皮が触れるか触れないかという遠間から、ズドンと鉄砲玉みたいに鈴音の懐へと飛び込む。

 黒江に言われてから、鈴音も注意深く穂波の動きを見るようになった。稽古中も、大会中も、注意深く。

(……確かに、異常って言っていいくらいだね)

 頭から地面にかけて身体に一本芯が入ったような穂波の身体は、ホバークラフトのようにぬるりと自在に動く。頭と腰の位置・高さを動かさない、〝縮地カッコカリ〟を支える足捌きだ。

 並の剣士なら、技を打ち込むために大股開いて飛び込む際、大なり小なり、どうしても上下に跳ねるような動きが加わる。文字通り飛び跳ねているわけだから、仕方のないことだ。つまり、踏み込みの動きを線グラフで表せば、直線ではなく山なり。だが穂波の踏み込みは、スタートから終わりまで動きがほとんど直線である。山なりの無駄が無い分、より最短距離で相手の懐まで届く。

 時間にすればコンマ数秒の差だが、コート上で勝敗を分けるのもそのコンマ数秒だ。

 穂波の打ち込みに対して、鈴音は防戦一方に回っていた。間合いが遠い分、切っ先が懐に届くまでも多少時間がある。よく見ていれば防ぐこと自体は容易だ。

(だけど、カウンターする余裕なんてないよ……それに、リズムをずらすとかも意味なさそうだし)

 鈴音の心に、黒江を信じる気持ちはある。だが、どうしたらいいのか分からない。それが現実問題だった。

(そもそもアンチカウンター剣道なんて言えば聞こえはいいけど、やっていること自体は大げさなフェイントなんだけど)

 彼女がアンチカウンター剣道と呼ぶものは、動きのリズムを意図的に崩すものだ。応じ技はタイミングが命なのだから、相手が「来る」と思っている瞬間には行かず、逆に「来ない」と思っている瞬間に行く。それが攻略のカギになると、中学時代の鈴音は睨んだ。それを体現するために培ったのが、大げさなフェイントの技術だ。

 フェイントは、間合いの攻防ではよく使われている技術だ。竹刀の切っ先を払ったり、大きな足音を立てたり、挑発するように踏み込んでみせたり。そうやって相手の防御姿勢や、不用意な打ち込みを誘って隙を作り出して、一本を狙う。

 張りつめた緊張の中では、僅かなフェイントでも絶大な効果があるが、これがカウンター剣道――黒江相手であれば、そうはいかない。些細なちょっかいなんて意に介さない彼女には、本当に打ち込んだと思わせるような気迫が必要だ。だから大げさにやる。大げさに試合の流れとリズムをずらす。それがアンチカウンター剣道と言うものだと鈴音は思っていた。

 応じ技に重きを置いた黒江相手になら効果もあるだろう。カウンターは、相手が打ってこそだ。そこに重きを置いている以上、仕掛けるタイミングを鈴音が握ってさえいれば、対処の光明も見える。だが、一般的な剣士相手では、大げさなフェイントなんていうのは格好の的でしかない。フェイントである以上は結局打たないわけなので、ただこちらの隙を晒すだけ。仕掛け技を好む選手にとっては、打ち込み人形を相手にするのと大差がない。

 黒江にしか効かない剣道を習得したことによる、鈴音が中学後半で陥っていたスランプの本質はそこにあった。

(でも、黒江は違うって言う。やっぱり、理屈を知らなきゃ活かすことだってできないよ)

 それでも黒江を信じているから、鈴音は言われた通りにフェイント主体の攻めで穂波に対峙した。中学時代と違うところがあるとすれば、仕掛け技を主体としていた当時の攻めるためのフェイントではなく、カウンターを主体とする守るためのフェイントだと言うことだ。

 一度間合いを切って、ふたりの切っ先が交差する。鈴音は相変わらず二歩ほど間合いを取ろうとするが、穂波は追従するように二歩前へと攻め込んだ。

(う……遠間に乗ってくれなくなった)

 鈴音が顔をしかめる。当然と言えば当然の流れだ。遠間で打ってことごとく防がれているわけだから、穂波だってより確実に決められる間合いでの勝負を望む。鉄砲玉みたいな打ち込みを押さえて、じっくりと間合いをせめぎ合って必勝の一打へと繋がる瞬間を探るために。

(諦めるしかない、か)

 逃げ回ったところで、コートはそれほど広くはない。追う者と追われる者。諦めるのは大抵、追われる者だ。ドクドクと心臓の高鳴りが耳にまで届くようだった。まだ序盤も序盤、疲れから来たものじゃない。気を抜いたら、相手の姿が消えてしまうのではないか――極度の緊張の中で、心臓が悲鳴をあげているかのようだった。落ち着けるように、ゆっくりと呼吸を繰り返す。


 吸って、吐く。

 吸って、吐く。

 吸って――


 その瞬間を見定めたように、穂波が跳んだ。

 動き出した瞬間を、鈴音は確かにその目で見ていた。盗まれた。そう認識できたのは、黒江に散々穂波のことを聞かされていたからだろう。いつもならこのまま、気づいたら穂波は真後ろまで駆け抜けていて、何事も無かったかのように残心を取っている。

 しかし、今回ばかりは違った。

(あれ……まだ来ない)

 刹那の時間の中で、いつになっても打突の感触が来ない。気づかれたら打たれている、それが縮地なのに。不可思議な感覚の中で、半ば反射的に鈴音は身を引いた。竹刀を斜めに立てての防御姿勢だった。

(……?)

 穂波が驚いたように目を丸くして、ぽかーんとおちょぼ口を開いた。穂波の一撃は、鈴音の刃に阻まれて虚空へ振り抜かれていた。彼女はすぐに間合いを切って構え直す。鈴音の方も、どこか虚を突かれた様子で、小さく首をかしげる。

(今のって縮地……だったのかな?)

 確かに、これまでの打ち込みとはキレも速度も全く違う、必殺の一太刀ではあったかもしれない。だが、何度もボコボコにされたあの、目の前から消える太刀ではなかった……ような気がする。相手の動きの終始が見えていたわけではないけれど、こんなに簡単に防げてしまうことなんて、今までは一度もなかった。

(よくわかんないけど、もしかして守るだけなら私にもできる……?)

 黒江のようにカウンターを合わせることはできなくても、全力で守るだけならば――それは間違いなく、鈴音にとっての光明だった。


 守れるのなら、怯える必要はない。

 守れるのなら、他の技へのカウンターに集中できる。


 ――穂波相手に、一本を狙える。

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