すべてを出し尽くす
「じゃあ……黒江は、伊地知さんが辞めたから、自分も剣道を辞めたの?」
彼女の話を整理すればそういうことになる。
「そればかりの話ではないけど」
「目標を失ったから?」
黒江は、少しだけ考えるように俯いてから、小さく首を縦に振った。
「負けたまま置いていかれてしまったら、立ち止まることしかできない」
そんな言葉を、いつもと変わらない表情で、なんてことないように語る。初めから、そこに熱なんてなかったみたいに。
「そんなの勝手すぎる」
「勝手?」
「私だって同じ気持ちで黒江のことを追ってた」
私だけじゃない。清水さんだってそうだった。いいや、きっと彼女だけじゃない。日本中の剣士が黒江のことを追いかけていた。憧れ、目標にし、食らいつこうと必死だった。
「黒江が辞めたら、同じことだよ」
「それも勝手でしょ」
黒江が、私の目を待っすぐに見つめる。
「私は、誰かの目標になるために剣道をやっていたわけじゃない」
そうだろうけど。でも。
「日本一には日本一の責任があるよ」
世代すべての剣士たちの夢を破って黒江はその頂に居る。日本一とはそういう存在なんだ。だから、そんなこと言われたくない。他ならない黒江の口から。
「でも、鈴音は私が辞めていてもいなくても、自分の意志で剣道を辞めたんでしょう?」
「そ、それは……」
「なら、鈴音に私を責める資格はない」
何も言い返せなかった。黒江の言う通りだ。この学校に入って、黒江と再会しなければ、私は今ごろ剣道とかけ離れた生活をしていただろう。手足にマメを作って、臭い防具に身を包んで、喉が枯れるほどに声を上げることもない。全国までは目指してない、汗を流す程度の部活をやって、学校帰りに甘い物を買い食いなんてしちゃったり。そんな、春休みに想いを馳せていた通りの女子高生生活を送っていたはずだ。
彼女の言葉通り、私に黒江を責める資格はないだろう。
でも、私たちは出会ってしまった。
一度道が交わってしまえば、もう他人事では居られない。
「黒江には目標が必要なんだね」
だから、部活に戻るためにあんな条件をつけた。剣道をやる意味。是が非でも倒さなければという相手さえいれば彼女は再び剣を取る。私は託されたんだ。黒江に。そして、黒江を待ち望むすべての剣士たちに――なんていうのは大げさかもしれないけれど。結果としてはそうだ。
そもそも、黒江が剣道を辞めたことを知る人間が、どれだけいるだろうか。今も日本中で、高校生になった黒江を倒すために、腕を磨いている剣士たちがいるかもしれない。いいや、いる。それだけは断言できる。
だって、たった今、私自身も、竹刀を振りたくてうずうずしてるんだから。
「黒江、稽古しよ」
「え?」
居てもたってもいられず立ち上がった私を、流石の黒江も戸惑ったように固まり、見上げる。
「合宿中は上段のことばっかり考えてたから、黒江の稽古を全然つけて貰ってないし。それに、少しでも齧ったせいか、気になることも増えたんだ。例えば……上段相手に応じ技を決めるには、どうやって攻めたら良いのかとか」
あの時、本気を出してくれた日葵先輩相手に、私は一歩も動けなくなってしまった。どう攻めたら良いのか、どう戦況を構築したらいいのか、ひとつも見えなかったから。高校剣道で強くなるには、上段の選手と戦うことは決して避けられない。なら、少しでも早く、上段との戦い方を身体に沁み込ませるしかない。
何度も何度も反復練習をして、いざという時に、考える前に身体が動くようにする。稽古はそのためにする。一分一秒が、私にとっては貴重なんだ。
「庭くらいしかできるところが無いけどいいの?」
「いい。私も地元に居たときは、よく庭で素振りしてたし」
「道着も防具もないけど」
「今、お洒落してこなかった自分を褒めてるとこ。防具つけなくたって、できることはあるでしょ。あと、竹刀だけ貸して」
黒江の淹れてくれたお茶をぐいっと飲み干して、ついでにお菓子も頬張れるだけほおばっておく。運動前の水分とエネルギーは、これでバッチリだ。
私のことをぽかんと見つめていた黒江も、やがて小さく笑みをこぼして立ち上がる。
「人の家に遊びに来て、やることが稽古って。鈴音は変わってるね」
「常識人じゃ、日本一にはなれないよ」
黒江を倒すのは私だ。それはただの目標やスローガンじゃなくって、叶えるべき使命だ。他の誰にも渡さない。とっくに剣道を辞めた人のことなんて、私が忘れさせてやるんだ。
それから、すっかり陽が傾くまで稽古をして、汗だくになったものだからシャワーまで借りてしまった。人の家のお風呂ってなんだか落ち着かないけど、汗だくで街に繰り出すことはできない。女子高生として最低限のエチケット。
同じく汗だくになった衣類は乾燥機つきの洗濯機に放り込んでいるので、その間、黒江の服を借りることになる。
「ごめん。それくらいしか貸せるものがなくって」
「いや、まあ、これはこれで」
借りるとは言っても、私と彼女の体格差だ。ほとんど着られる服は無く、結局彼女が持っているジャージを借りることにした。裾も袖もつんつるてんだけど、これなら七分丈ファッションっぽく見えなくもない。
服が渇くまで家に居させて貰えるから、誰に見せるってわけでもないけど。他でもない黒江に、イマイチな恰好を見せたくはない。
「それにしても黒江、剣道辞めたって言ってる割に動きが衰えないよね」
普段も、今日の稽古も、黒江は息のひとつも弾ませやしない。私なんてこの一ヶ月、すっかり半年間のブランクに打ちのめされているっていうのに。
「素振りは毎日してるから」
黒江の解答は、なんとも単純明快だった。
「え……剣道やめたのに?」
「そう」
「……なんのために?」
「なんのためって……日課だから?」
彼女は、眉をひそめて首をかしげる。そんな不思議ちゃんみたいなムーブかまされても、私の方が「?」だよ。
「黒江って、剣道自体は好き?」
「普通かな。嫌いではないよ」
「ますますわからないよ」
目標が無ければやる意味が無いって言いながら、稽古は当たり前のようにこなす。確かに選手をやるつもりはないのだろうけど、剣道から遠ざかるわけじゃない。遠ざけるわけでもない。意識もしていない。息をするように竹刀を振る。剣道は特別なものじゃなくって、生活の一部。ううん、むしろ、生活そのものが剣道?
「まだ、その域じゃないなぁ……私」
私はまだ、稽古するために稽古するって感じだ。黒江みたいになるためには、きっともっと稽古を積まなきゃいけなくって。そのために稽古を……あれ、なんかよく分かんなくなってきちゃった。
「服、乾いたよ」
「え! あ、ありがと」
考え事をしていたら、目の前に黒江が私の服を手に立っていた。慌てて受け取ったTシャツは、乾燥器の余熱でほんのり温かかった。
「――っていうことがあってさ。意識の違いを見せつけられた私でしたとさ」
『なんで、おしまいおしまいみたいに言うのさ』
スマホの向こうから、あやめの大笑いが聞こえる。久しぶりの休みだから、ちゃんと課題をこなそうと思ってテキストとノートを開いた矢先、彼女から電話がかかって来たものだから、繋ぎっぱにして小一時間に至る。
なんだかんだで、ちゃんと話すのは久しぶりのことだった。あやめは寮生活で私に比べれば自由な時間は少ないし、部活だって忙しいはずだ。彼女が通っているのも北海道の強豪校だから、練習量だってかなりのものだろう。ウチだって負けちゃいないと思うけど。
引っ越す前は「毎日電話しようね」なんて、遠距離前のカレカノみたいな会話をしたのに、結局一週間そこらでそれどころじゃなくなってしまった。
『ゴールデンウィークも帰ってこないしさぁ。ウチへの愛が足りないんじゃないの?』
「合宿入っちゃったから、ごめんて」
『ま、ウチも合宿だったから、帰って来てても会えなかったかもだけど』
「寮生活してるのに、さらに合宿もあるの?」
『道内の強化合宿があったのさ。ほら、今年のインターハイ、北海道だからさ』
「ああ、なるほど」
そう言えば、そうだっけ。中学の部活にいたころ、顧問からそんな話を聞いたような覚えがある。そっか……全国に残ったら、ついでに今度こそ里帰りできるかな。インターハイへのモチベーションが、また少し上昇した。
『開催地だから枠も多いしさ、ウチらは今年、全国いくよ』
「言うねぇ。ところでレギュラーは取れそうなの?」
『それはまだ企業秘密』
あやめは、勿体ぶるように鼻を鳴らした。こういう時の彼女は、調子がいい合図だ。気分が態度に出やすい、私の親友。
地区大会まで、あと一ヶ月を切ってる。ゴールデンウィークが明ければ、最後の調整期間だ。やれるだけのことをやる、はやめよう。すべてを出し尽くす。三年生の先輩たちと同じように、私自身にとっても、今年が最後の大会であるかのように。
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