ファインド・ザ・ウェイ

「てか、なんか静かじゃないですか?」

 興奮冷めやらぬ中で、道場内の異様な静けさに気づく。そもそも騒がしくしてる方が間違ってるんだけど、それにしても静かすぎる。練習の気合すら響かないなんて。

「アレだアレ」

 中川先輩が、野暮ったそうな顔で彼方を指さす。静まり返った場内で、凛として竹刀を向け合う二人。他の部員たちもみんな稽古を中断して、その勝負の行方を見守っていた。

「黒江……」

 黒江と八乙女部長の一騎打ち。合宿中、絶えず行われていた戦いは、まさに佳境を迎えようとしていた。

「竜胆ちゃん、これ、どういう状況?」

「まだどっちも一本なしのイーブン」

「これまでの戦績は?」

「え~、最初の方は見てないから、ちょっと分かんないかな」

「そっか、ありがと」

 黒江なら負けてはいないはず……だけど、目の前のふたりが放っている緊張感は、これまでの比じゃない。だからこそ、みんな稽古を止めて、二人の試合に目を奪われてしまっている。

 勝負は、一進一退の間合いの攻防にもつれ込んでいた。互いにけん制のように踏み込んでは離れる。得意な形を作るため、相手に〝仕掛けさせる〟黒江の得意とする剣道。しかし、部長も簡単に誘いに乗りはしない。仕掛けるなら自分のタイミングで、自分が〝決められる〟と思った瞬間に仕掛ける。

 その様子は、ほとんど真剣による立ち合いのようだった。一瞬の油断、一瞬の太刀傷が勝負を左右する。竹刀なら技が外れたところで打撲が増えるだけだけど、真剣なら肉を裂く。骨を断つ。致命傷にならずとも、触れるだけで戦意と戦力を削がれる。だからこそ、不用意に構えを解けない。切りかかれない。一刀で決められると確信できる、その瞬間までは。

 これは、そういう静けさだ。

 黒江……負けないで。仲間同士の勝負だ。どっちを贔屓するなんてことは本来ないんだけど、それでも私は黒江を応援する。約束したから。

 部長が踏み込む。黒江は合わせるように、僅かに下がる。

「あっ」

 と言う間に、部長がさらに大きく踏み込んだ。黒江の足が着地した瞬間。僅かな緩急の緩を狙って勝負に出た。真っすぐに。実直に。

 伸びた竹刀が黒江の面に吸い込まれる。

 黒江の眼が、珍しく見開かれたのを見た。小さく息を吐きながら、後ろへ抜けていった部長の背中を振り返る。部長もまた、小刻みに肩で息をしながら黒江を振り返る。

「今のって……もしかして縮地発動した?」

 誰に問うでもなく、安孫子先輩が呟く。見るからにそうなんだけど、不安になるのも無理はない。だって、黒江に部長の〝縮地カッコカリ〟が発動するところを見たのは初めてのことだったから。

 当事者ふたりの間に流れる静寂が、それを如実に物語っていた。

「部長」

 黒江が口火を切るように声を上げる。

「今の、もう一本ください」

 口にした黒江の口角がニィとつり上がる。ああ、覚えてる。あの時の黒江の表情だ。

「はい」

 八乙女部長は、喜ぶでも怒るでもなく簡潔にそう答える。答えは剣で示すと言わんばかりに。

 胸がぎゅっと苦しくなった。あそこにいるのがどうして自分じゃないんだろう。答えは分かり切っている。私はまだ、そのステージに立つレベルじゃないからだ。

 全国に届く者にしか見えない景色がそこにある。


「結局、黒江が二本取り返して勝利かぁ。さすがだねぇ」

 稽古が終わって、全員で道場と合宿施設の大掃除を行う。

 割り当ては一年生が合宿所の掃除。二年生が道場。三年生は倉庫の備品チェック。稽古終わりでくたくただけど、人だけでなく道具から場所まで、取り巻くすべてのものに感謝の心を忘れない。それが情操教育――〝道〟としての剣道だから苦ではない。

「黒江、部長の縮地で取られたのって、あの一本だけ?」

 古新聞で窓を拭きながら、畳の水拭きをする黒江に尋ねる。

「そう」

「むしろ、よくそれまで取られなかったね」

「気を付けてたから」

 なるほど、気を付けてた――

「え、気を付けてどうにかなるの、あれ!?」

 驚いた拍子に、新聞紙がびりって破けた。他の一年生たちも同じみたいで、みんなびっくりした様子で黒江を振り返る。黒江は視線をものともせず、箒の先に視線を落としながら頷く。

「八乙女さん、動く時に頭の位置が変わらないから」

「……どゆこと?」

「軸がぶれない。変に跳ねたり、沈んだりしないで、すり足でも、打ち込む時も、ずっと一定の高さのまま変わらない。面金越しの視界の狭い状態でそれに対峙すると、動いているのかいないのか、分からないくらいに錯覚する」

「そ、そんなことできるんだ」

「長年の基礎訓練……それこそ足捌きと踏み込みの研鑽の結果。あとは呼吸……かな」

「呼吸?」

「人間は必ず呼吸する。息を吐く時、身体は力を発揮できる。剣道で気合を出したり、重量挙げとかで叫んだりするのはそのため」

「ああ、それ、小学校の時に道場の先生が言ってたかも。声を出すことで、力が出るんだって」

 井場さんが思い出したように付け加えてくれた。確かに、陸上選手とかも叫んだりするよね。あれって、それこそただ気合入れるためとかじゃなかったんだ。

「逆に、息を吸う時は全身が弛緩している。先輩の縮地は、そこを的確に突いてくる。狙えることじゃないから、決まったり決まらなかったりっていうのはそのせい。だけど……」

 黒江の箒が止まる。彼女はどこか虚空を見つめ、小さく息を吸って、吐いた。

「最後の一本、先輩は、私の呼吸が見えていたような気がする。私が息を吸うタイミング……弛緩するタイミングを的確に狙って飛び込んで来た。呼吸を乱さないよう気を付けてたのに」

「呼吸が見えるってどういうこと?」

「分からないから、そう表現するしかない。でも、きっとそれが、八乙女さんが見ている世界」


 ――他に見えるものがあるなら知りたい。

 ――私はずっと、その答えを探していた。

 

 練習試合の後、黒江が口にした言葉が蘇る。黒江はいったい、どんな景色を求めているんだろう。どんな景色を見たいんだろう。

 むしろ彼女には今、どんな景色が見えているんだろう。

 すると藤沢さんが、雑巾がけの手を止めてうーんと唸る。

「先生はもしかして、〝カッコカリ〟を外すために須和さん相手に武者修行させたのでは?」

「あ、それはありそう! 黒江に通用するなら、他の全国区の選手にも通じるだろうし」

 竜胆ちゃんが、追従するように頷く。

 全国――そう、全国で勝つための技。部活を頑張るスローガンじゃなくって、本気で全国を目指している。この部は、そういう場所なんだ。

「鈴音ちゃんも、日葵先輩と試合してたでしょ? どうだった?」

 思い出したように、竜胆ちゃんががっちりと私の首根っこをホールドする。身長差のせいで、私はほとんど屈むような恰好だけど。

「うえっ……ま、まあ、すごかったよ。あとは、人見知りさえ直せたらなぁ」

「そう言えば、あの似合うんだか似合わないんだか分かんないキザな台詞、あれも先生の案らしいよ」

「え、なにそれ?」

「言葉は人間を作るから、まず口調から変えろって。一年の時からの課題なんだって」

「ああー」

 それでかぁ……いつも思い出したように、いかにも演技っぽいのって。

「てか竜胆ちゃん、それどこ情報?」

「杏樹先輩が言ってた」

「それは、なんか信憑性あるね」

 だとしたら、今年の課題はなんだったんだろう……?

 結局教えて貰えなかったけど、この合宿は先輩たちにとって少しでも実入りのあるものになったのかな。貰ってばっかりで返すものがないなんて、それはそれで悔しいし。

「みんな、強くなってんなぁ」

 竜胆ちゃんのホールドが、ふっと緩んだ。いつもの彼女らしい無邪気な言葉じゃなく、どこか寂し気な声色で。私は思わず、彼女の横顔を覗き見る。

「鈴音ちゃん、どした? かわい子ちゃん大接近でときめいちゃったか」

 そこには、いつもと変わらない竜胆ちゃんの笑顔があった。私の気のせいだったかな……?

「あはは、そうかもね」

「まじかぁ。じゃあ、デートコース考えなきゃなぁ」

「一年、何遊んでんだ! もう道場の掃除終わったぞ!」

 開け放った襖の向こうから、中川先輩の怒声が響く。

「すみません! あとごみ捨てたら終わります!」

 みんな飛び上がって、そそくさと掃除用具の片づけを始める。いけない。稽古が無事に終わたからって、気が緩んでしまった。有体な言葉を使えば、家に帰るまでが合宿なんだから、それまでしっかりしなくっちゃ。

「この後、道場でミーティングだからな」

「はい!」

 ゴールデンウィークが終われば、夏はすぐそこだ。あと一か月後には、今年の全国行きの切符が行きわたる。県内……ううん、全国の選手にとって、仕上げの一ヶ月が始まる。悔いの残らないよう。最後に笑っていられるよう。

 絞り出して。やりつくして。このひと月で青春を燃やす。

 私にとって初めての夏が、誰かにとっては最後の夏になる。

 先輩たちにとっては、最後の夏に。

 だから全力で挑むんだ。

 この夏を、できるだけ長く続けるために。


 日本一になるまで続けるために。

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