阿修羅のごとく

『ツキあり!』

 決まった。放った人間自らがそう思えるほど、完璧な一本だった。手のひらから、気持ちよさがびりびりと脳髄まで響き渡る。こんな感覚はいつ以来だろうと、鈴音は息を整えながら半ば放心したように立ちすくんだ。先の練習試合、清水撫子戦ではギリギリの戦いで、意識すらハッキリしていたかどうか怪しい。だが今の突きは、自分の意志で、自分のタイミングで――顧問の鑓水が嫌いな言葉を使うことになるけれど〝自分の剣道〟で、一本をもぎ取れた。攻めっ気が強い、仕掛け技主体の剣道。久しく忘れていた勝利の余韻。

 とはいえ、試合の流れで言えばまだ勝敗は決まっていない。お互いに一本ずつのイーブン。勝負は三本目にもつれ込む。

 生唾を飲み込んで、鈴音は踵を返して開始位置まで戻る。その背中を、日葵の憂いを帯びた瞳が見つめていた。

 (突きは……頭に入れてなかったな)

 打って来るわけがないと勝手に決めつけて、注意すらしていなかった。鈴音の読みは、いい意味でも悪い意味でも正しかった。日葵が鈴音に対して全力を出せないのは、彼女がまだ「入部して一ヶ月の新人ちゃん」だからだ。それ以外の理由はない。もともと嫌われるのが怖いという思いで剣道はやっているけれど、相手が出会ってひと月そこらの、気心の知れない相手ならなおさらだ。

 初対面の相手には敬語で話すように。

 相手を立てて、社交辞令を口にするように。

 多くの人が当たり前にやっていること。人見知りな日葵の場合は、その期間が他の人よりも著しく長いというだけ。そして大抵の場合、高校のたった三年間という期間の中では、気ごころ知るところまで踏み込めないというだけだ。

 だが、目の前の一年生は果敢に飛び込んで来た。それこそ、こっちの気ごころなんてお構いなしに、自分の都合で。日葵は思わず、ふっと笑みをこぼす。

(私も、昔はそうだったのかな)

 少なくとも、自分の記憶にある限りでは、北澤日葵という子供はもう少し社交的というか、誰とでもすぐに仲良くなるような子だった。身体が大きいこともあって、みんなの注目の的で、リーダーだった。それが、今みたいに臆病になってしまったのはいつからのことだろう。

 いいや、そんな思い出に浸るよりも、今は目の前の試合に集中するべきだと、日葵は大きく息を吐く。鈴音が、本気で、本気の自分と戦いたいんだって気持ちは、日葵にも十分に伝わっていた。そのために試合中ですらあの手この手を考えて、実践してくれていることも。すごくありがたかった。それくらい、自分に興味を持って、踏み込んできてくれるなんて。

 せめて、目の前の子の思いには答えたい。自分にとってどれだけ大変なことであったとしても。北澤日葵は、基本的に、身を削る献身的な人間なのだ。

(鈴音ちゃんは、負けず嫌いで、自分勝手な子だね……羨ましいよ)

 薔薇の「勝負!」の掛け声と共に、再び上段の構えを取る。審判の掛け声から、選手の気合の一声が放たれるまでの静寂の時間が、日葵は何よりも好きだった。明鏡止水。コートの上で、自分が世界の一員であることを実感できる。

(受け止めてくれるんだよね……? 君の想いを、私は信じるよ)

 ぞくりと、鈴音の背筋を悪寒が走った。それは悪い予感を意味するわけではなく、単純に、目の前の恐怖に対する身体の防衛反応だった。

(違う……今までと、何もかも)

 対峙する日葵は静かだった。蛙も冬眠してしんと静まり返った、冬の池のように。事実、鈴音は足が凍り付いたように、その場からピクリとも動けなくなってしまった。動いたら負けると、心と身体の両方が理解していた。

 日葵はただ、じっと鈴音のことを見つめている。振り上げた両手の合間、面金の隙間から、彼女の整った顔が覗く。かっと見開かれた眼から、ぎょろりと覗く瞳が、やけに大きく見える。静かに、物言わぬ佇まい。しかし放たれる気迫は、まるで金剛力士像と相対しているかのようだった。

 このままでは気圧される。鈴音は己を奮い立たせるように、ありったけの気合を発する……が、それにかぶせるように日葵の何倍も大きな気合が、道場の壁をビリビリと震わせた。鈴音が息を飲むと、再び辺りに静寂が訪れる。

 日葵が動いた。上段から放たれる、一撃必殺の片手面。心と身体が完全に守りに入っていた分、鈴音はすぐさま反応して、受け止める。鉄の棒でも振り下ろされたような衝撃が全身を伝う。

(重っ……!)

 押し込まれそうになるが、鈴音はどうにか受け止める。ほっと一息をついて、鍔迫り合いに持ち込むべきか、離れて距離を取るべきか考えていた視界の端に、もう一度竹刀が閃いた。

 理解するよりも先に、身体が反射的に動く。もう一度竹刀を頭上に掲げ、再び降り注いだ日葵のメンを、鉄槌を、体いっぱいつかって受け止める。

(ど、どこから飛んできたの、今!?)

 片手技を放った場合、普通なら次の一撃を放つために両手で持ち直す必要があるため、二撃目には大なり小なりのラグが生まれる。片手技と連撃は相性が悪い。ゆえに、二の太刀要らずの必勝の剣を目指す。

 だと言うのに、日葵の二撃目は、ほとんど間髪おかずに鈴音の頭上に閃いた。諸手に構え直す暇も、それこそ竹刀を振り上げる暇すらもなかったはずなのに。

 鈴音は不安を拭い去るように、慌てて引いて距離を取る。何が起きたのか、落ち着いて見定めたい。だが、日葵はそれをよしとしない。

 付かず離れず、間合いを維持したまま迫る日葵が、再び上段の状態から竹刀をひらめかせる。今度はメン――を打つと見せかけてのコテ。フェイントもまた上等手段だが、鈴音は己の反射神経任せで防ぐ。不格好な姿勢になっても、まずは防ぐことが最優先だった。甘い考えでは、守りの上から叩き斬られそうだった。

 次こそは、日葵の太刀筋を見定める――鈴音の視線は、日葵の竹刀の軌跡を追う。ヒュンと短い風切り音がして、日葵の竹刀が消える。

 否、竹刀が回転した。彼女の手首を軸に、ぐるんと。内に一回転。外に一回転。そのたびに追撃が放たれる。ただ振り回されるばかりではなく打突も正確だ。マーチングバンドのドラムメジャーがバトンを振り回すような、抜群の竹刀捌き。

 宝珠山の撫子もまた、全身をつかった〝円〟の動きを得意としていたが、あちらは動きが大きくてバレバレなのに疾い「分かっていても防げない」一刀がウリだった。一方で日葵のそれは、そもそもどこから竹刀が振って来るのか分からない。面が来たかと思えば小手。小手かと思えば面。または突き。

 金剛力士像ではなく、三面六臂の阿修羅を相手にしているような気分だ。

 しかしながら、鈴音もこのまま気圧されっぱなしではいられない。攻める機会を伺うが、日葵の変幻自在な竹刀捌きを前にして、打ち筋が全く見えなくなっていた。

(これが、本当の日葵先輩……)

 鈴音がこれまで生きてきて、「勝てないかもしれない」と思った試合は何度だってあった。でも「かもしれない」であって、勝てるための努力や試行錯誤を怠ったことはない。圧倒的な実力を持つ黒江に対してだってそうだった。

 だが、今回ばかりは生まれて初めて「勝つ方法が分からない」絶望の淵に立たされる。いや、鈴音にとっては絶望ではなく希望の縁だ。上段との戦い方、または上段での戦い方。高校になって使える技も、使えるスタイルも増えた。まだまだ自分の剣道に限界はない。使える武器を全部使って、自分はもっと強くなる。

 負け惜しみでなく、これはそういう敗北なのだと、心の底から受け入れられた。

 ズドンと、雷のような一撃が、鈴音のメンを貫いた。



* * *



「日葵先輩!」

 竹刀を収めて終えてすぐ、私は面を外すことすらせずに日葵のもとへと駆け寄った。興奮していた。すごい剣士に出会ったっていう高揚感と、すごい剣道を見たっていう高揚感と、それを教えてほしいっていう高揚感と、単純に負けた悔しさもあって、なんかもう、いろいろ。

 ただ、感情ぐちゃぐちゃだったせいか、最初の一声が思いつかずにもごついてしまう。なんて声をかけたら良いんだろう。ああ、なんかもう、全然言葉がまとまらないので、とにかく一番聞きたいことをそのまま口に出すことにした。

「手首の鍛え方教えてください!」

「お前、第一声それかよ」

 案の定、中川先輩に怒られてしまった。いや、だって、手首を鍛えることは黒江にもずっと言われていたことだし……私がこれからどういう剣道を習得していくにしても、一番のウィークポイントになると思っていたから。

 そこに、これ以上ないんじゃないかっていうくらい一流の手首を見せられてしまったら、そりゃ手本にしたいと思うものだ。

「ぷっ……あははっ。鈴音ちゃんは面白いしいい子だね」

 日葵先輩にも笑われてしまった。しかも、不本意な「おもしれー女」認定も追加されて。

「でも、先輩、これ絶対に試合でも使うべきですよ。てか、もう使えますよね?」

「いや、それはどうだろう……だって知らない人と戦うの怖いし」

「いや、そういう怖さと比べたら、昔の部員の気持ちが分かるくらい、日葵先輩の方が怖かったですけど」

「え!?」

 日葵先輩が、ぎょっとして顔を青ざめさせる。しまった。つい本音が。

「違うんです! 怖いけど、挑みたくなる怖さっていうか! ゲームでラスボスに挑むような感覚っていうか! なんていうか……気持ちがいい怖さなんです!」

 ヤバイ。とりあえず取り繕ってみたけど、自分でも何言ってるのかよくわかんないや。日葵先輩もよく頭に「?」を浮かべて、驚いたらいいんだか、喜んだらいいんだか、よく分かんない表情で口をぱくぱくさせる。

「と、とにかく、上段を覚えるなら日葵先輩みたいな使い手になりたいってことです!」

 もってけ泥棒と、さらに取り繕うように付け加える。すると先輩は、恥ずかしそうに赤面しながらはにかんだ。

「そ、それは私の口からは『どうかな?』ってしか言えないけど……でも、嬉しいよ。ありがとう」

 私はもっと強くなれる。先生の言う通り、まだ知らない色んな武器を手に入れてみれば。そして、使いこなせば。

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