オール・フォー・ワン
カーテンの隙間から漏れた日差しを受けて、私は目を覚ました。寝ぼけ眼をこすりながら身体を起こすと、周りの部員たちはまだ静かな寝息を立てていた。
そうだ、今、合宿中だったんだっけ。時計を見たら朝の六時前。だいたいいつも起きる時間だ。合宿の起床時間は六時半だから、アラームもそれでセットしたんだけど、日ごろ培われた体内時計ってやつはなかなか強力だった。
あと三〇分寝ても良いかなと思ったけど、身体がしっとり寝汗で濡れているのに気づく。気持ち悪いな……軽くシャワーでも浴びることにしよう。髪さえ濡らさなきゃ、みんな起きる時間に間に合うはずだ。
一階に降りて浴室へと向かう。昨日、どうにか入ることができた自慢の温泉だったけど、無色透明な水質のせいか、いまいち「温泉!」って感じはしなかった。多少、お風呂上りのお肌がつるつるしていたかな?
合宿中、湯船をためて良いのは決められた入浴時間の間だけなので、今はカラになっているはず。だというのに、脱衣所に入ったところで、先客の衣類の存在に気付いた。
え、こんな時間に誰?
ぼんやりと、さっきの大部屋の光景を思い出す。私の他に、カラになった布団はあっただろうか?
うーん……思い出せない。まさか不審者かとも思ったけど、カゴの中で畳まれた衣類は女の子のものだった。このスポーツウェアのデザイン、見覚えはあるんだけど、誰のだったっけ?
気まずくなるのも嫌だなと想い、やっぱり入るのをやめるか躊躇したけど、これから練習やらが始まって汗だくになることを考えたら、やっぱり一回サッパリしておきたい。私は衣類を脱ぐと、おそるおそる浴室の扉を開いた。
思った通り、洗い場に先客がいた。長い髪の毛を洗い終えたらしい彼女は、毛先の水をぎゅっと絞ってから、くるくると頭の上に乗せるようにまとめ上げる。同時に、浴室に入って来た私の存在に気づいた。
「あれ~、鈴音ちゃんじゃん」
安孫子先輩が、八重歯を見せて悪戯に笑った。私は、扉を開ける決断をしたことをひどく後悔した。
「どした? シャワー浴びに来たんじゃないの?」
「あ、ええ、はい」
やっぱりやめますとも言えず、仕方なく洗い場の椅子に腰かける。浴場は、奥に湯船があって、手前の洗い場は左右の壁に蛇口がふたつずつ、人が背中合わせに座るように配置されている。流石に先輩のすぐ隣に座るのは気が引けたので、背中合わせのほうを選んだ。
「え~、そっちいっちゃうの? 避けられたみたいで、傷つくなぁ」
「えと、並んだら狭いじゃないですか。ふたりしかいないんだから、広く使いましょうよ」
「うーん、それもそうか」
それらしい断りを入れたら、先輩も納得してくれたようだ。身体を洗うんだろう、タオルで泡を立てる音が、背中越しに聞こえてくる。私も髪の毛が濡れないようにタオルで巻くと、シャワーでざっと汗を流す。まとわりついた不快感がなくなって、それだけでサッパリと清々しい気分になった。
「鈴音ちゃん、どう、合宿は?」
「大変ですね。慣れないことも多いし」
「中学のころは合宿なかった?」
「ありましたけど、ご飯の準備とか、全部保護者がやってくれたので。今思うと、頭が上がりません」
こうやって全部自分達でやらなきゃいけないなんて、ちょっとした林間学校だ。でも、たぶんそれが高校の合宿なんだろうなと思う。スポーツ少年団なんかで選手たちのために休日を投げうって、練習や大会のサポートをする保護者たちは、ほんとに大変な思いだっただろう。もちろん、嫌々やってくれていたわけではないと思いたいけど、当たり前の事のように享受していた過去の自分に教えてやりたいものだ。
「日葵はうまくやれてる?」
「うまく、というと?」
「えっと、ちゃんと先輩できてる?」
質問の意図がよく分からないけど、私はとりあえず頷く。
「良くしてもらってます」
「そっか、ならいいんだけど」
そう返した先輩の笑いは、どちらかと言えば苦笑に近い。まあ、あの日葵先輩だしな。心配する気持ちは分かる。
「日葵先輩って、剣道強い……ですよね?」
「うん? それはどういう質問?」
「素振りとかいつも圧倒されるし、地稽古とかも、なんていうか目を奪われるのに――」
「試合だと弱くない? って?」
そこまでハッキリ言うつもりはなかったけど、言いたいのはまさにその通りだ。私の無言を肯定だと察したのか、安孫子先輩は、今度こそ思いっきり笑い声をあげた。
「あっはっはっ。まあ、その通りだよ。私も小中って色んな環境や、いろんな人とで剣道やってきたけど、たまに居るんだよね。練習だとすっごく上手いのに、大会だと実力が全く出せない子」
「まあ、そう人がいることは知ってますけど」
「日葵はその典型みたいなもの。彼女の場合は、まあ鈴音ちゃんは知っての通りだと思うけど、あの図体に似合わない引っ込み思案のせいだよね」
「それだけで、あんなに差が出るもんですか?」
「日葵ってさ、見るからに強そうじゃん。おっきいし、実際に上手だし」
「まあ」
「そうすると、対戦相手も『飲まれちゃいけない!』って思って、いつも以上に気合入れて来るんだよね。そうなったら、あの子のことだもん。もう委縮しちゃって、いつもの動きなんてできないさ。ただでさえ人見知りで、初めて会う人と戦うの苦手なのに」
それって、こう言っちゃあれだけど、剣道……っていうか、試合するのが向いてない人ってことなのかな。武道としての、稽古で自分を高めることはできるけど、競技の根本である「人と戦う」ことへの適性が全くないんだろう。
「心身を鍛えるために剣道やってるならそれでもいいんだけどね。悲しいけど、これは部活の高校剣道。それじゃあだめなのよね」
「誰のモノマネですか?」
「いや、分かんないけど」
先輩は、仕切り直すように小さく咳払いをする。
「日葵は強い。須和黒江は除くとしても、この部で一位二位を争うくらいに」
「私もそう思います」
「だったら鈴音ちゃん、ひとつお願いされてくれないかな? 次なる指令を与える!」
え……?
なんだか嫌な予感がして、咄嗟に全身が強張る。前回の指令と言えば、黒江を剣道部へ引き込むこと。すごく大変だったのに、結局今みたいな感じにしかできなかったのに。
私の気も知らずに、安孫子先輩は、泡だらけの身体でビシリと私を指さす。
「日葵のあがり症を克服せよ――とまでは言わないけど、試合で使い物になるくらいにして! お願い!」
指令っていうか、ほとんど懇願だった。
「む、無理ですよ! 私、カウンセラーとかでもないんですから」
「と言っても、この合宿中に日葵と一番一緒にいるのが鈴音ちゃんになるでしょ?」
「中川先輩だっているじゃないですか」
「いや、中川ちゃんには頼めないでしょ……ねぇ」
察してって感じで同意を求められた。まあ、私も強く否定はできない。
「わかった。じゃあ、せめて、日葵が大会で上段を使えるようにして」
「何が『わかった』で、どこが譲歩されたんですか?」
そもそも「上段を使えるようにして」ってのが意味わからない。勝手に使えばいいじゃん。私の見る限りでは、一線級の練度で習得してるのに。
「いやぁ、そこがまた複雑な事情があってね……まあ、ちょっと詳しくは本人に聞いてみて」
「いや、そんな丸投げな……」
「一年の時の課題を聞けば、たぶん鈴音ちゃんなら教えてくれると思うよ。教えて貰えなかったら、教えて貰えるよう頑張って信愛度を上げてね」
そんな、実績開放みたいに言われてもゲームじゃないんだからさ。
「そんなに心配なら、先輩が自分でやれば良いじゃないですか。一年の私より、三年いっしょに稽古していた先輩の方が適任ですよ」
「そうしたいのはやまやまだけど、私はダメなんだ」
「どうしてです?」
「私も、少しでも強くならなくちゃいけないから。鶴南や沢産の選手に勝てるように」
先輩に対して失礼なのは承知の上で、それは、私にとって予想外の言葉だった。部長や熊谷先輩みたいな、見るからに向上心まるだしな人はまだしも、安孫子先輩にはそういう気配を微塵も感じたことが無かったからだ。
こう言うとあれだけど、楽しく部活できれば良いよねっていうタイプの人だと思ってた。もちろん、黒江を部に引き込もうとしたり、大会で勝ちたいって気持ちはあるんだろうけど。
なんていうか「自分が勝ちたい」って思うタイプの人だとは、これまで感じたことがなかった。
「今年が、最後のチャンスですもんね」
先輩も三年だ。高校最後の大会と考えれば、気合も入るだろう。
「確かにそうではあるんだけどさ……私がっていうか、穂波が最後のチャンスだからさ」
突然、全く関係ない人の名前が出てきて私は混乱してしまった。何で今、部長が出てくるの?
「鈴音ちゃんさ、穂波の中学の個人戦最高成績、何位だと思う?」
「なんですかいきなり」
ほんとに何なんだろう。そんな、知りもしないこと聞かれたって……と思いながら、私は昨日、黒江に言われたことを思い出す。
「えっと……全国ベストエイトとか?」
すると、先輩はまた声をあげて笑った。
「鈴音ちゃん、部長のことかってるねぇ。ブブー、残念。正解は県ベストエイトでした」
「え? 県?」
「そ、県。くじ運が良くなくってね、ベストエイトで当たったのが、その年の優勝選手だったんだ」
それはまた、ご愁傷様というか。仕方がない、どこか納得できる結果だろう。
「あんなに強いのにね。本人も、全国に行くのが目標で頑張ってるんだけど……くじ運が悪いんだよねぇ。毎度毎度」
「ちなみに高校ではどうなんですか?」
「一年がベストエイト、二年がベストフォー。もちろん、私らみたいなひと山いくらの剣士と比べたらすごい戦績だけどさ」
そこまで言って、先輩の声のトーンがちょっぴり落ちた。突然のことに、何か地雷でも踏んでしまったのかとドキリとする。
「一年の時の個人戦でさ、下級生では穂波が唯一出場させて貰えたんだけど。それでベストフォー目前までいって、すごいじゃん、二年後は優勝だねって、私らは喜んでたんだ。でも――」
先輩は、昔のことを懐かしむように苦笑する。
「あの子、大泣きしたんだよね。『悔しい―!』って。相手はそれこそ当時の三年の優勝候補――実際、優勝して全国に行った相手だよ。一年で健闘したなら、むしろ喜んで良いくらいじゃん。でも穂波は、勝って全国に行くつもりだった。胸を借りるとか、そういう気持ちは一切なくって、倒して自分が優勝するつもりだった」
語られた光景を見たわけじゃないのに、どうしてか私の脳裏には、はっきりとその時の状況が思い描けるようだった。たぶんそれは、自分の記憶に部長の姿を当て込んだだけ。全国を目指して、でも勝てなくって、悔しくて泣いていた自分の姿に。
「その時に、穂波以外の私たち現三年は、みんな同じことを思った。あこや南高校剣道部は、八乙女穂波を全国へ連れて行くために強くなる――って」
その言葉で、ようやくいろんなものに納得がいった。黒江を無理にでも入部させようとしたのも。私に、すぐにでも黒江に勝つようせがむのも。試合が苦手な日葵先輩を、普段の実力が発揮できるよにしたいのも。
そして安孫子先輩自身が、少しでも強くなりたいともがくのも。
「日葵先輩のこと、やれるだけやってみます。何ができるのか、まだわからないけど」
納得してみると、自分でもびっくりするくらい素直にその言葉を口にできた。全国へ行きたい。その気持ちは、きっと日本中の高校剣士が思っている。だけど私は今、あこや南高校剣道の一員だから。この部が全国に行くために、できることをやるべきだと思った。
望むことは誰でもできる。でも、成し遂げるのがどれだけ難しいことか、私もよく知っているから。
安孫子先輩が、ニンマリと笑顔を浮かべて笑いかける。
「頼むよ、期待の新人!」
「戦力って意味では、竜胆ちゃんの方が上だと思いますけどね」
練習試合の時のオーダーを思い返せば、一年生では竜胆ちゃんが正レギュラーの候補だ。でも、私だって諦めたわけじゃない。部長の話を聞かされたせいかもしれないけれど、内なる闘志が密かに燃え上がり始めたのを感じていた。
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