好きにしたらいい
「稽古、終わったねぇ」
しみじみと竜胆ちゃんが呟く。私は、ほとんど話半分で頷く。
「そうだねぇ」
「お腹、減ったねぇ」
「減ったねぇ」
「ところで、あたしらなんで温泉入ってるんだっけぇ?」
「はぁ~」
返事の代わりに溢したため息は、極楽浄土の湯煙に消えていった。
試合のあとの合同稽古ですっかり体力も汗も搾り切った私たちは、宝珠山のご厚意で寄宿舎備え付けの温泉施設を貸してもらっていた。と言うのも、稽古後のシャワーは乙女のたしなみなわけだけれど、山の上の宝珠山高校にそんな設備はない。汗を流したかったら、先ほどの清水さんみたいに水浴びをするか、こうして寄宿舎まで戻って温泉に入るかの二択だそうだ。
「水浴びか温泉だったら、温泉選ぶよねぇ」
「だよねぇ」
そんな、まったく中身の無い問答を、竜胆ちゃんと一緒にかれこれ十分は繰り返している。脳みそはすっかりねるねるねるねで、なぁんにも考えたくない。ただこの心地よさに身を委ねるだけ。毎日温泉入れるの、ずるいなぁ。練習の疲れもあって、そのまま船をこいでしまいたくなる。
寄宿舎は、昔の宿坊を改装したものらしい。建物は古いが、内装は綺麗でそれこそ旅館のようなホスピタリティを感じる。流石はお嬢様学校。
「おい、一年。洗い場空いたから使って良いぞ」
あやうく眠りかけたところに、中川先輩の声が響く。肩にタオルをかけた男らしい恰好でやってきた彼女は、そのまま湯船にじゃぶじゃぶ足を踏み入れて、ど真ん中に腰を下ろした。
中川先輩を皮切りに、洗い場を使い終えた先輩たちが次々湯船にやってくる。温泉とは言え、いち学校の合宿施設のものだ。決して旅館のそれほどの広さがあるわけじゃない。あっという間に人口密度が上がってきたので、私たち一年は、半ば押し出されるように洗い場へと向かった。
湯船に浸かる前のマナーとして、最初にざっと汗を流しはしたものの、やっぱり石鹸でちゃんと洗わないと落ち着かないものがある。私は桶でたっぷり泡を作って、丁寧に身体に塗りたくっていった。
「うわ、鈴音ちゃん泡すご!」
タオルで髪をまとめていた竜胆ちゃんが、私の泡を見てぎょっとする。
「私、泡作るの得意なんだ。たぶん余るから、分けてあげようか?」
「マジ? 貰う~! てか、すっぴんあんま見ないで!」
「ええ、そんなこと言われても」
桶に残った泡を彼女の背中におすそ分けして苦笑する。そんなこと言われたら、むしろ凝視してしまいたくなるじゃないか。別に、見ないでっていうほど変じゃないっていうか、むしろ相変わらず可愛い方だと思うけど。
「竜胆ちゃんって、お化粧どこで覚えたの?」
「えー? 動画とか見てだよ。ウチ、何もない島だからさー、動画見るか身体動かすかくらいしか、娯楽なかったんだよね」
「お化粧品は、こっち来てから揃えたの?」
「んーん。島に居た時から、お小遣いで少しずつ。届くまでめっちゃ時間かかるけど、ちゃんと通販も使えるから。今は街に行けば買えるから楽になったね」
つまり、半分趣味みたいなものだったってことかな。私だって興味はあったけど、まだ早いかななんて思っているうちに気づいたら高校生だ。一応、お母さんに最低限のことは教えて貰ったけど、何て言うか、どうしてもジェネレーションギャップはあるよね……少なくとも今風ではないと言うか。
「今度、おすすめのショップと動画教えてよ」
「いいよー。今度、一緒に買いいこ。時間あればだけど」
「あはは、行きたい。時間あれば」
少なくとも、県予選まではみっちり部活の日程が入っている。もちろん一日中稽古してるわけじゃないから、午後から時間のある日もあるけど、稽古後の体力で街へ繰り出せるかは謎だ。南高の生活と稽古スタイルに慣れてくれば、余裕も出るんだろうけど。
「須和さんも、良かったらおすそ分け」
竜胆ちゃんにあげてもなお残った泡を、傍らの須和さんにもおすそ分けしようと差し出す。すると、彼女はすくりと立ち上がって、私のことを見下ろした。
「もう洗い終わったからいい」
「あ……そう。ごめんね」
私の声を背中に受けながら、彼女はすたすたと脱衣所の方へ向かって行く。もっかい湯船に入ってかなくていいのかな。せっかくの温泉なのに。お風呂、あんまり好きじゃなかったり?
行き場を失った泡は、仕方なく、自分の胸元に載せておいた。
全身くまなく洗い終えた後、もう一度軽く温泉を堪能してから脱衣所へとあがる。乙女のお風呂は、洗い場の順番待ちだけじゃ終わらない。ここからが第二ラウンド。ドライヤー争奪戦が始まる。
しかしながら、これに限っては、年功序列もあまり関係なく、髪が短い順になりやすい。すぐに乾く人から順に使って、時間がかかる長髪の人が後に。「どうぞどうぞ」なんて譲り合いが起きることもあるけど、基本的には早く乾く人からやった方が効率がいい。
そんな暗黙の了解にあやかって比較的早めにドライヤー権を貰えた私は、先に寄宿舎の外へと出る。ほてった身体を冷ましたかったのもあるけれど、他にもやるべきことがあった。
「あ……いた」
寄宿舎の外の石段に腰かける、須和さんの姿があった。とっくに髪も乾かして身支度を整えていた彼女は、傍を流れる川のせせらぎに耳を傾けながら、さらさらの髪を風になびかせていた。
「苦手なの? お風呂」
声をかけると、須和さんは振り返って首をかしげる。
「かなり早く出てったから、そうなのかなって」
「お風呂は好き。温泉も。でも、ドライヤーの順番待ちをしたくないから」
「先に上がって済ませようってわけね」
笑いながら、須和さんの隣に腰かける。彼女は何も言わずに、澄んだ川の流れをぼんやりと眺めていた。
私もそれに倣って小川を眺める。お魚でもいないかなと思ったけど、それらしい影は見当たらなかった。なんとなく探していただけで、別に意味があったわけじゃない。意味のない時間を過ごせることが、どこか嬉しかった。
「私、勝ったよ」
「知ってる」
知ってるって、そりゃ見てたんだから知ってるだろうよ。どうせならもっと別の言葉をかけて欲しかったけど、須和さんにそういうのを期待する方が間違っているんだろうね……少しずつだけど、適度な距離感が分かって来たような気がする。
「少し、狙いすぎだった。決め打ちするにも、もう少し自然に待たないと」
「あはは……手厳しいね」
こういうところもきっと〝らしい〟んだろう。めげないぞ、私。
だからと言って他の話題も見つからずに、またしんみりと意味のない時間を過ごす。そろそろ、みんな支度を終えて出て来るかな。あと少しの間だけなら、こうしているのも悪くない。
「三本目」
そう思っていたら、須和さんがぽつりとつぶやいた。ひとりごとには思えなくて、釣られるように顔をあげる。
「何が見えた?」
「え?」
聞かれている意味が分からず、私はそのまま固まってしまう。何が見えていたかって、試合場の風景だけど……え、たぶん、そういうことじゃないよね。
「秋保さんは、試合中、何を見てる?」
私が答えあぐねているのを見てか、須和さんが言葉を選び直す。
「何をって……試合の相手?」
「他には?」
「審判の旗……は、そんな見てないか。決まったら決まったって分かるし」
「他には?」
「えええと……それぐらい」
たぶん間違ってないと思う。相手と私とコートのうえでふたりきり。それが、私の世界の全て。須和さんが、同意するように頷く。
「私も同じ」
「集中すると、他の情報何にも入ってこないよね」
「だからこそ……他に見えるものがあるなら知りたい」
彼女の言葉に、珍しく感情が乗っているような気がした。絞り出すように。もしくは、なくしたものを探すように。どこか諦め交じりの必死さ。
「秋保さんは、何も見えなかった?」
須和さんの双眸が、じっと私を見つめる。私の瞳を捉えて離さない。離せない。私は瞬きも忘れたまま、ごくりと生唾を飲んだ。
「他には何も見えてないよ……たぶん」
「……そう」
興味を失ったように、彼女の視線が外れる。いったいなんだったんだ。温泉でのぼせたのか、顔の周りが汗ばむほどに熱かった。
「もし、何か見えるものがあったなら教えて」
「何かって……何が見えるんだろう」
「分からない」
でも――と、彼女は言い添える。
「私はずっと、その答えを探していた」
この話はそれっきりだった。何で過去形なのかとか、じゃあ自分で探せばいいじゃんとか、私の疑問なんか受けつける余地もなく、それ以上踏み込んでくるなっていうオーラみたいなのをひしひしと感じていた。
「ところで、鈴音って呼んでも良い?」
「今、このタイミングで?」
突然話題が吹っ飛んで、私はよく分からないテンションで、驚いたように聞き返す。
「ところでって言った。〝あきう〟って、発音しづらくて」
「え、そんな理由? しっかり発音できなくても〝あきゅー〟とかで十分だよ」
だいたいみんな、そんな感じだし。むしろちゃんと〝あきう〟って呼んでくれる人の方が少ないんじゃないかな。
「それだと阿Qみたいでなんだか嫌」
「何それ」
「『阿Q正伝』知らない? プライドの高い男がノリと自尊心だけで生きて破滅する小説」
「知らないけど、何か嫌だね」
「私も、話してる相手が阿Qみたいに思うのは嫌」
なんて理不尽な……私、ただのとばっちりじゃん。誰だよ、そんな話書いたの。そして須和さんの目に止まるところに置いた人!
「良いよ、好きにしてくれたら」
私は苗字が良いとか、名前が良いとか、こだわりがあるわけじゃないし。竜胆ちゃんは名前で呼ばれるのが好きみたいだけど――
「あっ」
竜胆ちゃんのことを思い出したついでに、もうひとつ思い出したことがあった。そう言えば彼女に、こんなこと言われたっけ。
「じゃあ、私も黒江って呼んでも良い? 片方だけ名前で呼ぶだなんて、不公平だし」
不公平の意味があの時とは違うけど。彼女は少しだけ考えてから、私のことを小さく鼻で笑った。
「不公平だなんて微塵も感じないけど……好きにしたらいい、お互い」
「そうだね、好きにする」
そんなやり取りが何だか回りくどくて、可笑しくて、いつの間にか私も笑っていた。久しぶりの試合に、久しぶりの勝利。そして、かつての宿敵は、たぶん、友達になった。
今日は良い日だ。ううん、そうじゃなくて。私は、ここへ越して来たことをきっと、生涯のいい思い出にする。
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