存在の証明

「残りは時間が許す限り地稽古にしましょう」

 尼さん顧問の指示で、みんなそれぞれに防具を装着し、準備を始める。

「すみません……私、お手洗いに行って来て良いですか?」

「うん? ああ。道場出て裏の方だ」

「ありがとうございます」

 鑓水先生の許しを得て、私はみんなとは逆に防具を全て外して、壁際に寄せて置いた。一礼をして道場の敷居をまたぐと、自分だけ世界の外にはじき出されたような感覚だった。


 お手洗いに行きたいのは本当だけど、本当の本当は、少しだけひとりになりたかった。竹刀から伝わった決勝打の感覚が、まだ手のひらに残っている。

 勝った……んだよね?

 みんながそう言うからそうなんだろうけど、私の中では何ひとつ実感がなかった。とにかくいっぱいいっぱいで、やれることを全部やった。勝ちたい気持ちはもちろんあったけど、それ以上に、ほんの数日間でも須和さんに教えてもらった剣道で負けるってことが嫌だった。私が敗けたら、須和さんが敗けたみたいになっちゃう。それだけは、私自身が許せなかった。

 須和さんは負けないから須和さんなんだ。それは、彼女が剣道を辞めた後でも変わらない。


 不意に、道場の裏からバケツの水をひっくり返したような音が響いた。思わず立ち止まってしまったけど……今のってたぶん、お手洗いの方?

 私は恐る恐る、建物の角から顔を出して様子を確かめる。

「ぎゃっ!?」

 悲鳴が漏れても、オシッコ漏らさなかったことは自分を褒めてやりたい。道場の裏に、死装束を着たお化けがいた。全身ずぶ濡れの、たぶん〝彼女〟は、顔面にべったり張り付いた黒髪から水を滴らせて、血走った眼で私を睨みつけた。

「サダコ!?」

「誰がサダコですか!」

 オバケが濡れた髪をかき上げる。清水さんのシュッとした蛇顔が現れて、私は別の意味でドキっとした。よくよく見れば、死装束だと思っていたのも上下白の宝珠山の道着だった。

「何……してるんですか? ドジっ子?」

 上手く言葉が出て来なくって、思わずそんなことを口走る。目の前にずぶ濡れの人が居て、その足元にバケツが転がっていたら、そう思ってしまうのも無理はないよね。

 でも違ったらしく、また清水さんに睨まれてしまった。

「頭を冷やしていただけです。そういうあなたは、私を笑いに来たのですか?」

「え!? そんなことは決して……あの、トイレに」

「ご不浄ならその先です」

 清水さんは、奥の扉を指さしてから手洗い場の傍らに置いた手ぬぐいを手に取る。私はそそくさと退散するみたいに、トイレへと逃げ込んだ。


 用を足して戻って来ると、清水さんは縁側に腰かけて頭から手ぬぐいをかぶっていた。眠っているかのように穏やかで、規則的な吐息が、すーすーと零れている。邪魔をしちゃ悪いなと思って、私は声をかけずに水道で手を洗う。そのまま冷たい水で顔を洗うと、少しだけ心もサッパリした。

「あなたは、須和黒江の何なのですか?」

 不意に響いたその声が、自分に向けられたものだと気づくのに少しだけ時間が必要だった。そりゃ、状況だけ見ればここには清水さんと私しかいないのだから、当然私に話しかけてるってのは分かりそうなものだけど。それでも、清水さんが私に用があるだなんて、これっぽっちも考えていなかったから。

「何って……何なんでしょうね?」

「……質問が悪かったですね。あなたはいったい何者ですか?」

 清水さんは、手ぬぐいをかぶったまま、顔も上げずに聞き直す。何者って、そっちの方が答えるのが難しいんだけど。

 あこや南高校一年、秋保鈴音。出身は北海道です――なんて、そんなことを聞いてるわけじゃないだろう。

「いつか須和黒江を倒す――というか、倒したいなぁって思ってる剣士です」

 言い切るのが恥ずかしくて、最後の方は日和ってしまった。まったくもって締まらない。その心を見透かされてか、清水さんが盛大なため息をついた。

「つまり、同じ穴のムジナというわけですか」

 彼女は静かに顔を上げて、手ぬぐいで顔や髪の水滴をぬぐう。そのまま道着の合わせをはだけて身体も拭き始めたので、私は思わず目を逸らしてしまう。

「宝珠山には女性しかいませんから大丈夫ですよ」

「別にそういうわけではなく……」

 やっぱり、山暮らしは乙女の身も心も開放的にしてしまうんだろうか。すっかり崩れ去ったお嬢様学校のイメージと共に、みんなが〝山猿〟と称する理由を理解してしまったような気がした。

「秋保……下の名は、何というのですか?」

「え、私ですか?」

「他に誰が?」

「えっと……鈴音ですけど」

 しどろもどろに答えると、清水さんはつぶやくように私の名前を反芻する。それからはだけていた襟を正して、ビシッと、元の凛々しい姿に立ち直る。

「秋保鈴音。次は大会で相まみえましょう」

「あの、は、はい」

 彼女があまりにハッキリ言い切るものだから、私は半ば頷かされてしまった。

 次は大会で――青春ものの漫画でしか見ないような台詞がこそばゆかったけど、それはたぶん嬉しい意味でのこそばゆさだ。私という剣士が、今ここでようやく存在を許されたような気分だった。


 なお、遅れて稽古に合流した私たちが組まされるのは必然で、「次に相まみえる機会」が思たよりすぐやってきたきまずさだけは、拭い去ることができなかった。


* * *


 与えられたものは圧倒的な敗北だった。

 これが文字通り「手も足も出ない」ということなのかと、生まれて初めての感覚に戸惑いすら覚えた。

 人に言うと「またまた、そんなことを言って」と煽てられてしまうが、私は人生で一度たりとも、自分が天才だと思ったことはない。天才というのはこの場合、常人では考えられないことをやってのける〝非常識〟な人間だということだ。

 小さい頃は、むしろ失敗ばかりだった。そのくせ好奇心は旺盛なものだから、やたらめったらに手を出しては、痛い目を見る。愛犬の〝龍田号〟に噛まれた時も、新しい家族に初めて顔を合わせて興奮した私が、不用意に抱き着いたせいだ。

 ちなみに犬種はボーダーコリー。英国では牧羊犬として育てられる勇敢で賢い子。中でも龍田号は、若干クセのあるふわふわした毛並みが可愛い。

 あの子のことは置いておいて。私に才があるとしたら「失敗を失敗のままにしない才能」もしくは「諦めの悪い才能」だ。失敗したものは、成功するまで諦めない。失敗したままの自分が許せない。それは自分がいずれ人の上に立たなければならない人間だからこそであり、ある意味で清水家の帝王学だった。

 なんなら「人の上に立つ才能」と言い換えても良い。私は、それを背負って生きて行く。それが〝清水撫子〟という生き方だった。


 だからこそ、須和黒江に負けたことは私にとって衝撃的な出来事だった。剣道はスポーツなのだから負けることはある。比較的優秀な成績を残している薙刀や柔道であっても、全国で一番の実力を持っているでもなし。無敗の王者でもなければ、他の選手よりも少しばかり優秀なだけだ。もちろん、並の選手に負けるつもりはない。

 しかし、私は出会ってしまった。中三の夏、最後の県大会で、無敗の王者と。その強さは、まさに非常識だった。

 県内に強い選手がいることは知っていた。私が中学二年のころにも、若干中一の須和黒江は県大会で優勝し、全国を勝ち抜いていたのだから。だが、そのころの私は「下の代にちょっと強いヤツがいる」くらいにしか彼女のことを認識していなかった。

 私の方はと言えば、他にも多様なスポーツに手を染めていたし、学年も二年。まだ先がある身。須和黒江のことを下に見ていたというよりは、私自身が切羽詰まるほど追い込まれていなかった。


 だが、中三の夏。私は彼女に負けた。


 そもそも、須和黒江と実際に剣を交えたのは、その時が初めてだった。彼女の試合は何度か目にしているが、感じた評価はやはり「下の代の強い子」だ。

 しかしながら、目にするのと、実際に戦うのとでは全く違った。手も足も出なかった。どこに打ち込んでも、または打ち込まなくても負けると思った。

 勝利への道筋が見えなかった。

 諦めない方法が分からなかった。

 生まれて初めての感覚に、私は戸惑うことしかできなかった。


 もちろん私は負けた。中学最後の大会で何の結果も残せずに負けた。まあ、そんなことはどうだっていい。ただただ悔しかった。負けた自分にではなく、勝ちを諦めてしまった自分がどうしようもなく許せなくて、悔しくて、悔しかった。


 だから二度と勝つことを諦めないと誓った。必ず須和黒江を倒して、あの日、コートの上に置いてきた〝清水撫子〟を取り戻すと。


 高校に入ると同時に、私は剣道以外のすべての習い事をやめた。他の競技と兼部するような生半可な覚悟では、悲願を成し遂げられないと思った。宝珠山を選んだのは実家の方針だったが、毎日の生活そのものが修行という環境は私も気に入った。寄宿制のため、老齢になった龍田号と離れ離れになることだけが寂しかった。

 自身のプレイスタイルも見なおした。勝利への道筋が見えなかったのは、「あの頃の私が知りうる剣道では、須和黒江に勝つ方法が存在しない」からだ。非常識には非常識で対抗するしかない。だけど私自身は非常識ではないから、せめてもの抵抗で選んだのが〝型破り〟だった。


 薙刀で身に着けた〝巴〟を剣道に取り入れる。


 そのために様々な構えを試したところ、一番しっくり来たのが下段だった。下段が現代剣道では不利な型であるのは承知している。仲間たちにも「意味が無い」と一度は止められたし、私も成功できるか自信はなかった。だが、成功させなければ須和黒江に勝てない。それだけが、私を突き動かす原動力となった。

 顧問の藤先生も「面白いのでやってみなさい」と、思いのほか肯定的だった。厳しくも優秀な先生のことは尊敬しているが、本心で何を考えているのかよく分からないところは正直苦手だ。


 そうして私は、下段〝巴の型〟を習得するに至ったが、まだ完成とはほど遠い。常識的な試合であれば、正眼の構えの方がいくらでも容易に勝てる。だが、ひと握りの非常識な剣士を相手にしなければならない時、私自身も型破りを持って対抗するだけの手段は得た。それでいい。それだけで、私は諦めることをせずに済む。


 いずれ須和黒江を倒す時まで、私は私を決して手放しはしない。

 〝清水撫子〟こそが、無敗の王者に敗北を与えるのだ。

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